岩波書店「世界」2018年8月号 脳力のレッスン196特別篇 一九六八年再考―トランプも「一九六八野郎」だった
五月二四日の夕刻、恵比寿の日仏会館ホールで、「パリ一九六八年五月革命五〇周年記念」として、加藤登紀子のトーク&ライブが行われ、小生も彼女のトークの相手として登壇した。彼女が東大生だった時代、シャンソン・コンクールで優勝し、その副賞として一九六五年に最初にパリを訪れたという加藤登紀子は、「中国女」などの作品で有名な映画監督のジャン=リュック・ゴダールが一九六八年のカンヌ映画祭に乗り込み、既存の商業作品を「全否定」する勢いで映画祭を中止に追い込み、五月革命に共鳴する情熱的活動を繰り広げた話を語った。そして、間もなく日本でも公開される映画「グッバイ・ゴダール」が、ゴダールの恋人だった女優の目から見たゴダール像を「戯画化」して描いた作品であり、今年のカンヌ映画祭で特別賞を獲得したことなど、興味深い話を紹介していた。
静かに距離を置き、余裕の微笑みで振り返りながらも、フランスの文化人は一九六八年を忘れてはいないのだと思う。加藤登紀子も「一九六八年の精神」にこだわっている。「さくらんぼの実る頃」「美しき五月のパリ」を歌い続ける姿にそれを強く感じる。スチューデント・パワーが世界で荒れ狂った一九六八年とは何だったのか、五〇年目の今、改めて考察しておきたい。
一九六八年とは何だったのか
第二次世界大戦が終わり二〇年以上が経過した一九六〇年代後半、世界は東西冷戦の真只中であったが、その軋みが見え始めた。その臨界点に至ったのが一九六八年であったといえよう。資本主義対社会主義、世界を二極に分断して覇権を競い合っていた東西二極の指導国が色褪せ始めていた。
西側のチャンピオンたる米国は、一九六三年のケネディ暗殺によって陰りをみせ、泥沼化するベトナム戦争と北爆の開始、そしてキング牧師の暗殺(四月)と黒人差別に抗議する「貧者の行進」が六月にはワシントンで十万人集会、同じ六月にロバート・ケネディもLAで暗殺され、世界の若者は米国の闇の深さに暗澹たる思いを深めた。民主主義を理念として掲げ、自由主義陣営を率いる米国は「ベトナム」と「人種差別」によって光を失っていった。異議を唱える運動の先頭に立ったのは学生であった。
一方、東側といわれた社会主義陣営の総本山たるソ連も、「プラハの春」といわれたチェコの自由化路線に戦車によって介入(八月)、東側の「鉄のカーテン」の現実に社会主義に一抹の希望を抱いていた若者を落胆させ、失望が「新左翼」の活動を誘発していった。
こうした冷戦の新局面を背景に、フランスでは「パリ五月革命」が勃発した。そもそもの発火点は同年三月、パリ大学ナンテール分校で、学制改革や男女寄宿舎相互訪問の自由などを巡り、学生が占拠闘争を開始したものであったが、五月にはカルチェラタンを要塞化して警官隊と衝突、労働総同盟も呼応してゼネストに入り、四〇万人が反ドゴール・デモに参加、「もはやデモや騒動ではなく反乱」と報じられる事態を迎えた。決起した若者の心象風景には、ほぼ一〇〇年前の一八七一年の「パリ・コミューン」があったことは間違いない。先述のゴダールも、それまでの自分の映画作品を否定してまでパリ五月革命に共鳴し、連帯した。東西二極のリーダーたる米国、ソ連に失望した若者の眼差しの先に「第三世界」への幻想が浮上していた。まだ未知数だった中国への関心、毛沢東語録の「造反有理」への共感が若者の共同幻想となった。一九六五から十数年続いた「文化大革命」は不気味ではあったが、「絶対に階級闘争をわすれてはならない」という一九六二年の毛沢東の指示は木霊のように響いていた。帝国主義と戦う中南米の星、カストロやゲバラへの憧憬が若者達を衝き動かしていた。