寺島文庫

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寺島文庫 近隣探訪記

 寺島文庫と蕃書調所 ~その5~

  

  前号で紹介した海外情報収集や翻訳活動の他に、蕃書調所は1860~61年頃より画学局・精錬方(化学)・物産方といった専門学科を設けました。ここでは、動植物・鉱物・農業・工業品に関する博物学的な調査を行った物産方に注目してみます。

 物産方は、1861年9月、伊藤圭介(1803―1901年)が蕃書調所の物産学出役を命じられた時に始まりました。尾張の町医者の家庭に生まれた伊藤は、本草学・植物学・博物学を学びました。シーボルトの江戸参府の際、熱田宿(現在の名古屋市)で面会を求めたことが縁となり、1827年に長崎に赴いて蘭学を学びました。伊藤の功績は、「分類学の父」リンネの近代的な植物分類法を日本に紹介し、今日まで使用されている綱・目・類(属)・種などの植物学用語を訳出したことで現在でも知られています。また、尾張藩の洋学研究に尽力し、藩医にもなりました。伊藤は、1861年9月より2年後の12月まで蕃書調所の物産方に出仕しました。

 物産方の伊藤は、1862年12月、幕府に「小笠原物産の収集と蓄積」を建言しています。当時の小笠原諸島は、イギリスが領有宣言を行う一方で、ハワイから移民した人物をペリーが首長に任命するなど、帰属先が定まっていませんでした。そもそも同諸島は、捕鯨船や海賊船、軍艦からの逃亡者など、欧米系の人たちが居住して独自の文化や経済活動を営んでいたのです。伊藤が建言した年、幕府は小笠原諸島を測量すべく咸臨丸を派遣、各国の駐日代表に領有権を通告しました。こうして、1876年、小笠原諸島は日本領と確定します。伊藤の建言は、純学問的な関心に加えて、領土問題への配慮から行われたのでしょう。

 明治維新後の1870年、伊藤は再び上京して文部省に勤務します。77年の東京大学の開校に際して、伊藤は71歳で理学部員外教授となり、84歳で引退するまで小石川植物園で植物研究に従事しました。この功績により、日本初の理学博士号を授与されています。さらに伊藤は、98歳で生涯を終えるまで、名古屋医学校(現在の名古屋大学医学部の前身)の創設に尽力しました。
 19世紀初頭に生を受け、20世紀初年に世を去った伊藤の生涯には、江戸幕府から明治政府へと政治体制が大きく変転する混乱期に芽吹いた日本の近代科学と教育の歴史が刻み込まれているのです。

<主要参考文献:宮地正人「混沌の中の開成所」・大場秀章「伊藤圭介」ともに東京大学編『学問のアルケオロジー』東京大学、1997年、遠藤正治「伊藤圭介と日本の科学のあけぼの」『江戸から明治の自然科学を拓いた人』名古屋大学附属図書館、2001年、石原俊『〈群島〉の歴史社会学』弘文堂、2013年>

   (2015年2月21日)

 寺島文庫と蕃書調所 ~その4~

  

 蕃書調所は洋書の翻訳にとどまらず、欧文辞書や語学テキストを印刷し出版しました。印刷技術の導入に尽力したのは教授手伝役・市川斎宮(兼恭。1818~1899年。広島藩医の家に生まれ、後に福井藩士)です。緒方洪庵の適塾に入門し、また杉田成卿(杉田玄白の曾孫)から蘭学を学んだ市川は、器械の扱いに長けており、オランダから幕府へ献じられた電信機の操作を習得した上で蕃書調所に据え付けています。1858年3月、市川は、オランダ語教本(『レースブック』)の活版印刷に成功しました。

 蕃書調所は1862年に洋書調所、翌年には開成所へと名称を変更します。そこでの翻訳業務は、西洋事情の紹介を通じて国内の攘夷意識や排外思想を啓蒙・教化するという政治的役割を担っており、『バタビヤ新聞』(オランダ東インド総督府の機関紙)や清国で宣教師などが発刊していた漢文新聞を翻訳して訓点本として発刊しました。

 また、開成所の教官及び洋学者は、翻訳業務で得た海外新情報を共有するための団体として会訳社(会訳局)を結成し、日本初の定期刊行雑誌『西洋雑誌』(1867年)を創刊しました。会訳社の中心人物であった柳川春三(1832~1870年。尾張生まれ、開成所教授・頭取)は、『中外新聞』を創刊しています(1868年)。「中外」とは国内と国外の事情を合わせて報道するという意味で、日本全国で読者を獲得し、上野での彰義隊の戦闘について号外を出すなど現在の新聞の原型を形作りました。

 海外の先進情報を収集・翻訳し、その成果を出版していく技術・人材・ノウハウを蓄積させた蕃書調所とその後身機関は、日本における近代ジャーナリズムの母胎であったともいえるのです。
〈主要参考文献:宮地正人「混沌の中の開成所」東京大学編『学問のアルケオロジー』東京大学、1997年、岩田高明「官板海外新聞の西洋教育・学術情報」『安田女子大学紀要』第37号、2009年〉

  (2015年2月21日)

