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現在地: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2020年 岩波書店「世界」2020年2月号 脳力のレッスン214特別篇 令和の暁鐘が問いかけるもの 日本再生の基軸―――(上)外なる課題への視座

岩波書店「世界」2020年2月号 脳力のレッスン214特別篇 令和の暁鐘が問いかけるもの 日本再生の基軸―――(上)外なる課題への視座

 令和時代が始まって半年が経過した。この間、令和への予兆を感じる出来事が続いた。我々は、日本が置かれた状況を直視し、事態の本質を認識して希望を拓かねばならない。
平成の三〇年間については、本誌の二〇一九年六月号に「平成の晩鐘が耳に残るうちに」を寄稿し、私自身の体験的総括を試みた。確認したことは、平成が始まる頃、世界GDPの一六%を占めていた日本の比重は、平成が終わってみたら、わずか六%にすぎなくなった。国際機関等の大方の長期予測では、二〇年後には三%前後に落ち込むとみられている。経済の埋没は、政治の埋没に相関しており、この間、「アメリカを通じてしか世界を見ない」という米国への過剰依存構造に沈潜し、冷戦後の世界史への適応障害を起こしている。アジアのダイナミズムに突き上げられデジタル・トランスフォーマションという情報技術革命のうねりの中で、世界をリードする国という日本の存在感は明らかに後退、世界の有識者の間でも「日本を国連常任理事国へ」とする声は消えた。
「何となくうまくいっている感」を演出する政権の思惑を受けて、日本人に不思議なほど危機感はない。だが、現実を直視した真摯な危機感こそ改革と発展の基点であり、日本人は事実を直視する勇気を持たねばならない。
 

 

七人の経済人の本音―――日本人の深層心理

 

