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岩波書店「世界」2019年4月号 脳力のレッスン204 キリスト教の東方展開の起点としてのビザンツ帝国― 一七世紀オランダからの視界(その55)

 西ローマ帝国が滅びた後も東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は一五世紀まで生き延びた。このビザンツ帝国こそ東西の接点としてユーラシアの「近代」の触媒となる。だが、ビザンツ帝国は日本人の歴史観の死角である。何故ならば、明治以降の日本は西欧を模範として近代化を図ってきたため、歴史学においても、西欧への関心が深く、東ローマ帝国への関心は極めて薄かった。ビザンツ研究が本格化したのは戦後のことであった。
 東ローマ帝国の起源に関し、何故コンスタンティヌス帝が、三三〇年にコンスタンティノポリスに遷都したのかについて、「ローマの神々ではなく、自らが帰依したキリスト教に基づく首都を創りたかった」という説もあるが、本質的にはローマ帝国の経済基盤が東に移り、ボスフォラス海峡から黒海に繋がり、地中海世界とアジアの結節点に帝国の重心を移すことを意図したといえよう。南雲泰輔の「ローマ帝国の東西分裂」(岩波書店、2016年)などの近年の研究は、遷都後のローマ帝国が東西に分裂した要因を解析している。西ローマでは、元老院貴族による閉鎖性が食糧危機などへの対応力を失わせたのに対し、東ローマでは「専制君主」を支える官僚制・行政機構が機能して東方の経済力を柔軟に吸収した構図が理解できる。
 ローマ帝国史といえば、E・ギボン(1737~94年)の全七一章の大作「ローマ帝国衰亡史」が思い浮かぶが、ロイ・ポーターの「ギボン――歴史を創る」(中野好之他訳、法政大学出版、1995年、原書1988年)を読むと、「歴史家が歴史を創る」という視界に共感を覚える。ローマ帝国の辺境だった英国の歴史家によって、しかも一八世紀の英国に生きた人物の歴史観が投影されていることに気付くのである。
 ギボンが生きたのは、英仏植民地戦争(1757年インドでのプラッシーの戦いなど)の時代であり、産業革命期(1769年アークライトの水力紡績機、ワットの蒸気機関)であった。ポーターは、ギボンの「キリスト教への冷笑」傾向に言及しているが、確かにギボンは「キリスト教の導入、その蔓延がローマ帝国の衰亡に影響を与えた」との見解を隠さず、西ローマ帝国の滅亡について、「聖職者たちは忍耐と臆病礼賛の教義を説いて、効果をあげた。社会の活気は水をさされ、軍国精神の最後の名残が失われた」と論じた。大英帝国の進路と重なる問題意識があったのであろう。ヘンリー八世の「六人の王妃がいた」という異様な女狂いという事情からローマと断絶して英国教会が設立(1534年)されて二〇〇年以上が経過、英国が自信を深めていた時代にギボンはローマ帝国史を書いたのである。

 


ビザンツ帝国とキリスト教の核分裂―――東方正教会、東方諸教会

 

