岩波書店「世界」2018年5月号 脳力のレッスン193 大中華圏とモンゴル、その世界史へのインパクト―一七世紀オランダからの視界(その48)
もう一度、モンゴル帝国の最大版図を注視してみよう[参照図1]。チンギス・ハンによって創建されたモンゴル帝国が、その孫バトゥの「ロシア・東欧遠征」によってポーランド、ハンガリーにまで攻め込み、キプチャク・ハン国を残し、ロシア史に「タタールの頸木」というトラウマを残した構図については既に述べた。(参照連載47)
また、中央ユーラシアにチャガタイ・ハン国とイル・ハン国を展開、その版図の広大さは驚くべきものである。チャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)は、一二二四年にチンギス・ハンの息子チャガタイ・ハン(察合台汗)が天山北嶺から南を所領する形で形成された。一四世紀半ばに東トルキスタンと西トルキスタンに分裂、その西トルキスタンを再編する形で謎の一代王朝たるティムール朝(1370~1507年)が台頭したが、このティムール朝もモンゴル帝国の断片であったともいえる。一六世紀のインドに登場したムガール帝国の「ムガール」もモンゴルという意味であり、その正統性の根拠はモンゴルにあった。初代皇帝バーブルの父方はティムールから五代目の直系子孫であり、母方はジンギス・ハンの末裔ということで「モンゴルの継承者」という権威付けが必要だった。モンゴルの影はインドにまで及んでいるのである。
イル・ハン国(フレグ・ウルス)は「イランのモンゴル王朝」(1256~1353年)といわれるが、一二五三年にチンギス・ハンの孫モンケ・ハンの弟フラグがユーラシアの南へと遠征、バグダッドのアッバース朝を滅ぼし、イランを制圧、第七代のガザーン・ハン(在位1295~1304年)がイスラム教を採用したことで「モンゴル人のイスラム化」とされる。イラン史にもモンゴルが埋め込まれているのである。(参照連載42「オスマン帝国の後門の狼サファヴィー朝ペルシャ」)
つまり、一三世紀のモンゴル帝国は、大元ウルスを中核とし、西方に並立する三つのハン国との連合体であったが、オゴタイ(太宗)の孫ハイドゥが一二六九年に諸王を誘ってフビライに反攻する事態が生じて以降、元は次第に中国支配へと集中し始めていく。
モンゴル研究の大家・岡田英弘は「チンギス・ハーンとその子孫―――もうひとつのモンゴル史」(2010年補訂版、ビジネス社)において「世界はモンゴル帝国の末裔である」という認識を展開しているが誇張ではない。岡田史観といわれる「世界史の誕生」(1992年、ちくまライブラリー)という視座、すなわちモンゴル帝国のユーラシアへの展開が東西世界を繋ぐ基点となったという歴史観は、西欧中心の歴史観の影響を受けてきた視点にとって刺激的であり、説得力がある。
大中華圏の原型としての大元ウルス
中国にモンゴルが与えたインパクトは大きかった。現存するだけで六二五九KMといわれる「万里の長城」建設という途方もない試みが、北方民族への中国の恐怖心を象徴するものであることは既に述べたが、中国はその北方民族・モンゴルに屈し、ついに中原を制圧さてしまった。「元王朝」の登場である。
チンギス・ハンの孫フビライ・ハンは南宋攻略を目指して南進、一二六四年に弟アリク・ブケとの帝国分裂危機を制し、一二七一年には国号を大元とし、その初代皇帝・世祖となった。一二七六年には、南宋の首都を攻略、中国全土を支配、首都をカラコルムから大都(現北京)に遷都、中国的官制を採用、二%弱の支配階層としてのモンゴル人の下に多民族国家形成した。大中華圏へのパラダイム転換であった。モンゴル史から中国史を捉える視座として、杉山正明「疾駆する草原の征服者」(中国の歴史08、講談社、2005年)は示唆的で、「大元ウルスの出現以前、『中国』は『小さな中国』であった」という指摘は正しく、モンゴル時代に中国の枠は一気に巨大化したのである。つまり、それまでの中国王朝は漢民族を中心とする農耕民を支配する王朝であり、元朝以降、農耕民・遊牧民を支配する多民族統治王朝へと変わったのである。