奇妙な体験をした。一〇月末、ある経済倶楽部のレストランでの出来事であった。七人の人物が囲む円卓の近くで、私は講演の出番を待って一人海老フライを食べていた。八〇歳代の大物経済人を囲む形で、六〇歳・七〇歳代の企業経営者が懇親会を開いている様子だった。顔見知りの人も数人いて、観察すると、七人中四人が、例の一七色のSDGs(持続可能な開発目標)バッジを胸に着けていた。つまり、建て前上は「良識」的な人達の集まりだということである。
談論風発、ワインが入るほどに大声で本音が飛び交い、衝立越しに議論の中身が耳に残った。そして、これが現在の日本の企業経営者達の深層心理なのだと感じた。まず、話題は「韓国はけしからん、厳しい態度で臨むべし」という話で盛り上がり、一人がある大企業の韓国での支社長をやっていたとかで、いかに韓国人が「恨みの民族」で、日本への恨みをバネに生きているかが語られ、「韓国人の国民性が信頼できない」という熱弁が続いた。数人の「断交すべし」の熱い議論に対して、長老格がたしなめるように、「近隣なるが故に憎しみを増幅する歴史を積み上げてきた面もあるが、百済の時代から世話にもなってきた。苛立ってはまずいだろう」と語っていた。
 次に、話題は「アベノミクスの危さ」に及び、マイナス金利にまでもっていった異次元金融緩和の長期化が経済を毀損し、経営を歪めていることが論じられていた。「マイナス金利は、借金した方が有利だという意味で、経営者の経済倫理を損ねる」と長老格が筋道立った意見を語っていた。それでも、「異次元金融緩和が、株価の上昇をもたらしているからまあ結構じゃないか」というところに七人の話が落ち着いた。
 さらに、議論は「トランプに揺さぶられる安倍外交の情けなさ」に話が及び、貿易協定で妥協し、防衛装備品を買わされ、駐留米軍経費の増額を強いられる現状に苛立つ心情が吐露されていた。一人が「日本は未だに独立国ではないな」というと、ほぼ全員が「そうなんだよ」と共鳴していた。それでも、「中国の強大化」という脅威に向き合うには「米国についていくしか選択肢はない」という何とも自虐的空気になり、もの悲しい形で寄合はお開きになった。寂しい結論のようだが、これが令和初頭の日本人の典型的な心象風景なのか。埋没の中で、低迷を安定と思いたい心理ともいえる。
確かに株は上がっている。二〇一〇年からの九年間で、日経平均は二・三倍になった。日銀主導の異次元金融緩和でマネタリーベースを五倍にした「異次元金融緩和」の余波であるが、この間の実質GDP成長率は平均年率一・三%で、実体経済から乖離した株高が進行していることになる。この秋、株高をもたらした皮肉な構造が明らかになった。二〇一九年九月末時点での日本銀行のETF買いのポジションが三一兆円となり、「日本株式会社」の筆頭株主はついに日銀になった。株高の大きな理由は、公的資金の株式市場投入であり、この中央銀行によるETF買いとGPIF(年金基金)の国内株式投入だけでもほぼ累積八五兆円を上場企業株式に注入している。外資が日本株を買っている理由も政府保証債を買っている心理であり、「日本は資本主義国家といえるのか」という疑問が湧き起こるのである。しかも、個人による株式投資の七割以上は高齢者が保有しており、公的資金を投入してまで株価を引き上げる政策は「世代間分配格差」を増幅している。(参照、拙著「シルバー・デモクラシー」岩波新書、2017年)
 この段階で、株高の背後にあるグローバル資本主義の歪みともいえる構造問題に触れておきたい。昨年十一月、IMFのゲオルギエバ専務理事が講演で、我々が生きる世界の本質に迫る驚くべき数字に言及した。「世界の公的部門と民間部門の債務が、二〇一八年に一八八兆ドル(約2京円)と過去最大規模に達した」というのである。これは、世界GDPの二・三倍に当たる規模で、世界中が「借金漬け」になっていることを意味する。つまり、金融資本主義の主導するメッセージが「借金してでも景気を浮揚させる」というもので、金融を緩和して、超低金利で借金を誘発した結果、こうした事態を招いたといえる。この債務膨張が未来への投資に繋がればよいのだが、現実はマネーゲームの財資となって「株価の根拠なき高騰」の要因となっている。そして、このことは超低金利下の借金に慣れきった政府や企業の体質を変え、金利上昇に対して虚弱になっているということで、危うさを内包した借金漬けなのである。世界の株高もこのことと深く関係している。二〇一七年初、つまりトランプ政権がスタートした時から二〇一九年一二月中旬までの3年間でNYダウは約四割上昇、日経平均も約2割上昇した。この間の米国の実質GDPの成長率が年率二・五%程度、日本のそれが一・二%程度というのに、「不自然な株高」であることに気付かねばならない。「健全な資本主義への視座」を取り戻さないと、われわれは愚かなる金融危機を繰り返すことになる。世界中にリスクが顕在化し、実体経済が「変調」局面を迎えているにもかかわらず、債務(借金)が肥大化し、株価が高騰する異常性の中で、危機意識が拡散し、あるべき姿を探求する理性が幻覚症状に浸っているといえる。
もう一つ、日本の現実を再考する素材として、令和初頭の小さな衝撃に触れておきたい。二〇一九年八月、ロシアのカザンで「第四五回技能五輪国際大会」が行われた。この大会での金メダル獲得数において、日本は七位だった。一〇年前まで、日本はメダル獲得数においてトップを争い、「中国、韓国が追い上げようが、日本の産業技術基盤は盤石だ」と誇りを感じてきた。ところが、二〇一七年のアブダビ大会で第九位に転落、不思議なことに日本のメディアはこのことを一切報道しなくなった。
 二〇二〇年、東京オリンピックが近づき、スポーツの五輪で活躍する若者に光が当たることは結構である。ただし、産業の現場で頑張る青年に関心を寄せることは、日本の生業を想う時、大切なことである。日本の名だたる製造業企業の経営者の中に、「技能五輪の結果など心配する必要はない。製造現場はコンピュータが制御している時代で、熟練工など手間暇かけて育てる必要はない」という人もいる。だが、技能五輪で競われている五六種目を直視してみるべきだ。例えば、「フラワー装飾、美容理容、ビューティーセラピー、洋裁、洋菓子製造、西洋料理、レストランサービス、造園、グラフィックデザイン、看護介護、ホテルレセプション、クラウドコンピューティング」なども競われており、つまり現場力なのだ。「経営は頭から腐る」といわれ、経営幹部の意識が現場に投影しているということだと思うが、日本の現場力が急速に劣化しているのは間違いない。
 実は、この技能五輪に関して、次々回の開催地に名古屋が立候補していた。「東京五輪」「大阪万博」「名古屋技能五輪」は三本柱の戦略プロジェクトであったが、八月のカザンでの投票においてパリに惨敗した。このこともメディアは一切報道しない。「都合の悪いことは伝えない、語らない」―--何時の間にか日本はそんな国になった。株価と為替、マネーゲームの動きだけを「経済」の話として語る国になった。


