岩波書店「世界」2018年2月号 脳力のレッスン190特別篇 二〇一八年への確かな視座―――世界同時好況の落とし穴と閉塞感を超える視界を求めて
昨年末、ロンドン・エコノミスト誌は「二〇一七年の展望」(“THE WORLD IN 2017”)において、“PLANET TRUMP“というキーワードを提起していた。トランプによって惑わされる地球、迷走するトランプという二重イメージの言葉だと思われるが、正に二〇一七年の世界は「アメリカ・ファースト」に憑りつかれたトランプなる自己中心主義のリーダーに掻き回され、途方もない消耗を余儀なくされた。
そのトランプと強権化するロシアのプーチンに過剰接近する日本―――二〇一七年を振り返り、この連載で論及してきたことを再考し、二〇一八年を見つめたい。
二〇一七年という不思議な年―――政治リスクの高まりと異様な株高
二〇一七年一〇月に発表されたIMFの世界経済見通しによれば、二〇一七年の世界全体のGDP成長率(PPPベース)は三・六%の見込みだという。昨年、二〇一六年が三・二%成長であり、世界経済は拡大基調にある。しかも、マイナス成長ゾーンが無いという世界同時好況の局面にあり、昨年まで二年連続のマイナス成長に喘いだロシア、ブラジルもプラスに転じ、BRICSと言われた新興国がこぞってプラス局面となった。
不可解なのは、実体経済をはるかに上回る株価の上昇である。二〇一七年初のニューヨークDOW水準に比べ年末は二四%、日経平均は一七%も高騰している。「根拠なき熱狂」というべきで、冷静に世界を観察するならば、北朝鮮危機、中東湾岸産油国の不安定化、トランプ政権の迷走、ロシア・中国の政権の強権化など、政治的リスクが顕在化している中で何故か「株価」だけが高騰している。
理由は二つあるといえよう。一つは、トランプ政権がウォールストリートにとって都合の良い政権であり、「強欲なマネーゲーマー」を喜ばせているからである。「トランプ政権の本質」(5月号)として指摘したごとく、トランプ政権の経済閣僚の二人、財務長官のムニューチン、商務長官のW・ロスはともにウォールストリートの出身で、しかも「ハゲタカ投資家主導のトランプ政権」(FTの表現)とまでいわれる存在である。また、トランプ政権にも筋を通し、金融政策における出口戦略を貫いてきた中央銀行・FRBのイエレン議長の後任に「金融規制緩和」を主張するパウエル理事の起用を決め、二〇〇八年のリーマン・ショックを教訓にオバマ政権が二〇一〇年に成立させたドッド・フランク法(金融規制改革法)の廃止を加速させようとしている。ウォールストリートが拍手を送る性格を露わにしているのである。
もう一つは、「戦争経済の予兆」というべきで、産軍複合体といわれてきた米国の軍事産業が活況を呈しているのである。十一月のトランプがアジア歴訪でみせた武器・装備品、航空機の売り込みもあり、軍事産業が追い風を受けている。戦争は巨大な消耗にすぎないが、短期的にはその恩恵を受けて微笑む業界が存在するのである。
秋口からの日本の株高はもっと屈折した危うさを孕んでいる。株高の理由は二つあり、一つは、そもそも産業の実力以上の株高誘導がなされていたということでもあるが、GPIF(年金基金)と日銀のETF買いという公的資金約を約五六兆円も株式市場に注入しているからである。公的資金を投入して株価を支える特異な国が日本である。二つは、一〇月以降のヘッジファンド等の外国人投資家の短期資金の流入、約三・五兆円であり、健全な資本主義を毀損する歪んだ株高である。総選挙による与党勝利を見込んで、欧米が金融政策の出口にでているのに対し、日本だけが「異次元金融緩和」を続けざるをえないことを想定して短期資金が動いたのである。
一二月六日、トランプ大統領による「エルサレムに米国大使館を移転する」という決定を受けて、日経平均が四四五円下落し、その後乱高下する事態を迎えた。潜在する政治リスクがいつ噴出するか分からないという危うさを示したといえるが、短期資金を操るヘッジファンドの動きが株価を揺さぶっており、産業を「育てる資本主義」ではなく「売り抜く資本主義」のマネーゲーマーによって動かされていることを注視すべきである。
「幸運な二〇一七年」という言い方が妥当であろう。経済的には「米国の長期金利が比較的安定推移した」ことにより、新興国からの資金流出という危機が回避されたが、欧米の好況も臨界点に達し、中国にも陰りが見られ始めており、何かの「リスク要素」が噴き出るとマネーゲーム主導の株高が一気に変わる脆弱性を孕んでいることは確かである。