日本人にとって、「遣唐使」まで派遣して、その文明・文化を崇敬した漢民族の「唐王朝」(618~907年)の領土と「元朝」の版図を比べれば、そのことは分かる。そして、今日の中華人民共和国が、「大中華圏」という視界にまで繋がる、異様に膨張した国家であることが理解できる。[参照図2]
モンゴル帝国はその巨大な版図を繋ぐ交易と交流のネットワークを形成していた。後の明の時代の「鄭和の大航海」を殊更に偉業とする見方は余りに中国中心の視界であり、「モンゴル時代以来のインド洋上ルートによる往来を踏襲した」と杉山正明は冷静である。元が陸と海の巨大な交易圏を作っていたことは確かである。
フビライの栄光期を経て一四世紀に入ると、元朝は、モンゴルの復興を期待された三代カイシャンの後、歴代皇帝の無能力(モンゴル精神の衰弱)に加え、異常気象や黄河の氾濫などもあって急速に疲弊する。そこに、阿弥陀信仰から生まれた仏教系の秘密結社白蓮教の反乱が拡大、紅い頭巾を被った「紅巾の乱」によって混乱、皇帝トゴン・テルムは明軍の攻撃で一三六八年に大都を放棄した。中国史では、この時点で元朝滅亡となる。トゴン・テルムは一三七〇年に死去するのだが、北方に逃れたモンゴル族はカラコルムを拠点に「北元」を形成し、その後20年間、中国は南北朝の対立を続けた。 元の最後の皇帝トゴン・テルム(1333~1368年)は「天命に順じた」と評価され、明朝から「順帝」と加号された。いかにも中国的認識の投影といえる。漢民族にとって「元」は征服王朝であったが、征服者を漢文明・文化に取り込み「大中華圏」へとパラダイム転換する転機であった。
その後の中国は漢民族支配の「明」という時代を経て、満州族支配の「清」という時代を迎えるが、その「清」も正統性(権威づけ)の根拠はモンゴルにあった。 一六三六年に満州族のヌルハチによって建国され、辛亥革命まで続いた「清朝」の正統性は、初代ヌルハチの息子のホンタイジが、「北元」を継承する形で、ダヤン・ハンの直系のリンダン・ハンから元朝の玉璽を引き継いだことにあった。
ところで、現在の中国を指導する習近平国家主席は、本年三月二〇日に閉幕した第一三期の全人代で、憲法を改正してまで「国家主席の任期制限を撤廃」、長期政権への布陣を行い、就任以来掲げてきた「中華民族の歴史的復興」に近づきつつあることへの自信を見せた。現在の中国では、漢民族が人口の九二%を占めるが、残り八%は五五の少数民族から成り立つ多民族国家である。五五の少数民族の内二二が人口一〇万人以下の民族であり、「中華民族」には内モンゴルに約四〇〇万人のモンゴル人を抱えるほか、満州族、朝鮮族などもその一翼を占める存在となっている。
世界史におけるモンゴル帝国再考
モンゴル帝国は「異民族を束ねる」という意味で、近現代史における帝国主義国家の原型でもあった。モンゴルという時代を経て、世界は様々な帝国を生む。オスマン帝国、ロシア帝国、ムガール帝国、そして欧州にはポルトガル、スペイン、オランダ、英国という形で連鎖する海洋帝国が出現し、「大航海時代」を迎える。
我々はこの連載を通じて、「一七世紀オランダからの視界」として、資本主義、民主主義、科学技術からなる「近代」の揺籃期としてのオランダに焦点を当て、「西力東漸」の世界史の力学を確認してきた。そして、大航海時代の誘因としての「イスラム(オスマン帝国)の壁」、さらに西欧文明にとっての「イスラムの貢献」という要素を確認し、グローバル化の始まりが、「一五七一年のスペインによるマニラ建設による世界的交易システムの確立」にあるというD・フリンの見方も紹介した。(参照連載16)