 

令和の世界構造と日本―――「米中二極」認識とその機能不全

   時代認識の基盤は、世界秩序の基本枠をどのように捉えるかにある。一九八九年のマルタ島における米ソ首脳による「冷戦の終結宣言」以来、大方の世界認識は、冷戦の勝利者としての「米国の一極支配」という捉え方から、9・11後の米国の世界秩序マネジメントの失敗(「イラクの失敗」)を経て、新興国の台頭(「BRICSの登場」)を背景に「多極化」「無極化」(Gゼロ)という捉え方が主潮であった。
 ところが、令和初頭の今、世界認識の中心に「米中二極」という捉え方が常態化してきており、いつの間にか、日本人にも、「日米中トライアングル」という視界は後退し、米中二極の中で「米国周辺国」として生きることを当然とする視界が定着し始めている。米中対立が深化、事態が通商摩擦から情報技術覇権を巡る緊張にエスカレートし、「新冷戦」という見方も登場しているが、米中それぞれが「極」を形成し、極構造の中での求心力を形成しているかというと決してそうではない。また、極を束ねる中心概念、つまり「正当性」を主張する理念があるかというとそうでもない。米ソ冷戦期には、建前上は「資本主義対社会主義」という体制選択を巡る対立があったが、米中対立は市場主義の中での覇権争いという性格で、「理念」を賭けた戦いではない。しかも、米中ともに決して世界の制御においてうまくいってはいない。そのことを確認しておきたい。