日本と米国ではマネーゲームを助長する政策誘導が主潮であるが、欧州では肥大化する金融資本主義を制御する動きがあり、バーゼル(国際決済銀行)での金融規制の動向やEUにおける「金融取引税」導入の動きなどが注目される。この時代の本質的課題が、「政治(デモクラシー)は経済(金融資本主義の暴走)を制御できるのかにあることを再確認した一年であった。
トランプとは何者なのか―――脱トランプへの視界
結局、トランプとは何者なのか。政権スタートから十一か月、結論が見えたといえる。政権発足直後から低迷していたトランプ政権の支持率だが、一二月五日現在のギャラップ調査によれば、支持率三六%、不支持率五九%と、危険水域を超えており、政権基盤は脆弱なままである。「ロシア・ゲート事件」はこれからが正念場であり、冷戦終焉直後の一九九〇年代に「唯一の超大国」とされた米国は、これほど貧弱なリーダーを抱えねばならないほどの混迷を深めている。
改めて、ドナルド・トランプだが、一九四六年、第二次大戦直後の戦勝国アメリカに生まれた。このベビーブーマーズといわれるこの世代の幼少期、一九五〇年代は米国の黄金時代であった。七〇年代、「ベトナム戦争の時代」に徴兵忌避に近い形でズル賢く青年期を生き、ウォートンのMBAを出て、父の事業を継いで不動産開発業者として「金儲け」に専心―――「自我狂」とでもいうべき自己主張を美徳とする価値観を身に着け、人生を貫くキーワードは「DEAL」(自分は決して損はしないという価値観)―――大人としての練磨した哲学、思想もなく、武器を売り込むしたたかさはあっても、世界をリードする指導国としての理念も構想も示さない
社会論者は「トランプ登場にも一定の意味がある」と考えたがる。かつて、ヒトラーやムッソリーニの登場に社会論的背景を求めたように、意味論的なこじつけさえ試みる。
例え、登場の社会論的背景を確認できたとしても、愚劣な人間が権力を持つことを拒否する意思を見失ってはならない。歴史は曲折を経ながら進むものであり、大きな歴史の流れに逆行する存在が一時的脚光を浴びることがある。だが、時間はかかっても歴史は大道を歩み、人間の尊厳を重視し、不条理と専制や抑圧を否定する方向へと向かうのである。
ボストン大学名誉教授(国際関係学、歴史学)のアンドリュー・ベーセビッチは、「トランプの何が問題なのか」(フォーリン・アフェアズ・レポート、2017・NO17)において、「啓蒙的アメリカ・ファーストへの道筋を描く」として、トランプが「十分な情報に基づかない衝動的で気まぐれな決定をする」ことを問題とし、ルーズベルト(FDR)以来の大統領権限強化を見直し、二つの大戦の戦間期に台頭した「アメリカ・ファースト」運動の本来的主張を想起して、大統領権限の制約を図るべしという主張を展開している。大統領が的確な判断力を持たない事態を想定し、大統領制の歪みを正そうというのである。
同盟国である日本が米国を信頼し、行動を共にするのはある程度妥当である。但し、米国の無謬性を過信してはならず、トランプに簡単に運命を預託してはならない。とくに、北朝鮮問題や中東問題に不連続な衝動で動きかねない危険を察知し、日本国民が不必要なリスクにさらされない賢さが求められる。例えば、日本自身の「非核政策」へのこだわりや中東の民族・宗教紛争からの適切な距離感・温度差が必要なのである。
「節目の年」二〇一七年の再検証――ロシア革命一〇〇年、宗教改革五〇〇年
二〇一七年は「歴史的節目の年」として、本誌の昨年二月号で「宗教改革五〇〇年、ロシア革命一〇〇年」という議論を提起した。率直にいって、日本では幾つかの雑誌(現代思想10月号「ロシア革命100年」など)が特集を組んだ程度で、この歴史的節目を考察する議論は低調であった。だが、歴史の被写界深度を深くとり、我々の立ち位置を確認することは、本質的課題を炙り出すうえで大切である。
一九一七年のロシア革命とは、三〇〇年におよぶロマノフ王朝の終焉、専制君主制の廃止であった。あの時点でのロシアにおいては、「ブルジョア穏健リベラル改革」から「宮廷内革命」などという他の選択もあったが、結局、第一次大戦への兵士の反発もあって「労働者革命路線」へと過激化し、レーニンによる全権力のソビエト奪取、社会主義政権成立に至った。
日本の二〇世紀は社会主義革命の幻影に怯えた世紀でもあった。赤色革命に対するシベリア出兵、治安維持法、日独防共協定、三国軍事同盟と迷走する中で戦争の悲劇へと吸い込まれていった。戦後の日本も、冷戦期に西側陣営にコミットする中で、東側からの社会主義の圧力に緊張を抱き続けてきた。「復興・成長」の先頭に立った経営者たちも、社会主義を掲げる日本社会党や労働組合運動の圧力の中で、歯を食いしばった。そのことは、松下幸之助が残した著作を読めば良く分る。敗戦の五か月後、一九四六年一月、松下幸之助はPHP研究所を設立、同月に松下労組も設立されている。翌一九四七年、松下はGHQによる公職追放中であったが、労組による「社長追放除外嘆願書署名運動」もあり、五月に追放解除、感激した彼は「対立しつつ調和する労組」を重視、労使協調路線の象徴として「PHP、繁栄を通じた平和と幸福」という概念を真剣に展開した。