また、「西欧によるアジア発見」という見方が必ずしも正しいものではなく、むしろ「東力西進」という視界、例えば、一五世紀の明の永楽帝が主導した七回におよぶ鄭和の大航海が大航海時代に先行したことや、人類の四大発明の起源が中国にあるという史実にも言及してきた。(参照連載43)
こうした「中国中心」の世界観に対して、モンゴル帝国史からの視界を照射することは「中国を相対化させる」という意味において有効である。中華文化人にとって大元ウルスは、漢文化、「科挙」などの制度の採り入れ、中華文明に同化された王朝と見做されるのだが、モンゴルの衝撃が「大きな中国」への転換をもたらした意味は重い。
世界史は重層的に相関している。一つの視界からだけ歴史を捉えることはできない。我々は可能な限り多角的・多次元的な視界からの歴史認識、そして我々自身が生きる時代認識をとる努力をしなければならない。そこから、「グローバル・ヒストリー」という地球を俯瞰する歴史認識が形成されるのである。
そこで、モンゴルを注視してきた議論の総括として、何故ユーラシアを席巻するもどの勢いで台頭した栄光のモンゴル帝国は衰亡し、世界にその影響の残滓さえ残していないのかという点を考えてみたい。私はこれまで「大中華圏―――ネットワーク型世界観から中国の本質に迫る」(NHK出版、2012年)、「ユニオンジャックの矢――大英帝国のネットワーク戦略」(NHK出版、2017年)という作品をまとめることによって、中国、そして英国という存在が、グローバルにその影響力を展開し続けている構造を分析した。世界を動いてきた私自身の体験的世界認識のレポートでもあるが、その中で浮上してくる疑問が、モンゴル帝国のグローバルな存在感の希薄さである。
もちろん、大元ウルスと三つのハン国、それぞれの事情、政治統治の失敗、権力継承を巡る内紛と叛乱、さらに統治を支えた経済システムの破綻といった理由については多くの研究が進んでいる。また、近現代史においてモンゴルが、ロシア、中国という巨大な力に挟撃されてきたことも分かる。だが、私の疑問は、いかなる帝国も衰亡するという必然を理解するにせよ、何故モンゴルはかくも影響力を残していないのかという点にある。
おそらく、その解答は「何故、少数民族のモンゴルがユーラシアを支配できたのか」という理由の裏返しでもあるといえる。モンゴルは支配した地域の統治に関して、実務能力重視による他民族の登用、宗教に寛容という柔らかい姿勢を示し、多様な文化への吸収力を示した。「多様性の温存」というべきか、モンゴルは宗教にも寛容であった。モンゴル統治地域においては、チベット仏教、イスラム、キリスト教(ネストリウス系、カトリック)などが共存していた。
対照としての大英帝国であるが、誰も「インドは大英帝国の末裔」とは言わない。だが、英語、英国法、文化など、英国のソフトパワーをかつての支配地に残しており、それは英連邦五二か国における共通性である。大英帝国は衰亡しても隠然たる影響力をネットワーク化して残しているのである。
さて、我々は「一七世紀オランダからの視界」として近代なるものを問い詰め、その潮流を受け止めた「江戸期の日本の知」を考察し、ユーラシア史を突き動かしたモンゴル帝国という存在まで視界に入れる試みを積み上げてきた。いよいよ、総体としての世界観を再構築する段階である。ここからはグローバル・ヒストリーの再構成を試みたい。フランクが「リ・オリエント――アジア時代のグローバル・エコノミー」(藤原書店、2000年)で述べるごとく、欧州中心の世界観を脱却するのみでなく、地球史と東西の相関の中で二一世紀を生きる世界認識を模索していきたい。
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