今日のようなNETの時代とは違い、確かめようもない不思議な情報が拡がっていた。日本で一九六九年に流行った新谷のり子が歌った「フランシーヌの場合は」という歌があった。「三月三〇日の日曜日、パリの朝に燃えたいのちひとつ、フランシーヌ」という歌詞が耳に残る。「ベトナム戦争とビアフラの飢餓問題に抗議して焼身自殺した」とされるフランシーヌ・ルコントなる女性(当時三〇歳)をモデルとする歌なのだが、何故かあの時代の若者の心情に響く歌だった。遠く離れた「海を超えた他国の不条理」にフランスの若者が怒っていることが重く響いた。
日本の一九六八年も熱い特別な季節だった。一九六四年の東京オリンピックを成功させ、「復興から成長への自信」が定着し始めていた。多くの国民にとって実感はなかったが、GDPは世界二位へと躍進、一九六六年からは「3Cブーム」(カラーTV、カー、クーラーなどへの消費の爆発)といわれ、大衆消費社会が現実のものになっていた。成長の恩恵がサラリーマン層にも浸透、「労働者階級意識」は希薄化、六〇年安保闘争の挫折感も深く、労働者の意識は「闘争よりも生活へ」と向かい始めていた。こうした状況への苛立ちと旧左翼への失望が学生たちを衝き動かした。それが学園紛争の背景であった。一つの焦点が日大紛争であった。一九六八年五月、国税庁から指摘された日大の使途不明金二〇億円を巡る問題への責任追及と学園民主化を求める経済学部の学生の行動が、全学の無期限封鎖に発展、翌一九六九年の二月に機動隊導入で解除されるまで、「神田カルチェラタン」といわれるほど都心の市街地での騒乱が続いた。実は、この日大闘争が五〇年後の「アメフト部の違法タックル問題」の伏線にもなっている。日大闘争時、大学当局と手を組んで全共闘運動に攻撃を仕掛けた体育会系学生を日大は職員として雇用し、優遇した。それが今日の日大の理事会の中枢を占めるに至ったのが、今も日大の経営を呪縛しているという。もう一つの舞台が東大紛争であった。一九六八年一月に医学部の「登録医制度」反対運動から火が付き、六月には反日共系学生組織による安田講堂占拠、七月には東大全共闘の組織化(山本義隆議長)、翌六九年一月には八五00人の機動隊員との安田講堂攻防戦に至り、この年の入試は中止となった。結局、日大紛争も東大紛争も学生だけの運動に留まり、市民や労働者の運動と連携することもなかった。権力によって抑圧される中で、運動は孤立、追い詰められる中で「ゲバルト化」「セクト化」し、血生臭い内ゲバ、無差別爆破、ハイジャック事件などを起こして孤立していった。一九六五年に小田実のべ平連「ベトナムに平和を、市民連合」が設立され、市民レベルの運動に真摯に向き合う人たちもいたが、広がりをみせなかった。
それでも、一九六八年は世界中の若者が、時代に関する感受性を刺激され、悩み、それぞれの思いで行動した。「若者の不条理への怒り」が重層的なうねりとなって共鳴し合った瞬間だった。
トランプも「一九六八野郎」だった
あの時、何をしていたか、どう生きたかはあの時代を生きた青年にとって極めて重いポイントである。ドナルド・トランプ、現在の米国大統領も、実はあの時代を同世代人として生きた「一九六八野郎」であった。彼は一九四六年六月一四日生まれ、現在七二歳、一九六八年の頃は二二歳の青年であった。M・クラニッシュ他ワシントン・ポスト取材班の「トランプ」(原題“TRUMP REVEALED”、2016)やトランプ自身の「トランプ自伝」(早川書房、1988年、原書“TRUMP:ART OF THE DEAL”、1987年)を基に、あの「一九六八年」に、この世界をかき回している男は何をしていたのか確認しておきたい。
