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現在地: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2016年 岩波書店「世界」2016年6月号 脳力のレッスン170 一七世紀世界の相関を映し出す三浦按針という存在―一七世紀オランダからの視界(その37)

岩波書店「世界」2016年6月号 脳力のレッスン170 一七世紀世界の相関を映し出す三浦按針という存在―一七世紀オランダからの視界(その37)

 ウィリアム・アダムスという英国人がオランダ船リーフデ号で豊後国(現在の大分県臼杵市)に辿り着いた時、彼は三五歳であった。一六〇〇年四月、つまり関ヶ原の戦いが半年後に迫る時であった。この数奇な運命を辿った「青い目のサムライ三浦按針」については「日蘭関係の原点 リーフデ号の漂着とは何か」(本連載その2)で触れたが、この人物の人生に一七世紀の世界情勢が集約的に投影されていることに気付く。

 

 

三浦按針の足跡―――背景と歴史的意味

 

 

アダムスは一五六四年九月二四日、英国ケント州ジリンガムに生まれた。三歳の時水夫であった父が死亡、一二歳から船大工ディギンズに弟子入り、二四歳まで修行した。一五八八年、英国の貨物補給船リチャード・ダフィールド号船長としてスペイン無敵艦隊との海戦を支える任務に従事した。また一五九三年~九五年にはオランダによる北極海からベーリング海峡を通ってアジアに至る北極海航路の探検にも参加、北緯八二度まで到達したが、一七世紀は地球寒冷期で探検は頓挫。この試みには大航海時代に遅れをとったオランダが、先行するスペイン・ポルトガルに邪魔されないアジアへの回路を求めていた事情がある。こうした体験を経て一五九八年六月、ロッテルダム組合がアジア交易を求めて派遣する五隻の船団に参加してロッテルダムを出港した。五隻には実弟を含め一二名の英国人も乗船した。エリザベス一世治世時の英蘭関係は良好で、テムズ川へのオランダ船入港も自由であった。一七世紀後半には台頭するロンドン商人の圧力を背景に三次に亘る英蘭戦争の時代を迎える(参照、連載32・33)が、アダムスの時代までは英蘭はスペインと戦う盟友であった。

 

出港時アダムスは旗艦ホープ号に航海士として乗船、艦隊全体の航海長でもあったが、風向きが悪く四カ月もギネア湾に逗留中司令官マヒューが死去。アダムスはリーフデ号に移る。この航海はあまりにも悲劇的で、ヘローフ号はオランダに帰航。四隻がマゼラン海峡を越えて太平洋へ入ったが、二隻はスペイン艦隊により没収、撃沈。残された二隻もセント・マリア島で多くの乗員が原住民の襲撃で虐殺され、一六〇〇年四月一九日、リーフデ号のみが豊後臼杵に漂着した。二四人が生存していたが漂着後六人が死亡、一八人となった。

「漂着」とされるが、対日本交易の目的をもった航海であり、日本に武器(大砲一九門と小銃五〇〇挺を搭載)や毛織物を売り日本の銀を入手する意図であった。石見銀山(一五二六年発見)産出の銀の存在を認識していたことは、リーフデ号が所持していた海図の石見沖「銀鉱山群」の記載からも明らかで、この頃日本産の銀が世界の交易サイクルに組み込まれていたことは「石見銀山と銀の地政学」(連載16)で論及した。

 

家康との面談の通訳を務めたイエズス会宣教師は冷酷で、「乗員を海賊として処刑すべし」と何度も進言した。一五四九年のザビエル鹿児島上陸以来日本での布教にはイエズス会が先行しており、そこにプロテスタントのオランダ人、英国人が現れた衝撃は大きかった。つまり、リーフデ号は、ポルトガル・スペインの先行という大航海時代の第一波から蘭・英の登場という第二波を象徴していた。ちなみに一五八〇~一六四〇年の六〇年間はスペインがポルトガルを併合し、ポルトガルという国は存在しなかった。本能寺の変(一五八二年)の少し前から家康時代を経て、家光の寛永一六(一六三九)年の鎖国令までイベリア半島はスペインが支配していたのだ。そのスペインも一五八八年に無敵艦隊が英国艦隊に敗れて衰退に向かい、その戦いに参加した男が日本に現れたのである。リーフデ号の生存者の中からも処刑への恐怖心から二名が仲間を裏切りイエズス会にすり寄るという混乱の中アダムスは必死に家康に語りかけた。この時家康は一五九八年の秀吉の死を経て豊臣政権の大老の一人として大阪城西の丸に陣取っていた。