米国の失敗――象徴としての中東の液状化
 一九七九年のイラン革命以来、米国の中東政策は「失敗の連鎖」であり、中東での米国のプレゼンスは後退を続けた。約一〇〇年前、一九一九年は第一次大戦の終結を巡るベルサイユ講和会議の年であった。第一次大戦を経て、オスマン帝国は解体され、中東は欧州列強の草刈り場となった。ペルシャ湾に覇権を確立したのが大英帝国であったが、第二次大戦後の一九六八年に英国がスエズ運河の東側から撤退した後、代わって覇権を握ったのが米国であり、その米国が同盟を結んだイランのパーレビ体制がイスラム原理主義革命によって倒されたのがイラン革命だった。
 イラン革命で盟友イランを失った米国は、「敵の敵は味方」の論理で、隣のイラクのサダム・フセインを支援し、イラン・イラク戦争(1980~88年)を戦わせた。それがサダム・フセインを増長させ、クウェートへの侵攻と湾岸戦争(1990~91年)へと繋がり、その始末をつけざるをえなくなったのがイラク戦争であった。
 二〇〇一年、ニューヨーク,ワシントンという米国の心臓部が襲われた同時テロの衝撃を受け、米国は二〇〇三年、九・一一とは何の関係もなかったイラクを攻撃、フセイン体制を崩壊させた。一方、同時テロの実行犯一九人のうち一五人がサウジアラビアのパスポートで入国していたにもかかわらず、サウジアラビアは「黙認」という「二重基準外交」を続けてきた。正に失敗の連鎖であり迷走なのである。
今、中東で進行していることの本質は、第一次大戦後の一〇〇年、この地域に繰り返された「大国の横暴」の終焉であり、埋め込まれてきた地域パワーの復権である。それが「シーア派イランの台頭」であり、オスマン帝国の栄光を引く「トルコの野心」である。
 こうした中で、トランプ政権は極端なまでの「イスラエル支援政策」を展開している。中東への地政学的戦略というよりも、イスラエルのネタニヤフ政権に繋がる身内の人間関係とトランプ岩盤支持層たる福音派プロテスタント教会への配慮から、「エルサレムへの米国大使館移転」「ゴラン高原のイスラエル領有支持」「パレスチナへのイスラエル入植支持」とイスラエルに加担する政策を加速させている。このことは、「米国が中東和平の仲介者」としての役割を放棄したことを意味する。「イランとの核合意」からも離脱し、イラン制裁を強めているが、「イランの核は否定し、イスラエルの核保有は容認する」というのも二重基準で、「中東の核」を制御することにはならず、「火薬庫」とされる中東に火種を投げ込むだけである。十一月末、収賄で起訴され窮地に立つネタニヤフ首相はシリア・ダマスカス郊外のイラン革命防衛隊基地を空爆、ペルシャ湾の軍事的緊張とともに、既に中東は「戦争状態」に近づいている。
さらに事態を複雑にしているのがロシアであり、米国の迷走がロシアの中東への再登場を招いた。冷戦後、中東から姿を消していたロシアが、二〇一五年秋、シリアのアサド政権を支援する形で軍を展開し、中東に足場を再構築した。米国が中東から後退していく中で、ロシアはイラン、トルコとの関係に加え、イスラエルやサウジアラビアとの関係も深めており、「中東のパワーブローカー」たる影響力を高めつつある。米国の迷走が招いた「液状化」に中東は向かっている。問題は中東だけではない。トランプ政権は、米国にとって最も大切なはずの「同盟外交」を混乱させてしまった。しかも、同盟の基軸となる「価値」を巡る対立ではなく、カネを巡るDEAL,つまり「自分は損をしたくない」ということでNATOには「軍事費のGDP比二%への増額」、日本・韓国には「駐留米軍経費の負担増」を求めるものであり、そこには世界秩序をリードする超大国の自覚はない。つまり、第一次大戦以降の、「国際連盟」「国際連合」の設立経緯を思い起しても、米国の主導の下に形成されてきた「リベラル・インターナショナル・オーダー」(自由で開かれたルールに基づく国際秩序)の自己否定がなされているということである。「理念の共和国」といわれ、政治的にはデモクラシー、経済的には市場主義という理念を掲げてきた米国の後退の意味を重く受け止めねばならない。


中国の失敗――象徴としての香港の混乱
 昨年一〇月、中華人民共和国は建国七〇周年を迎えた。一昨年三月の全人代で、中国は憲法を改正し、これまで「二期一〇年」だった国家主席の任期制限を撤廃した。それは二期目に入った習近平が三期以上を目指すことを意味し、「終身政権」さえ目指しているとさえ囁かれている。こういう政権は「余人をもって代えがたい指導者」として評価される必要がある。東アジアに対しても、習近平政権は「強勢外交」を展開し始めた。
二〇一四年の「雨傘運動」以降、香港の民主化運動は根絶やしにされたといえるほど抑圧され、二〇一八年秋には「広州―香港高速鉄道」と「香港―珠海―マカオ海上大橋」が完成、広州・深圳・香港・マカオを一体開発する「大湾区計画」に組み込まれつつある。また、台湾について、二〇一六年に党綱領に「台湾独立」を掲げる民進党の蔡英文が総統に就任し、前政権(馬英九政権)の対中融和政策を見直すと、習近平は全人代などで「台湾統一」について並々ならぬ決意を表明、台湾の国際的孤立を図る政策にアクセルを踏んだ。昨年九月に台湾はソロモン諸島、キリバスと断交、台湾が外交関係をもつ国はわずか一五か国になった。中南米九カ国、南太平洋の島国四カ国、アフリカの一国で、欧州についてはバチカンだけとなった。十一月のローマ教皇訪日の時、台湾に立ち寄るかが注目されたが、中国のバチカン接近を背景に、訪問はなかった。

