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現在地: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2020年 岩波書店「世界」2020年1月号 脳力のレッスン213 明治近代化と日本人の精神―――一七世紀オランダからの視界(その63)

岩波書店「世界」2020年1月号 脳力のレッスン213 明治近代化と日本人の精神―――一七世紀オランダからの視界(その63)

 私たちは何故、今ここにあるのか。そんな思いで仏教伝来以来の歴史的経緯を追い、日本人の中に如何なる精神性・宗教性が醸成されてきたのかを辿ってきた。そして、江戸期の宗教状況が幕末維新を越えて、明治という時代を生きた日本人の精神性にどのような形で投影したのか、その点を再考しておきたい。

 

 

明治期日本人の精神―――江戸期に埋め込まれた魂の基軸

 

新渡戸稲造が「武士道」を書いたのは一八九九年で、三七歳であった。一八六二年に盛岡で南部藩士の子として生まれた新渡戸が「日本国民およびその一人一人を突き動かしてきた無意識的な力」、つまり魂の基軸を自己解明した作品ともいえる。
 「武士道」の序文において、新渡戸は執筆の意図に関して、欧州の有識者との対話において、宗教教育が無い日本で「どのようにして子供に道徳教育を授けるのか」と聞かれ、それに対する解答を模索したものだと語っている。「武士道」の第二章で、新渡戸は「武士道の源」に言及している。キリスト者たる新渡戸が、自らの体験的考察において、日本人の価値基軸として埋め込まれたものをどう認識していたかは示唆的であり、新渡戸は「武士道の源泉は孔子の教えにあり」という。そして、「冷静、温和にして世才のある孔子の政治道徳」が、君臣、父子、夫婦、兄弟、朋友の関係を支える規範になってきたと述べる。さらに、儒教倫理を中核としながら、仏教と神道が日本人の精神に深い影響を刻んだと新渡戸は指摘する。仏教は「運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にした時の禁欲的な平静さ、生よりも死への親近感をもたらした」と語り、神道は「先祖への崇敬」「自然崇拝」という価値をもたらしたという。
「武士道」の柱として新渡戸は七つの価値を提示する。「義」(支柱としての正義の道理)、「勇」(胆の錬磨)、「仁」(人の上に立つ条件)、「礼」(他人への思いやり)、「誠」(二言なき生き方)、「名誉」(苦痛と試練に耐える心)、「忠義」(何のために死ぬか)の七つである。サムライの子だった新渡戸が、儒教の「四書」(大学、中庸、論語、孟子)「五経」(易経、書経、詩経、春秋、礼記)を日本人の価値の基軸とするのも頷けるし、新渡戸自身はキリスト者として、「功利主義者や唯物論者の損得勘定哲学は、魂を半分しかもたない屁理屈屋が好むところである。功利主義や唯物論に対抗できる十分に強力な他の唯一の道徳体系こそキリスト教である」とまで言い切るが、怒涛のような西洋近代化の波に直面した明治期の日本人が、葛藤の中で自らの心を支えるものを求めて自問自答をしたことは間違いない。
 そして、多くの日本人が江戸時代を通じて身につけた精神性、それを新渡戸は「武士道」と表現してみせたが、仏教、儒教、神道の複合によって形成された価値体系を再確認したといえる。新渡戸は「武士道」の最後を「不死鳥はみずからの灰の中から甦る」というあの名言によって締めくくるのだが、近代化とともに浸透する功利主義と金銭主義の中で失われつつある日本人の精神への危機感と願望が滲み出た言葉である。
過日、山形県の鶴岡市で、江戸期に庄内藩の藩校だった「致道館」を訪ねる機会を得た。藤沢周平が描いた武士の世界の舞台が庄内藩であり、花よりも根を大事にする「沈潜の風」とされる庄内人の気風を培った基盤がこの致道館にあったことを実感した。幕藩体制下の日本に二五五校存在したといわれる藩校の多くが、儒学の中でも朱子学を学ばせたのに対して、致道館は荻生徂徠の古文辞学(徂徠学)を学ばせたのが特色だという。この藩校という仕組みが、各地の人材育成の基盤となった。一八七一年の廃藩置県で廃止されたが、旧藩校が形を変えて地域教育の中核としての役割を果たした事例が多い。また、明治期の向学心の強い士族出身の青年が東京で学ぶ時、かつての藩主の多くが藩邸を藩校の延長の寮として提供して郷土出身者を支えた。この中で醸成され、暗黙のうちに人生の規範として定着していったのが「武士道」的価値だったといえる。
 およそ明治という時代を知的に生きた知的青年は、西洋化の潮流の中で、日本人としての精神的基盤を問い直した。「日本哲学の座標軸」と言われる西田幾多郎(1870~1945年)の「善の研究」(1911年、弘道館)もこの知的緊張の中から生まれたといえる。西田四一歳の作品で、青年西田幾多郎の知の格闘の凝縮でもある。西田は「宗教」に関し、「宗教的要求は自己に対する要求である」と語り、「真正の宗教は自己の変換、生命の革新を求めるものである」と言い切る。つまり、人間が自らの内面を見つめる力に宗教の本質を見るのであり、「真摯に考え、真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずには居られないのである」とする西田の言葉は重い。そして、「我々は最深なる内生に由りて神に到る」という視座に立って、「宗教の真意は神人合一の意識を獲得するにある」という西田の帰結は、宗教のあるべき姿を考える者にとって視界を拓くものである。


 