 

 かかる情勢下での家康の行動を時系列的に確認すると、その思慮深さに驚嘆させられる。リーフデ号漂着が四月一九日、アダムスとの最初の大阪城での面談は五月一二日で、六月一六日に会津・上杉攻めに出発するまでに三回面談している。大阪を空ければ石田三成が上杉景勝と呼応して家康追討のため挙兵すると想定しての会津攻めであった。アダムスは四二日間大阪城の牢に入れられたが、解放後家康を追って江戸へ。リーフデ号も堺から浦賀への回航を命じられ廃船前の最後の航海に出る。家康は七月二四日三成の挙兵を受け下野小山より西上、九月一五日の関ヶ原の戦いに臨んだ。この間に家康はアダムスの話を聞き世界情勢に気づく眼力を持っていた。欧州での新旧キリスト教の戦い、新興国英蘭の台頭を見抜いた。秀吉の朝鮮出兵による半島との緊張緩和への配慮にも通じる国際関係の構想力をこの人物が持っていたのである。

 

 

按針と母国英国との微妙な関係

 

 

 アダムスの日本での行動を辿ると、母国英国との微妙な関係に気付く。家康との面談でも、オランダ船で来訪したにもかかわらず英国の話に力を入れている。英国が、スペインとは戦っているが他の国とは平和な関係にあること、マゼラン海峡を越えてスペインによる妨害を避けて太平洋航路で日本に来たことを語り、家康を驚かせた。アダムスが三浦半島に所領を与えられ、サムライ三浦按針となって家康外交顧問としての影響力を高めるにつれて、英国と按針の関係は微妙になる。エリザベス一世を継いだスコットランド王ジェームズ一世期の英国は、按針のアドバイスもあり日本との交易を望む使節を送る。一六一三年六月英国船クローヴ号が平戸に到着、船長のセリースや平戸の英商館長コックスなどは日本での活動について按針に頼らざるを得ない一方、日本人化した按針には疑心暗鬼であった。按針もしたたかな面があり、英国東インド会社の職員(一六一三~一七年)として英商館に協力しつつも必ずしも英国だけに肩入れしようとはしなかった。

 

一六〇九年九月、スペインのべラスコ大使が赴任地マニラからメキシコに帰任の途上、暴風で難破し上総岩和田で救助された。ベラスコは江戸で秀忠、駿府で家康に面談後、按針が伊東で建造した一二〇トンの船で帰国することになった。聖幸運(サンタ・ブエナベントゥーラ)号と名付けられたこの船は太平洋を往復してマニラに帰国、その後も太平洋航路を何度も往復したという。仇敵スペインの要人を助ける力にもなったのである。また御朱印船貿易の主役として東南アジアにも渡航、一六一五年にはタイに向かう途中船の修理のため琉球国那覇に約六ヵ月も滞在、「明国使節が来るから退去してくれ」と言われたという当時の日中両属国家琉球の性格を炙り出すようなエピソードを残している。按針の船には琉球国尚寧王(琉球国中山王)が同行したとの記録もあり、薩摩出兵(一六〇九年)後日本に二年間連行された尚寧王と何らかの接点があったのであろう。

 

一六一五年に家康が死去すると、按針への家康からの信頼が秀忠の疑心に繋がり、按針の立場も制約され始める。一六一六年秀忠は貿易制限令を出し、貿易港を長崎・平戸に限定。按針は海に還りタイやベトナムへ渡航、商人として活動を続けるが、一六二〇年五月平戸で死去、五五歳であった。遺産の半分は英国の妻子へ、半分は日本人妻雪との間の子という遺言書が残された。この年英国から一二年間オランダに亡命していた清教徒がメイフラワー号で大西洋を渡った。

 

 

エラスムスとは何かーーー近代的知性の先駆者

 

 

