岩波書店「世界」2019年7月号 脳力のレッスン207 イスラムの世界化とアジア、そして日本― 一七世紀オランダからの視界(その57)
六一〇年にムハンマドが神の啓示を受けてからわずか百年、イスラムは「大征服」といわれる展開を見せた。ウマイヤ朝期、ビザンツ帝国からシリア、パレスチナ、エジプトを奪い、北アフリカを西に進んだイスラム軍は七一一年にはジブラルタルを渡り、七一五年にイベリア半島を制圧する。ジブラルタルという地名はイスラム軍を率いて欧州に上陸した将軍タリクに由来し、ジャバル・アル・タリク(タリクの山)から転訛したという。
また、東進したイスラムはササン朝ペルシャ(224~651年)を滅ぼし、現在のイラン・イラクを席巻、七一一年にはインダス川下流域に到達した。さらに、中央アジアに動いたイスラムはソグド人たちを排除して、七一二年にはサマルカンドを攻略した。
ユーラシア大陸の下腹部に張り付いたイスラムが、八世紀以降の世界史の重心となった。とりわけ、中東一神教として同根のキリスト教との激突が世界を突き動かしてきた。その最初の衝突が、ピレネーを越えようとしたイスラムとフランク王朝の対決(732年)であり、この時、欧州に「キリスト教共同体」意識が芽生えたことは既に触れた。
世界史におけるイスラムの役割
そして、イスラムとキリスト教の第二の衝突が十一世紀末から二〇〇年に及ぶ十字軍の時代であった、アナトリアのセルジュク・トルコの脅威に対して、ビザンツ皇帝の救援要請を受けたローマ教皇が「聖地回復の義務」(クレルモン宗教会議)を宣言、キリスト教側の価値に立てば、崇高な使命に基づく進軍であったが、第四次十字軍によるコンスタンティノポリスの占領と略奪のごとく、次第に迷走し始めた。(参照、連載55)十字軍は、ローマ教皇の権威をもって、「野蛮で残忍なイスラム」を排除する意図であったが、ロドニー・スタークの「十字軍とイスラーム世界―――神の名のもとに戦った人々」(新教出版、2016年、原書2009年)が、「欧州の『無知』対イスラムの『文化』」と表現するごとく、欧州にとってイスラムの文化力を確認する展開になった。イスラムはヘレニズム文明の継承者となり、特にアッバース朝(750~1258年)は、バグダッドに「知恵の館」という学術機関を作り、ギリシャの哲学、文学、医学、地理、天文学、数学、化学などの文献を集積、翻訳した。欧州では消失した文献のアラビア語からの再翻訳が、一四~一六世紀のルネサンスをもたらす契機となったのである。また、多くの十字軍兵士が、ローマや聖地の現実を目撃し、教皇や皇帝の権威を相対的に認識する機会となったことが、一六世紀の宗教改革の伏線になったといえる。十字軍の時代と微妙に重なりあうのがモンゴル帝国である。一二五三年にはチンギ・ハンの孫フレグ・ハンが西アジアに侵攻しイル・ハン国を設ける。フレグはイランの地に留まり、三代目の王となったテグルがイスラムに改宗、一二九五年、五代目のガザンからは、イルハン国はシーア派イスラムを国教とする国になった。「モンゴルのイスラム化」であり、中国を支配した元王朝が「漢文明」と馴化したことと合わせ、モンゴルという存在を考える上で重要である。(参照、連載46、47、48) 十字軍の攻勢は、一三世紀後半の第八回十字軍の時代に、十字軍への対抗意識を内在させて台頭したオスマン帝国によって終焉を迎える。一四五三年にビザンツ帝国はコンスタンティノポリスを征服されて滅亡する。それからは、欧州がオスマン帝国の攻勢に震え上がることになる。二度にわたるオスマン帝国によるウィーン包囲(第1回1529年、第2回1683年)で、当時の欧州の中核たるハプスブルク帝国は風前の灯となる。このトラウマが、欧州の人々のトルコへの潜在意識に恐怖感となって今日も続いているといえる。