だが、冷戦の終焉、社会主義崩壊から四半世紀、資本主義は変質した。グローバル競争の激化と労働組合運動の憔悴により、資本主義の驕りと歪みが進行した。ひたすら市場価値を高める経営、短期的ROIが求める経営へと傾斜、マネーゲームの肥大化の中で「格差と貧困」は増幅の一途となった。二〇一七年を振り返って、対抗勢力を失った資本主義の堕落・弛緩は深く進行した。その中で、「ものづくり国家」としての日本の誇りは明らかに委縮しつつある。
驚くべき事実だが、一〇月にアブダビで行われた国際技能五輪において、日本が獲得した金メダルは三個、第九位に後退した。一位は中国、二位はスイス、三位は韓国であり、二〇〇七年の一位を最後に、日本は後退を続けている。技能五輪は五一種目からなり、必ずしも製造業・建設業の技術だけではなく、介護・看護、美容・理容、洋裁、洋菓子製造、西洋料理、造園、フラワー装飾、貴金属装身具、レストランサービスなどの幅広い職種が対象であり、日本の現場力が劣化していることは否定できない。
また、このところ日産、スバル、東レなど日本の有力製造企業に不祥事が続き、データ改ざんや検査プロセスでの不正という事案が噴出しているが、経営の弛緩と現場力の劣化とはコインの裏表だといえる。日本の技術力を象徴するブランドであった東芝が、不正経理からM&A経営(ウェスチングハウス原子力部門買収)の失敗によって、医療、半導体など優良部門売却によって消滅の危機に立つのも、日本企業が置かれた現実を示している。
もう一つの節目、宗教改革500年であるが、この一年、宗教改革が世界史に与えた衝撃を再考してきた。そして、一五一七年のM・ルターによる宗教改革の狼煙が、欧州広域を巻き込むカソリック対プロテスタントの血まみれの宗教対立を呼び、一六四八年のウェストファリア条約によって、「宗教からの政治の自立」という近代のパラダイムが拓かれたこと、そして今、H・キッシンジャーが指摘するごとく「四〇〇年ぶりの宗教の蘇り」、すなわち「宗教の名による殺人」がイスラム過激派のテロという形で噴出していることを論じた。この一年、シリア、イラクにおけるISIS(イスラム国)は後退したが、テロは世界に拡散し、「宗教対立」は終ってはいない。トランプが火をつけたエルサレム問題は、火薬庫といわれる中東の危さを増幅するであろう。
また、M・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を想起するまでもないが、資本主義の精神は「欲と道ずれの利潤だけを探求する卑しいもの」ではなかった。勤勉、克己、努力を積み上げ、契約を守る誠実さ、競争を通じた切磋琢磨を重んじる価値観が底流に深く存在し、マネーゲームに傾斜する現在の米国流の金融資本主義とは一線を画すものであった。
ところで、二〇一八年に向かう今、新しい情報技術革命の潮流の中にあることは間違いない。一九九〇年代の冷戦後の軍事技術の民生転換によって始まった「IT革命」(インターネットの登場)は、AI(人工知能)、ビッグデータ、IoTといった新たな段階を迎えている。「人工知能が人間の能力を超える時代」という「シンギュラリティー」が迫るという議論は、「人間と機械の関係」に関し、「人間とは何か」というテーマを突きつけてくる。この議論に関し、私は「人間機械論の変遷―――デカルトからAIまで」(本誌2016年12月号)という考察を試みた。
人間の脳はわずかに一・五KG程度だが、ここに宇宙があり、「意識」がある。AIは、その前提として「人間の脳は神経細胞であり、電気回路と同じで再生できる」という考え方がある。この数年、私は何人もの優れたコンピューター科学の専門家と向き合い、啓発されてきた。西垣通氏との対談を通じ、コンピューター科学が「中東一神教」的な世界観によって開発されてきたという認識を深めた。目的・手段合理性を探究する「認識能力」という意味で、AIが人間を凌駕することは否定できず、既に囲碁や将棋などにおいて人間は勝てなくなってきた。ただし、人間の「意識」は異なる次元の知である。その意味で、東洋の思想たる仏教における「九識」の議論は深く、刺激的である。眼、耳、鼻、舌、身といった五識を超えた六識(理知、感情)があり、さらに末那識、阿頼耶識、阿摩羅識に至る意識が情報の結合により宿るという考え方は深い。AI時代を生きる人間拡張の論理として重要であり、どんなに機械が進化しても「人間が人間であるために」不可欠な視座であろう。AIの時代、人間が人間である理由の一つに「人間には宗教心がある」という事実は重いのである。宗教は認識ではなく意識である。