ジョナサン・ハリスの「ビザンツ帝国――生存戦略の一千年」(白水社、2018年)の原題は“The Lost World of Byzantium”で、著者がイスタンブールなど、ビザンツ帝国の栄光が埋め込まれた地域を探査した作品だが、彼が抱いたキリスト者としての感慨が「失われた世界」であった。私自身もイスタンブールを五回訪れたが、現在のイスタンブールではイスラム遺跡だけが目立ち、ここに東方キリスト教の千年王国が存在した痕跡は、かつてのギリシャ正教の大聖堂がアヤソフィア博物館となって残るだけに見える。だが、一歩踏み込むと、埋め込まれた地下宮殿(ユスティニアヌス帝時代からの地下貯水池)などビザンツ帝国の遺産が見えてくる。この街は城郭都市で、海で囲まれた旧市街の西にコンスタンティヌスの城壁(330年完成)、さらにその外にテオドシウス二世の城壁(413年完成)という二重の城壁がビザンツ帝国を護り抜いたといえる。
 三九五年にローマ帝国が東西に分裂した後、ビザンツ帝国は「ローマの栄光」を継承し、ギリシャ正教を中心にヘレニズム文化を伝承する基盤として存続し続けた。ビザンツ帝国にとっての最大の脅威は七世紀に忽然と台頭したイスラム勢力で、結局、一四五三年にオスマン帝国のスルタン・メフメト二世率いる三〇万人のイスラムによりコンスタンティノープルは包囲され滅亡する。BC七五三年のローマ建国以来二千年以上続いたローマ帝国の歴史を閉じたのである。
ビザンツ帝国のもう一つの脅威はスラブ人の北からの圧力であった。ゲルマン民族の西方移動の後を追うようにドナウの彼方から姿を現したのがスラブ民族であった。歴史は玉突きのごとく動く。五世紀の後半、ビザンツ領内に侵攻し始めたスラブ民族に対してビザンツはヘレニズム的キリスト教化を図った。大きな転機が九八八年、ロシアの原点とされるキエフ・ルーシのウラジミール大公がビザンツ皇帝の妹と結婚、洗礼を受けてキリスト教に入信したことであった。さらに、キエフがモンゴルに制圧されたことにより、一二九九年には主教座をモスクワへ移動、ロシア正教となり、一五四七年には雷帝イヴァン四世がモスクワを「第三のローマ」と呼ぶに至った(参照、連載41)
 だが、一九一七年のロシア革命を経て、レーニンは「宗教法」で、科学的社会主義の確立のために、宗教を「個人的な礼拝」に限定、ロシア正教は苦難の時代を迎えるが、一九九〇年には、ソ連崩壊直前の最高会議による「新宗教法」で「宗教に関する表現・布教の自由」が認められ、復権する。今日、奇しくもウラジミールの名を持つプーチン大統領は、ロシアの統合理念として「正教大国」を掲げ、「ロシアの正教回帰」が図られている。
キリスト教はビザンツを基点に核分裂しながらユーラシアに浸透したのだが、ビザンツ教会とローマ教会の関係は複雑である。ローマ教会は西ローマ帝国滅亡後もローマ教皇がすべてのキリスト教指導における首位権を主張する「教皇至上主義」に立ち、ビザンツ教会は地域教会の総司教による合議制を重視していた。決定的な東西教会の亀裂が生じたのは一〇五四年で、ローマ教皇レオ九世の使節とコンスタンティノープル総主教ミカエル一世(在位1043~59年)が相互の破門状を投げつけあう事態を迎えた。一九六五年に相互に破門状を破棄するまで、実に九〇〇年以上も断絶を続けたのである
この間、東西が連携してイスラムの脅威と戦う十字軍の時代が存在したと思いがちだが、
ビザンツ帝国にとっての十字軍は微妙であった。一〇七一年、ビザンツ皇帝ロマノス四世は一〇万の軍勢を率いて、アナトリアのセルジューク朝スルタンのアルプ・アルスラーンの四万の軍と激突した(マラーズギルトの戦い)。結果は、ロマノス四世が捕虜となる惨めな敗北となった。このトラウマが十字軍への伏線となる。アナトリアのセルジューク朝の勢力拡大に対して、ビザンツ皇帝からローマ教皇ウルバヌス二世への異例の救援要請を受けて、一〇九五年に「聖地回復の義務」(クレルモン宗教会議)によって第一回十字軍が送られた。だが、一二〇四年第四次十字軍によるコンスタンティノポリスの占領と略奪がビザンツの不信と怒りに火をつけた。十字軍の戦勝を受けて占領下に設立された「ラテン系諸国」は、ビザンツ帝国にとって難儀な飛び地となり、十字軍は派遣費用を負担したベネチアなどの打算を投影し、「聖地奪還」とはほど遠い醜悪な存在となった。
ビザンツ史を再考する時、ハリスが前掲書において「問うべきは、なぜ滅びたかではなく、なぜ存続できたのかだ」という言葉が心に響く。ビザンツが「偏狭な軍国主義国家にならず存続したこと」がポイントで「最大の遺産は、他者をなじませて統合する魅力」がビザンツを存続させた最大の遺産という視点であり、外交、キリスト教文化、芸術を通じた征服こそビザンツを千年王国とした理由であろう。
二〇世紀の優れたビザンツ帝国研究者たるポール・ルメルルの「ビザンツ帝国史」(西村六郎訳、白水社、2003年、原書1988年)は、ビザンツ帝国がギリシャ文化の影響をアラブ人やトルコ人に与え、スラブ民族に宗教と諸制度を受容させる装置となったことを論じ、「結語」において、「西欧の諸国では、商人や修道士、巡礼や十字軍を通じて、はるか離れた魅惑のコンスタンティノポリスから受ける影響は絶えることはなかった。そして、トルコ人による征服の後、多くの学識のあるギリシャ人が西方にやってきて、彼らの学問や蔵書の名残をもたらしたとき、ビザンツは西方にその最後の伝言を伝えた」と語る。