 元々リーフデ号はエラスムス号と名付けられ船尾にはエラスムスの木像が飾られていた。この木像の数奇な運命は筆舌に尽し難いものがある。リーフデ号の損傷が激しく、浦賀で解体の後木像は行方不明になっていたが、三〇〇年の時を経て栃木県佐野の寺、龍江院で発見された。江戸期、ここは旗本牧野成里に始まる牧野氏の領地で、この人物が幕府の砲術の筒方役だったため按針との縁で入手したらしい。「朝鮮伝来の貨狄様」として大正期まで保存されてきたこの像は一九二四年のバチカン世界宗教博覧会に「聖人像」として出展、その後エラスムス像と分かって一九三六年にはロッテルダムで「エラスムス四〇〇年祭」にも出展され、里帰りしている。

 

何故船尾を飾る像がエラスムスだったのか。当時、新造船には聖人や賢人の像を掲げる慣習があったためで、オランダでいかに彼が尊敬されていたかを物語っている。エラスムス(一四六九~一五三六年)は、欧州の知的世界にインパクトを与えた人文主義の先駆者で、北方ルネサンスの巨星であった。沓掛良彦の『エラスムス 人文主義の王者』(岩波現代全書、二〇一四年)など関連文献を素材にこの人物を確認しておきたい。

彼は一四六九年、当時ブルゴーニュ公国の一部だったネーデルランドのロッテルダムで聖職者の私生児として生まれた。エラスムスは聖エラスムスに由来する洗礼名で、成人後自らはデシデリウスと名乗ったという。両親を疫病で亡くし、後見人の勧めで一八歳で修道院に入り、神学、ラテン語の勉学に打ち込み知の基盤を構築した。人間として覚醒し始めたのは一四九五年に二六歳でパリ大学のモンテーギュ学寮を体験してからであった。学寮長の過酷で非人間的教育環境下で神学研究を続けるうちに、彼の思想の基軸である「ヒューマニズム」に目覚めた。「空飛ぶオランダ人」といわれるほど英・仏・蘭を飛び回り、トマス・モアなど当時の欧州知識人と交流、近代的知性の台頭に刺激を与えた。

 

「一六世紀はエラスムスの世紀」という言葉があるが、このことはルターとの関係を視界に入れると分かりやすい。宗教改革の主導者ルターは一四八三年生まれで、エラスムスは一八歳年長で、カトリックの中世的権威主義に対し覚醒した知性で固定観念をうち壊すという意味でエラスムスは先駆者であった。形式や虚構に埋没することなく原典である「聖書」に還るという姿勢は、エラスムスの『格言集』(一五〇〇年)や風刺文学の傑作『痴愚神礼賛』(一五〇九年)などを通じ、ルターも大きな刺激を受けた。「エラスムスが卵を産みルターが孵した」という言葉は的確だと思うが、両者の関係は複雑である。一五一九年にルターはエラスムスに支援を求める手紙を送り「キリストにおける小さな弟」とまで頭を下げたが、エラスムスは急進化・暴力化する宗教改革と距離をとり、寛容と融和を語り続けた。ルターは失望し、一五二五年にはエラスムス批判を鮮明にした。ルター派と反宗教改革のカトリックの挟撃に会い、その煮え切らぬ態度は「エラスミスム」(エラスムス的態度)として宗教改革の熱狂の中で孤立していく。こうした評価がリーフデ号に改名された事情に繋がると思われる。カトリックのスペインにとってエラスムスは宗教改革の憎むべき起爆剤であった。

 

戦う宗教者ルターが人間の自由意思を否定し神の恩寵によってのみ原罪は救われるとするのに対しエラスムスはあくまでも狂信と熱狂を排し人間の可能性を肯定する合理的知性の人であった。平和論の古典『平和の訴え』(一五一七年)を読むと愛と平和を望む民衆の力を呼びかける近代に先駆したその知性に心打たれる。戦争に飽くことのない権力者への憤りを込め人間が殺戮し合う愚かさを説き続ける「醒めた人」であった。

一六〇〇年に知の巨人の像が日本に来ていた事実、またエラスムスとは何者かを知ることなくその像が「朝鮮伝来の秘仏」として北関東の寺に三〇〇年以上眠っていたという事実は近世から近代にかけての日本と西欧の位相を象徴している。木像は現在国立博物館に重要文化財として保存されている。木像の人物が手にする巻物に一部不鮮明だが「ERASUMUS ROTERDAM 1598」と刻まれ、不思議な感慨が込み上げる。

 

 
     

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