二〇一八年に向けて―――鍵はジェロントロジー
二〇一八年への視界を拓くにあたって、ちょうど一〇〇年前の世界が一九一四年~一九年までの第一次大戦期に当たり、とくに日本にとってはこの五年間が帝国主義路線へと迷走してアジア太平洋戦争に至る「運命の五年間」になったという歴史認識を持つことが重要であろう。何故ならば、安倍政権下、五年間の日本は、集団的自衛権を認める解釈改憲から「安保法制」「共謀罪」に至るプロセスにおいて、官邸主導政治によって「戦前への回帰」を図っており、歴史の教訓として一〇〇年前の誤謬―――「日英同盟」を根拠とするドイツへの宣戦、対華21か条の要求、ロシア革命へのシベリア出兵、、満州国問題での孤立、日独伊三国軍事同盟―――そして、真珠湾への道という悲劇を自戒しなくてはならないからである。今進行する世界の流動化に対し、まず日本自身がいかなる構えで向き合うかが肝心だからである。
恒例のエコノミスト誌“THE WORLD IN 2018”のキーワードは、「PENDULUM SWINGS(振り子は揺れる)―――政治と市場」であり、TRUMPISM VS MACRONISME(トランプ主義かマクロン主義か)、すなわち「閉ざされた世界」VS「PRO・GLOBALISM」という緊張を展望している。容易ならざる二〇一八年になるであろう。プーチンの永久政権化とも思われる大統領選挙の年を迎えるロシアは、ISIS掃討とシリア・アサド政権支援を通じて中東における地政学的野望を高めており、イランとイスラエルへのトランプ政策の迷走を利して影響力を高めてくるであろう。強権化する習近平の第二期政権に入った中国は、北朝鮮と台湾に強く踏み込んだ戦略を展開する可能性がある。例えば、米国と北朝鮮の軍事衝突の可能性が臨界点に来れば、中国が北朝鮮に軍事介入するか進駐して、北朝鮮をコントロール下に置く可能性がある。流動化する世界―――失われるガバナンスの中で反知性主義、反民主主義が跋扈し、国際協調主義への懐疑が生まれるであろう。
「アメリカを通じてしか世界を視ない」という戦後なる七〇数年間を過ごしてきた日本が、不規則なトランプの米国と世界の構造変化に直面し、取り戻すべきは主体的にあるべき日本を構築する意思である。アジアの成熟した民主国家として敬愛される日本を創ることである。仕方なくトランプに運命を預託する誤ちは避けなければならない。
こうした世界認識に立って「内なる日本」を見つめる時、二〇一八年の重要なキーワードは「GERONTOLOGY=ジェロントロジー」(体系的高齢者社会学)だと思う。岩波新書から出した「シルバー・デモクラシー」(2017年1月)において、「シルバー・デモクラシーのパラドックス」として、世界の意思決定における「世代間GAP」に触れた。冷戦が終わり、「イデオロギーの終焉」の後、意思決定における価値座標の混迷という時代にあって、例えば、トランプ当選、英国のBREXITにおいても、世代間の投票行動の差が生じており、日本のアベノミクスについても金融資産を持った高齢者が支持している。若者の投票率の低さ(政治的無関心)もあり、「老人の、老人による、老人のための政治」に向かっているともいえる。この歪みを正すことは、デモクラシーの再構築のためにも重要である。
とくに、日本においては、二〇一七年において、一〇〇歳人口が七万人を超し、八〇歳以上が一〇〇〇万人を超し、六五歳以上が三五〇〇万人を超すという「異次元高齢化社会」に突入している。二〇五〇年前後には人口が一億人を割り、ほぼ四割が六五歳以上の高齢者という時代を迎えるのである。
そこで、ジェロントロジーとは、「定年退職」してから三〇~四〇年生きなければならない時代に、高齢者を社会参画させ活用するプラットフォームの創造とそのための社会意識醸成の「知の再武装」のシステムを構築する試みである。知なくしては責任ある社会参画は出来ないからである。但し、ジェロントロジーは決して「老人学」ではない。若者こそがジェロントロジーの担い手である。何故ならこの先八〇年も生きるための自分自身のプラットフォーム構築だからである。
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