 香港の騒動が昨年六月以来、何故これほど続いているのか。その理由は中国を本土の中華人民共和国だけではなく、世界中に存在する華人・華僑とのネットワークの中で捉えることから見えてくる。この夏、香港、シンガポールでの議論を通じ、改めて確認できたのが「ネットワークとしての中国」の意味である。拙著、「大中華圏」(NHK出版、2012年)において、私は中国の持続的成長の大きな要素を台湾、香港、シンガポールなど華人・華僑圏の資本と技術を取り込んだことにあるという検証を試みた。事実、国民党の馬英九政権下の台湾では、一〇万社の台湾企業が中国本土に進出した。また、香港・シンガポールの華僑資本も、日米欧の企業の中国展開のパートナーとなって中国の経済発展を支えた。
 中国の歴史で際立つのは「異民族支配」の繰り返しである。元というモンゴル支配、清という満州族支配という時代を経て、海外に動いた漢民族が「在外華人・華僑」の淵源であり、一九四九年からの共産党支配を嫌って海外に移住した中国人も加わり、世界に七〇〇〇万人、東南アジアに三三〇〇万人の中華系の人たちが存在している。これらの華人・華僑の心理は複雑である。「中華民族の歴史的復興」を掲げる習近平のメッセージに共鳴して中国の発展に協力する意識と「民主化された地域に住んできた」ことにより、中国の強権化を警戒する心理が交錯している。香港、シンガポール、台湾の華人経済人と話すと、本土の中国が習近平の個人崇拝的強権化に向かっていることを懸念する空気を感じる。憲法に習近平思想を掲載するなどの習近平への権力集中と個人崇拝的傾向については、朱鎔基元首相(91歳)の苦言、江沢民元主席(93歳)など長老の懸念などが伝わるが、香港の混乱はそうした不安と嫌悪を象徴しているといえる。香港問題における中国の失敗は、海外における華人ネットワークの失望を招いたことである。香港の「リーダー無き騒乱」が示すのは、グローバルなネットワーク型争乱だという性格である。香港がもめればもめるほど台湾独立志向の蔡英文政権を勢いづける。第二の香港になりたくないという対中警戒心を刺激するからである。中国が国際社会の建設的参加者になりうるのか、それとも強権化した指導者の下での歪んだ「国家資本主義」体制にとどまるのかを世界が注視しているといえる。

 