D・トランプは、一九五九年に NYミリタリー・アカデミーに入学した。その頃から「おれは有名になる」と豪語していたというが、一九六六年秋に入学したペンシルバニア大学のウォートン・ビジネススクールでは、「美人を連れて歩くのが好きな奴」という印象を多くのクラスメートに残している。一九六八年は、ペンシルバニア大学でも「ベトナム反戦運動」が吹き荒れたが、ウォートンの二年目であったトランプは、そうした社会的・政治的動きには一切の関心を示さず、只管「金もうけと女性」に専心していた青年トランプの姿が浮かび上がるのである。
ウォートン・ビジネススクール時代について、トランプは「私は連邦住宅局の抵当流物件のリストを読みふけっていた」と語り、父親と組んでオハイオ州シンシナティ―の古びた住宅団地を最小限の付け値で落札、家賃滞納の入居者を追い出し、その管理運営で一儲けしたことを自慢げに語っている。自分を「シンシナティー・キッド」と呼んで、卒業時には二〇万ドルの財産を持っていたと胸を張るが、一九六八年という時代に世界の若者が「社会変革」に血をたぎらせていたことなど関心の対象外で、一切言及はない。
この時代を生きた米国の世代に関して気になるのは、ベトナム戦争との関りである。トランプの「徴兵検査」に関しては疑問が残る。トランプの場合、当初は「兵役適性」の「1・A評価」だったが、一九六八年のウォートン卒業時の検査では「国家の緊急時を除き医学的に不適格」を意味する「1・Y評価」となり、一九七二年の再検査では「兵役不適格」を意味する「4・F評価」に引き下げられている。七〇歳を過ぎても盤石の健康を誇示する人物としては不可解なことだが、両足の踵に「骨棘」(骨膜の内側からできるトゲ)ができたためと説明されているが、巧みに兵役を避けようとした意図が隠されているように思われる。「医学的に不適格」として兵役を回避する自分本位の男、時代に正対するもことなく、青年期を自分自身のためだけに生きた男というのが若きトランプの実像といえる。
トランプは、自分は取引(DEAL)の達人であるとして、その極意を次のように語ってみせる。「取引で禁物なのは、何が何でもこれを成功させたいという素振りをみせないことだ。・・・・一番望ましいのは、優位に立って取引をすることだ。この優位性を私はレバレッジ(てこの力)と呼ぶ」―――この自己陶酔型の人物の視界には、目指すべき理念、自分の生き方に疑問を抱く力、問題を深く考察する知的葛藤が皆無である。それが、世界の不幸をもたらしていることに気づく。
トランプの一九六八には、ベトナムや黒人運動への問題意識は存在しない。社会的問題意識がすっぽり抜け落ち、専ら個人的欲望に邁進する姿が印象に残る。その対照として思い出されるのが映画「七月四日に生まれて」である。一九八九年のオリバー・ストーン監督の作品で、トム・クルーズが傷ついたニューヨーク出身のベトナム帰還兵を熱演していた。実話に基づく作品で、「自由と民主主義を守る」という理念に駆り出されてベトナムの戦場に立ち、障碍者となって故国に還った兵士への冷たい眼差しに苦悩する若者が描かれていた。正にこの主役の青年と同世代がトランプなのである。国の掲げる価値を真摯に信じてベトナムに行った青年は死傷し、背を向けて「女とカネ」に執着していた男が大統領になる。こんな理不尽があっていいのであろうか。だが、それが現実なのである。
日本の六八年世代として―自分自身への問いかけ