この連載のテーマ「一七世紀オランダからの視界」も、先行するポルトガル・スペインの背中を追う「大航海時代」を背景とするものだが、大航海時代こそ欧州がオスマン帝国を回避してアフリカ大陸を回ってアジアに接近する試みであったことは改めて触れるまでもない。オスマン帝国は二〇世紀の第一次世界大戦まで七〇〇年間も世界史を突き動かすのである。第一次大戦によるオスマン帝国の解体から一〇〇年が経過したが、この間の中東を動かしたのは欧米列強による「大国の横暴」であった。英仏間のサイクス・ピコ協定(1916年)に象徴されるごとく、列強の思惑で中東に国境線が引かれてきたのである。一九七〇年代には、英国のスエズ以東からの撤退と米国のペルシャ湾支配へと移行したが、一九七九年のイランのホメイニ革命以降、湾岸戦争、イラク戦争を経て、米国の中東からの後退が続き、中東において静かに進行しているのは「シーア派イランとトルコの台頭」である。つまり、我々はイスラムの復権を目撃しているのである。
アジアのイスラム―――そして、日本の死角としてのイスラム
メッカでの布教を始めて約一〇年、「絶対神の下での平等」を訴えるムハンマドの活動は多神教徒をイスラムに改宗させ、貧者、奴隷にも訴え始めた。それはメッカの支配層との対立を引き起こした。多神教を掲げる守旧派にとっては、「最後の審判」といったユダヤ・キリスト教的教義を掲げるイスラムは秩序を破壊する危険な勢力と見られ、イスラム教徒を迫害する圧力が高まった、危険を察したムハンマドは六二二年、ムスリム勢力を引き連れてメディナに移住(ヒジュラ=聖遷)し、イスラム共同体を形成し始めた。この時を、カレン・アームストロングが「イスラムの誕生」と表現(「イスラームの歴史」、中公新書、2017年、原書2002年)するのも頷ける。イスラムとは個人の宗教というよりも、「ウンマ」といわれる共同体として意味を持つからである。
ムハンマドは六二二年に「メディナ憲章」(世界史資料2、岩波書店)を発表し、メディナ住民との共存を意図する契約において「ユダヤ教徒の宗教と財産を保障し、義務と権利を明確にした」が、ユダヤ教徒との関係は微妙であった。当初、ムハンマドは一神教の長兄としてのユダヤ教に敬意を払い、融和的に向き合っていた。日々の礼拝に当たり、信徒たちには「メッカの方角(南)ではなく、北のエルサレムの方角に向けて行うように」指示していたという。しかし、ユダヤ教徒は「アラブ人は神の計画から締め出された存在」として「アラブ人の予言者」を認めなかった。つまり、アブラハムを大祖先とし、旧約聖書とモーゼを尊崇する祖同宗教における新たな預言者とは認めなかったということである。
ユダヤ教の教典トーラ、タルムードにおいて、ユダヤ人は強烈な選民意識に立ち、ユダヤ人以外を預言者としては認めない。六二二年、ムハンマドは「神の啓示」により、礼拝の方角をメッカとするように指示した。以来、イスラム教徒はメッカに向けての礼拝を始めた。ユダヤ教との決別であった。中東一神教の不幸な対立の淵源はここにあるといえる。
イスラムとは「服従」を意味し、全身全霊でアッラーに服従することに徹し、あの平伏礼は傲慢・思い上がりを制する象徴的な儀礼である。富の公平な分配や相互の思いやりを重視する共同体(ウンマ)をすべての基盤とした。メディナでの体制を整えたムハンマドは、六三〇年には一万人の信徒を率いて進撃を開始してメッカを征服、カアバ神殿の偶像を破壊し尽くした。宗教指導者が政治的・軍事的統治者となって権力と権威を掌握するというムハンマド自身が実践した史実が「聖俗一体の共同体を目指す」というイスラムの原動力となっていくのである。
イスラムにおける聖俗一体―――「片手にコーラン、片手に剣」の意味
今日、アジアにおけるイスラム人口は、南西アジアに、パキスタンの二・〇億人、インドの一・九億人、バングラデシュの一・五億人をはじめとして約五・八億人、東南アジアに、世界最大のイスラム国家インドネシアの二・三億人、マレーシアの一九00万人、フィリピンの五二〇万人、タイの三〇〇万人をはじめとして二・六億人となっており、インド亜大陸から東南アジアにかけてのゾーンに八・四億人のムスリムが存在しており、一六億人といわれる世界のイスラム人口の過半がこの地域に生活しているのである。