 

 

景教という視角からのキリスト教裏面史―――アジアに伝わったキリスト教

 

  エルサレムのゴルゴダの丘に立つ聖墳墓教会を訪れた時、強く印象づけられたのが、小さな教会の中が様々なキリスト教の分派によって分割管理されていることであった。区画ごとに、ローマ・カトリック、ギリシャ正教、エチオピア正教、アルメニア正教、コプト正教、シリア正教という形で分割管理されており、それぞれが「イエスの石棺」「イエスの十字架」などイエスに関わる聖遺物を保有していた。権威には必ず分派が生じる。そして分派の対立の中で、異端排除がなされて、それぞれが正統性を掲げて自己主張をする。他者の苦しみへの共感を語るキリスト教が民族を超えて浸透するにつれて分派活動に至る。これが人間社会の現実である。

 ローマから異端とされたネストリウス派キリスト教はユーラシア史に異彩を放っている。四三一年に皇帝テオドシウス二世によって召集されたエフェソス公会議において、イエスの「人性」を主張し、聖母マリアを「神の母」と呼ぶことに反対したコンスタンティノポリス大司教のネストリウスが、民衆のマリア崇敬を利用した陰謀により異端として追放された。だが、ネストリウス派は小アジア、シリア、エジプト、ペルシャから中国にまで教勢を広げた。六三五年には唐の長安に「景教」という名で景教僧アロペンにより伝道され、景教寺院まで設立されたこと、さらに七三六年には入唐副使中臣名代が、大宰府に「唐人・波斯人を率いて拝朝する」が、その中に景教僧がいたらしきことは既に触れた(参照、本連載17、42)。つまり、ザビエルによる伝道の八〇〇年以上も前に、一端はキリスト教の伝道者が日本に辿り着いていた可能性を示すもので、一切定着しなかったことを含め、歴史の謎は深い。伝来と受容は相関するのである。
 ただし、七世紀における中国への伝道は史実であり、大航海時代に乗って、一六世紀末にマテオ・リッチが伝道するよりもはるかに早くキリスト教が中国に伝わっていたものの、皇帝武宗によって八四五年に禁止され、その一部の勢力がモンゴルに流れた。そのことが一二世紀半ばに奇怪な形で曲折し、欧州史に浮上する。苦境に陥った十字軍を背景に、イスラム勢力の彼方からキリスト教を奉じる王「プレスター・ジョン」が救援にやってくるという噂話である(参照、連載46)。ビザンツ帝国マヌエル1世(在位1143~80年)宛てのプレスター・ジョンからの手紙までが出回った。それらは十字軍を鼓舞するための偽造にすぎなかったが、元朝のフビライが一二八七年に欧州(コンスタンティノポリス、ローマ、パリ)に派遣したウイグル人景教僧の話など虚実入り混じった欧州の潜在願望が表出したのが「プレスター・ジョンの伝説」であった。欧州の地図には、大航海時代になってもエチオピア付近に「プレスター・ジョン」の王国を描いたものも存在する。
 

 

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