私自身、一九六八年は早稲田大学政経学部の二年生であった。全国の政治好き人間の集積地でもある「早稲田の政経」は、革マル、民青、社青同を始め左翼セクトが入り乱れ、そこにノン・セクトの全共闘運動が吹き荒れ、翌一九六九年にかけて、「学園封鎖」という事態が続いていた。私自身は、左翼運動黄金時代のキャンパスにおいては「右翼・秩序派」と括られながらも、「一般学生」を束ねて大学改革を迫る活動に主導的に関わっていた。学生集会を繰り返し、全共闘運動と正面から対峙していた。機動隊導入で「学園正常化」という事態になった時、二〇〇〇人を超す支持者で盛り上がっていた我々の運動は急速に萎え、四年生は就職を決めてさっさとキャンパスを去り、最後に行ったティーチイン集会に集まった仲間は、わずかに六人であった。
少しは本気で勉強しようと、大学院に進み、焼野原に立つ思いで同人誌に書いたのが、一九七一年の論稿「政治的想像力から政治的構想力へ」であった。この論稿は、後にPHP新書「われら戦後世代の『坂の上の雲』―――ある団塊人の思考の軌跡」に所収(PHP研究所、2006年)されるが、私自身の一九六八年の総括でもあった。
生硬く気恥ずかしい原稿ではあるが、二三歳の私自身の「一九六八」への思いが凝縮されている。私は「全共闘運動」を政治的な運動というよりも、非政治的人間の未熟な疑似政治運動であることを直感していた。「大衆社会化の進行がもたらした量化のメカニズムの中で無意識のうちに失われていく人間的価値を防衛しようとする敏感さこそ全共闘運動の本質であった」と、私はその論稿に書いている。全共闘運動は、当時の共産党が指導していた「民青」、社会党が指導していた「社青同」などの大人が指導する既成左翼とは一線を画し、政治的計算や打算もなく、ある意味純粋な時代状況への拒絶反応だったといえる。それ故に政治運動としては「未熟」であり、自己陶酔的であった。
若干、早熟だった私は、セクト抗争に終始する学生運動に失望し、「政治的想像力から政治的構想力へ」というタイトルに凝縮されるごとく、問題を提起するだけの想像力だけでなく、解決方向の模索とそのための条件の探求において、責任ある構想力が必要なことを語り、「自らの足場を固め、時代を克服する構想に挑戦する限り、決して『挫折』することはない」と論稿を結んでいる。おそらく、あの時点での精一杯の「虚勢」だったのかもしれない。
一九七〇年代から就職を決めて社会参加し始めたこの世代の多くは、高度成長を支える企業戦士として生きた。工業生産力モデルの優等生としての道を走った戦後日本産業の現場に立ち、鉄鋼、自動車、エレクトロニクス、化学品など外貨を稼ぐ産業を支えた。一九六六年、東京オリンピックの二年後、一〇〇〇ドルを超した一人当たりGDPは一九八一年に一万ドルを超した。一九七三年、七九年の二度の石油危機を経て、日本は一九八〇年代末の「バブル期」へと突き進んでいく。
全共闘運動に身を投じていた連中の多くは、「表面は赤(左翼)がかっていても一皮むけば真っ白だ」という意味での「真っ赤なリンゴ」とからかわれながらも、企業社会の現場で必死に役割を果たした。日本企業の海外進出がピークだった一九九〇年前後、多くのサラリーマンが海外に赴任、同行した子供達に「帰国子女」という言葉が使われたのもこの頃であった。
二一世紀に入って、「六八年野郎」の世代も順次、高齢者となり、日本の人口の三割に迫る高齢者人口の中核となった。二〇五〇年には高齢者が人口の四割、有権者人口の五割、有効投票の六割を占める時代に向かう。「高齢者の、高齢者による、高齢者のための政治」になりかねない状況を見つめて、戦後民主主義を踏み固め、次にいかなる日本を目指すのかを模索したのが、岩波新書からの「シルバー・デモクラシー」(2017年)であった。また、「一〇〇歳人生」といわれる長寿社会が、決してめでたいことばかりではなく、「定年退職後四〇年生きなければならない時代」であり、これらの高齢者を健全な形で社会参画させるシステムを模索する「ジェロントロジー」(高齢者社会工学)の必要性を提起したのが、「ジェロントロジーの新しい地平」(本連載194、本誌六月号)であった。