 寺島文庫と蕃書調所 ~その3~
 

  19世紀に入ると、西欧列強が頻繁に日本に来航します。特に1853年のペリー来航は、江戸幕府に強い衝撃を与え、外交文書の翻訳や軍事、航海術などに代表される洋学研究の必要性が急速に高まりました。天文方が蕃書調所へと拡充されるのは、正にこの時でした。
  蕃書調所の頭取に就任したのは、儒者と洋学者の二つの顔を併せ持つ古賀謹一郎(1816~84年)でした。彼は、時代の風潮が攘夷へと流れていく中、毅然として開国を訴えたことで知られています。

  例えば、西洋諸国が領事の日本駐在を求めた時、幕府内では「領事はスパイである」との非難の声が上がりました。古賀は宗教・風俗が異なる国家間で意思疎通するためには、領事が必要であると主張しました。また、1855年にアメリカが日本近海の測量を行った際に湧き上がったアメリカ非難の中で、むしろこの機会にアメリカから測量方法を学ぶべきであるとも唱えました。さらに、開国を国辱と捉える意見に対しては「目睫の論」(目先の小論)であると反論し、鎖国のもとで自由闊達の気性に乏しい日本人の「狭い了見」を難詰しています。

  開国による視野の広がりと富国強兵を目指した古賀が精力を注いだのが蕃書調所です。設立に際して古賀が記した意見書には、書物の他に実験設備を整えること、教授法や試験方法は教授間の相談で自由に決めること、洋学者に対する手当は身分や貴賤によらず学力で決めること、身元正しく人物が良ければ幕臣のみならず陪臣や浪人の入学も認めることなどが書かれています。

  同所が設立されたのは、寺島文庫近くに位置する、九段坂下交差点付近でした。今は昭和館が建っていますが、ここには後に高杉晋作らの英国公使館焼き打ち事件や、生麦事件に際して外国奉行として交渉役を担った竹本正雅の屋敷がありました。武本屋敷の改築が終わる1858年11月までの間、古賀は毎日通ったといわれています。湯島聖堂に生を受け、蕃書調所創設の前後には祖父の別荘(九段坂上蛙原:現在の靖国神社構内か)に住み、後に現在の神保町(三省堂書店付近)に居を構えた古賀は、寺島文庫から徒歩圏内に生まれ、住み、そして世界を睨みながら幕末日本を生きたのです。(続く)
(主要参考文献:小野寺龍太『古賀謹一郎』ミネルヴァ書房、2006年)

  (2015年1月16日)

 寺島文庫と蕃書調所 ~その2~

 蕃書調所の前身は、江戸幕府の暦の研究機関「天文方」です。天文方は、1685年、日本独自の暦・貞享暦を編纂した渋川春海に始まりました。これまで日本では、中国の宣明暦が862年に採用されて以来、800年以上も使用されていました。渋川は和暦を編み出すことで日本の暦を自立させたのです。これは、中国文化の相対化と日本の自己意識の高まりを促しました(「脳力のレッスン 日本の大航海時代――鎖国とは中国からの自立でもあった――17世紀オランダからの視界(その8)」)。

 この後、1798年にケプラーの法則など西洋天文学の成果を取り入れた寛政暦が作られました。編纂を主導したのは天文方・高橋至時で、彼は20歳年長の弟子である伊能忠敬(至時と初めて面会した時は51歳)に暦学・天文学を教授した人物です。伊能は至時の助力を得て全国を測量しました。また、伊能の死後は、至時の長男で天文方の高橋景保が事業を引き継ぎ「大日本沿海輿地全図」完成させました。

 1811年、景保は西洋暦学研究の必要から、天文方の中に洋書の翻訳機関である蛮書和解御用の設置を建議しました。景保はシーボルト事件(1828年)で処罰されたことで知られています。この事件は、シーボルトが高橋より贈呈された「大日本沿海輿地全図」を国外へ持ち出そうとしたもので、事件発覚後、景保は捕えられ、翌29年、獄死しています。景保の洋書類は没収され、後の蕃書調所に引き継がれました。
 天文方にまつわる人物の物語には、年齢差や国境を越えた科学への情熱が刻み込まれています。そして彼らの学問的成果によって、日本人の世界観や自己認識が形成されていくのです。(続く)

(2015年1月4日)

 寺島文庫と蕃書調所 ~その1~


 1857年1月18日、現在の寺島文庫からほど近い飯田町九段坂下牛ヶ淵(現在の千代田区九段南。靖国通りと内堀通りの交差点付近)に蕃書調所が開校しました。
 同所は外国書物の翻訳・調査、及び洋学を教授する江戸幕府の直轄機関であり、医学所、昌平坂学問所とともに東京大学の源流として知られています。当初は蘭学を中心に扱いましたが、西欧列強の圧力に対処するため、調査・研究の対象を、英学及びフランス、プロシア、ロシアの語学や技術にまで広げました。

 寺島は、現代を理解する試みとして、一国史的な枠組みに捉われず、諸文明・地域間の相互連関を重視する「グローバル・ヒストリー」の重要性を講演や著作で語り続けてきました。なかでも「17世紀オランダからの視界」(『世界』岩波書店)は、「近代」を深く理解する試みとして、現在まで26回の連載を数えます。
 蕃書調所の考察は、幕末日本と西洋、そして日本が近代に出会った瞬間をダイナミックに描き出す作業につながります。次回からは、蕃書調所の具体像に迫っていきます。

(2014年12月17日)