和魂洋才とは何か

   明治期の日本人の精神的系譜を整理する上で、平川祐弘の「和魂洋才の系譜――内と外からの明治日本」(1971年、河出書房新社)は重要な作品である。
「和魂洋才」の起点が「和魂漢才」にあり、日本人の精神性が外からの圧力に対する緊張によって形成されてきたことが分る。日本人にとって、重い存在は常に中国の文明・文化であった。「やまとだましい」が「からごころ(もろこし)」と対峙することで形成され、「源氏物語」の「乙女」の巻の一節が紹介されている。「猶、才を本としてこそ大和魂の世に用ひらるヽ方も、強う侍らめ」という行であるが、ここで「才」とは中国の学問のことであり、平安期の教養人の理念が「和魂漢才」にあったことを紫式部は示唆しているのである。
中国渡来の先端的知識も大切だが、日本の特性にも心を配るという、和魂漢才を兼具することを評価するというものであったが、鎌倉期の蒙古襲来以降、「和魂」は「やまとだましい(大和魂)」となって神国日本思想を芽生えさせる。(参照、連載46「モンゴルという衝撃」)そして、それが江戸期には本居宣長の「からごころからやまとごころへ」という国学の思想に影響を与え、後述する「国家神道」への伏線になっていくのである。
 平川の「和魂洋才の系譜」は明治を代表する国際人、森鴎外(1862~1922年)に焦点を当て、西洋化日本と和魂の行方を追っている。そして、ドイツに留学して医学を学び、エリート軍医として生涯「官」に仕えた鴎外が残した遺言が「石見人森林太郎として死せんと欲す」であり、「あらゆる外形的取扱いを辞す」であったこと注視している。鴎外は「学問と芸術の位は人爵の外にある」という信念を貫き、官位・勲章などの栄誉に価値を置かなかった。晩年の鴎外は、「易経」にある「自彊不息」(じきょうふそく)、すなわち、自ら静かにつとめてやまない」という言葉を好んだという。西洋の知才の世界を生きながら、東洋的価値観を端然と貫いたわけで、「和魂洋才」を体現した人物といえる。
 また、日本資本主義の父といわれ、五〇〇を超す企業を興した澁澤栄一が七六歳の時に書いた「論語と算盤」(1916年)は、「道徳経済合一主義」を論じたもので、「士魂商才」という言葉が登場するが、明治の経済人の多くが、利潤追求だけではない資本主義を志向した背景には、江戸期に蓄積された価値観が強く潜在していたことを思わせるのである。

 

 

明治というあまりにも特異な時代――国家神道への傾斜

  明治を生きた青年の多くが、真剣に自らが拠って立つべき精神の基軸について苦闘していたこととは別次元で、国家としての日本は「国家神道」の確立に突き進んだ。国家統治の中心に「天皇」を置き、「尊皇」の具体化のための祭政一致の国体の実現を目指したのである。そして、そのことが「戦争」という悲劇に突き進む淵源となったといえる。一八六八年(慶応四年)三月に、明治政府は「祭政一致」の布告を行い、「神仏分離令」が公布された。江戸期の仏教優位の神仏習合を反転させ、神社の地位を仏教寺院の上に置くもので、日本各地において「廃仏毀釈」といわれる過激な寺院・仏像を破壊する運動の引き金を引いた。国家神道の展開と国民への浸透については、島薗進「国家神道と日本人」(岩波新書、2010年)に詳しく触れられており、一八八九年の「大日本帝国憲法」、翌一八九〇年の「教育勅語」という形で、上からの政治主導による「国家神道」体制が形成されていった過程が確認できる。大日本帝国憲法第二八条には「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ゲズ及臣民タルノ義務二背カザル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とあり、キリスト教や仏教まで、すべての宗教の自由が保証されたともいえる。ただし、神道だけは宗教というよりも特異な国家統治のシステムの中心に置かれ、それを定着させたのが「教育勅語」であった。天皇と臣民の紐帯を中心概念として、臣民が守るべき儒教的徳目が提示され、天皇中心の「国体」を護り抜くために「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」という究極の国家神道的価値が強調されたのである。明治期から一九四五年の敗戦以前の時代を生きた日本人は、「教育勅語」を基盤とする教育課程を通じて、「心の習慣」として国家神道の価値観を共有することとなった。
ここで埋め込まれた万世一系の天皇を戴く「神の国日本」という意識が、ドイツ帝国を模した「国家主義」(参照、本連載36「プロイセン主導の統合ドイツに幻惑された明治日本)と相関し合い、富国強兵で自信を深めるにつれてアジアを見下し、「日本を盟主とするアジア」という危うい国家思想に変質していったことを省察せざるをえない。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、国家と帰属組織と個人が共通の目標(坂の上の雲)を見上げて生きることのできた「幸福でもあった時代」として躍動感をもって描いている。敗戦後の戦後なる時代を生きた青年の心象風景は、一〇歳で敗戦を迎えた寺山修司の「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや 」に象徴されるのではないか。価値基軸が崩壊した時代に立ち尽くしたのである。
「昭和軍閥」のせいで真珠湾への道に迷い込んだと決めつけ、明治という時代は西洋化の潮流に青年達が「和魂洋才」で歯を食いしばった時代として認識されがちであるが、祭政一致の国家神道に国民を呪縛し、その帰結としての選民意識とアジアへの侮りが、尊大で無謀な冒険主義に日本を駆り立てた主因だったことを深く認識すべきである。戦後において、日本国憲法の下に「政教分離」がなされ、神道と国家の結合は否定されたが、今上天皇の即位に関わる一連の儀式において明らかなごとく、皇室祭祀はほぼ明治期天皇制を踏襲しており、政治リーダーの中には国家神道への回帰をもって「日本を取り戻す」ことと考えている勢力もある。

 

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