令和日本の立ち位置―――米国周辺国でも、中国周辺国でもない自立自尊

   「米中二極」という世界認識は正しくない。それぞれが「失敗」というべき局面に直面している。何よりも、米中ともに世界のあるべき秩序に向けて世界を束ねる理念を見失っている。かかる状況の狭間に立つ日本は、単純に「日米同盟で中国と向き合う」という路線しかないと思い込みがちである。だが、米中二極は理念を巡る対立ではなく、利害の対立である。この大国主義志向の強い二つの国は、利害が一致すれば、米中二極で手打ちをして「世界を仕切る」方向に踏み切る可能性さえ内在させている。日米中の関係を巡る一五〇年の近代史を直視すれば、米中連携の中で日本が孤立・敗北に至った歴史の教訓に気付くはずである。在米華僑の存在の厚みなど、米中関係のパイプは日米間のそれよりもはるかに大いことを忘れてはならない。 令和日本の最大の外交課題は「同盟の質」を再点検し、米国への過剰依存を脱して、日米関係の再設計を真剣に模索することである。昨年五月に来日したトランプ大統領は、横須賀でのスピーチで「力こそ平和をもたらす」と力説した。翌週、英国を訪問した彼は「自由と法の支配」という共通の価値を有する同盟国としての英国との「特別の関係」を強調した。同じ同盟国でありながら日本には「自由と法の支配」が無いかのごとき認識であり、その後も機会あるごとに「日米安保は不公平」、「日本は豊かな国、その日本の防衛に米国は大金を払っている」として、在日米軍経費の負担増を求めている。
 在日米軍基地経費の七五%は日本側が負担している。縮軍でもしない限り、米軍を米本土やハワイ、グアムに配置するよりも、日本に置いた方が安く済むということで、米軍基地を固定化させている要因になっている。二一世紀に入って、九・一一後のインド洋、イラクへの自衛隊派遣など対米協力という形で負担したものを含め、日本は累計一五兆円を超す軍事協力をしている。米国が見直すというのであれば、好機である。三沢から沖縄まで、すべての米軍基地、施設をテーブルに乗せ、東アジアの安全保障に必要なものを検証し、段階的基地の削減と占領軍のステータスのままといえる地位協定の改定に踏み込むべきである。
 トランプ政権は、戦後日本が大切にしてきた価値を理解していない。それは戦争という途方もない擬勢を払って到達した「武力をもって紛争解決の手段としない」という決意であり、トランプが「力こそ平和」と語った後、「非核平和主義」をもってそれに対峙する政治家がこの国にいないことに怒りを覚える。米中対立に自ら沈み込むうちに、対立が昂じて台湾海峡で軍事衝突が起こった場合、台湾には米軍基地は無く、自動的に沖縄は戦闘に巻き込まれる。「集団的自衛権」に前のめりになっていることの結末を想い、「アメリカの戦争」に巻き込まれない主体的知恵を志向するのが令和日本の課題である。
 この夏、アメリカの本音を垣間見る苦笑いの論稿に出会った。フォーリン・アフェアーズ(日本語版フォリン・アフェアズ・レポート2019年7月号に翻訳所収)にAEI(アメリカ・エンタープライズ研究所)のニコラス・エバースタットが書いた「人口動態と未来の地政学――同盟国の衰退と新パートナーの模索」である。ここで衰退する同盟国とは、ユーラシア大陸の東西にある英国と日本であり、米国の目線からすれば明らかに衰退の兆候をみせる両国との関係を見直し、新しいパートナーを模索すべしという主旨で、ワシントンに動き始めた本絵ということもできる。少なくとも、米国との過剰同調が招く結末を暗示している。
 昨年十一月末、戦後日本を代表する政治家・中曽根康弘元首相が一〇一歳で亡くなった。メディアは、その足跡を「ロン・ヤス関係」を背景にした「日米同盟強化」と「憲法改正論者」として伝えた。私は一九九〇年代にワシントンで仕事をしていた時代、訪米中の中曽根氏と同行し、今世紀に入ってからも何度か対談の機会を得た。敗戦を軍人として受け止め、戦後日本と並走した中曽根康弘という人物の真髄は「自立自尊」であり、米国とも正対する気迫を持った人という印象が残っている。
とくに、二〇一一年一二月の対談は、日本テレビの番組「なかそね荘」でも放映され、書物としても残っている(参照、「なかそね荘」世界文化社、2015年)ので、心に残る中曽根発言を紹介しておきたい。この時、中曽根氏は九三歳だったが、「日本の国際的地位というのが相対的に沈下して、外国からの尊敬とか成長する力が崩れつつある」「中国民族は単細胞ではない。これに対応するには単細胞ではだめで、複眼的で総合的な外交戦略に進まねばならない」ことを強調していた。
 私が「沖縄はじめ在日米軍基地の抜本的見直しを含む冷戦後の日米関係の再設計の必要」という持論を語ったのに対して、「やるのなら、確固不抜の政策を貫かねば、外交は足元をみられる」と鳩山由紀夫政権以降の「民主党」政権の腰砕けを論難し、ロシアとの北方四島問題についても「「四島返還一貫して進むべき」と断言していた。単純な対米協調論者でもタカ派でもなく、「聞く力がなければ、決して説く力は生まれない」と語った言葉が突き刺さった。改めて、現在の指導者において「説くに値する主張」と「説く力」を持った人が存在するのかを考えさせられる。
 令和という時代を生きる日本の米中力学の間で、主体的立ち位置を確立することにつきる。その際、最も大切なことは非核平和主義を掲げアジア太平洋諸国の先頭に立つことであり、成熟した民主国家として公正な社会モデルを実現することであり、技術を大切にする産業国家としてそれを支える人材の教育に実績を挙げることである。

 

 

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