二〇一八年という節目と、問われる一九六八の精神
五〇年前の一九六八を見つめ、五〇年後を視界に入れながら、自らの立ち位置を議論してきた。人はそれぞれ、自分が生きた時代と向き合い、時代によって錬磨される。そして、どれだけ真摯に時代と向き合ったかが、人生の意味を変える。今、世界各国のリーダーといえる人の年齢は、トランプ七二歳、プーチン六五歳、習近平六五歳、英国メイ六一歳、独メルケル六四歳、仏マクロン四〇歳、日本の安倍首相は六三歳である。
本稿で、トランプの出自とこの人物の本質を論じたが、トランプ現象に揺さぶられる世界を再考する時、「奇怪な指導者が唐突に登場した」のではなく、「アメリカ・ファースト」に呼応する疲弊した米国があることに気付く。J・F・ケネディが高らかに語っていた「アメリカの世紀」「アメリカの国際責任」という言葉の起源は、タイム・ワーナーの創始者H・ルースが、第一次大戦を境に英国に代わって西側世界のリーダーになった米国の使命感を語るものだった。その誇りも余裕もかなぐり捨てざるを得ない状況に米国が追い込まれているというのが今日的状況なのだ。
世界の指導者の原体験のようなものを探るならば、中国の習近平は一六歳だった一九六九年から七年間、文化大革命期を背景に陝西省に農村下放という辛酸を舐めている。ロシアのプーチンは三九歳の時に、ソ連崩壊の衝撃を受けとめている。愁嘆場に立つような原体験を持っているのである。これに対して、現代日本の政治指導者の多くは、親の地盤・看板がなければ政治家にさえならなかったと思われる「弱さ」を感じる。世代的にも、「一九六八世代」からは遅れてきた青年達で、政治の季節が終わった「ゲバ棒もヘルメットも立て看板のないキャンパス」で「同好会世代」として過ごした「甘さ」を感じる。これは日本の弛緩した状況と無縁ではない。社会の構造的問題と格闘したことの無い人間は、「私生活主義」に埋没し、簡単に国家主義、国権主義を引き寄せてしまう。
かかる状況下だからこそ、日本の「一九六八世代」が失ってはならないものがある。一九六八を「若気の至り」の思い出話にしてはならない。少なくとも、五〇年を総括し、歴史の歯車を前に進める役割に気付かねばならない。戦後民主主義と平和と安定の恩恵を受けてきた世代として、国権主義と戦争を拒否するエネルギーを持続させねばならない。
一九六八から五〇年経った今、歴史は進歩しているとは思えない。トランプやプーチンのごとく自国利害中心主義に立つ指導者が登場し、中国の習近平にグローバル秩序の重要性を語られるパラドックスの中にあり、未来に希望を持てる時代ではないように見える。
確かに、歴史は一直線には進まないが、長い視座で考えれば「条理」の側に動く。
この五〇年、冷戦が終わり、イデオロギーの対立は終焉を迎えた。イデオロギーが後退したら、宗教と民族への回帰が生じている。さらに、底流では米国流の「金融資本主義」と「デジタル専制」(巨大化したIT企業によるデータリズム)が世界に浸透し、新しい「格差と貧困」を増幅させている。世界はこれらを制御する「新しいルール」を見いだせないまま、それぞれの自己主張に立ち尽くしている。だが、世界を動いて感じるのは新たな地平も見え始めている。「ネオ・リベラリズム」とでもいおうか、国家主義でも階級主義でも人種主義でもなく、国境を超えた新たなルールを模索する議論が芽生え始めている。こうした問題意識を開花させるエンジンは「歴史の鏡を磨く」ことからしか生まれないのである。私も「持続する志」を持って、この課題に挑戦したい。
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