中国にイスラム教が伝わったのは意外に早く、唐の時代の貞観二年(628年)で、景教という形でネストリウス派のキリスト教が長安に伝わったよりも早いというのだから驚く。ムハンマドの死よりも五年も前のことである。現在、新疆ウイグル自治区を中心に、二六〇〇万人のムスレムが中国に存在するといわれる。インドへのイスラムの侵攻は七世紀末から八世紀にかけて開始され、七一一年には南のシンド地方を征服、イランからアフガニスタン経由の北ルートとともに南北からの二ルートで展開された。東南アジアにおけるイスラムは武力での「大征服」とは異なり、交易を通じた浸透であった。東南アジアにイスラムが伝わったのは一三世紀末以降だといわれ、「商業の時代」を背景に、ペルシャやインドのイスラム商人が海を渡ってきた影響とされる。マレー半島南西部のムラカ(マラッカ)王国をはじめ交易の基点としての港市国家が成立、次第にイスラム化していった。ムラカ王国は、一四世紀末にはマルク諸島の香辛料(丁子)、ジャワの胡椒などの交易拠点となり、一五世紀の明の永楽帝による鄭和の大航海(1405~33年まで7回)が立ち寄った頃には人口十万人の都市になっていたという。そして一五〇九年、ポルトガル人来航することによって、西欧主導の「大航海時代」を迎えるのである。
江戸期の日本、長崎の出島の主役だったオランダ東インド会社のアジアでの中核拠点はインドネシアのジャワ島のバタヴィアであり、一七世紀に東インド会社がここに進出した時には、この島にもイスラムが浸透していた。つまり、イスラムに取り囲まれながらバタヴィアは存在したのである。
一六〇二年に設立されたオランダ東インド会社は、一六〇三年にマレー半島パタニに商館を設け、一六一九年にはジャワ島ジャカトラをバタヴィアと改称、総督を配置した。当然、長崎出島に教会はなかったが、バタヴィアには一六三二年に教会が建てられた。十字教会で、カルヴァン派の教会であった。蘭東インド会社は一六二二年に「イエスの王国に栄光あらしめること」を指示、本国の教会を支える方針を示したが、ポルトガル・スペインのアジア進出が、交易と「カトリック宣教」を一体とするものだったのと異なり、オランダ人は実利優先で宗教には冷淡であった。
そのことがオランダだけが「鎖国」下の日本において交易を許された理由でもあるが、天草・島原の乱(1637~38年)において、原城に立てこもったキリスト教徒に対して、幕府の要請を受けてオランダは陸と海から数百発の砲撃したのである。(参照、連載12)田中優子は「近世アジア漂流」(朝日新聞社、1990年)において「したたかなバタヴィアの共存力」として、江戸期のバタビアという場所が、「一攫千金を目指すヨーロッパ人、アジア人がうごめき、まじりあい、混血する場」と表現するが、この頃のバタビアの雰囲気を的確に捉えているのであろう。「バタヴィア城日誌」(全3巻、東洋文庫、1960、村上直次郎・台北帝大、1937年発行の復刻)に目を通すと、現世的利益にのみ関心を抱いて生きていた人々の姿が理解できる。その江戸期バタビアを見た日本人が何人かいる。一人は数奇な運命をたどった「ジャガタラお春」である。一六二五年、ポルトガル船のイタリア人乗組員と日本人女性との間に生まれ、幼少期に洗礼を受け、一四歳の年、家族等十一人とオランダ船でバタビアに追放、蘭東インド会社商務員のシモンセンと結婚、三男四女を設ける。日本へ郷愁を込めた「ジャガタラ文」を送ったが、一六九七年に死去したという。ジャガタラとは「ジャガ芋」の語源にもなっている地名だが、キリシタン追放令で運命を弄ばれた人達がいたのである。(参照、井口正俊「ジャワ探究―――南の国の歴史と文化」、丸善プラネット、2013)もう一人は、博多の蘭学者青木定遠が「南海紀聞」(1819年)に紹介している筑前の漁師孫七である。孫七の漂流体験は七年におよび(1764~71年)、難破の後、ミンダナオを海賊に救われ、ジャワ島を経てオランダ船で帰国した。イスラム教徒の西方に向かっての毎日の礼拝の様子が伝えられており、異様な印象を受けたようである。
江戸期にイスラムが日本に上陸することはなかった。キリスト教の禁制が同じ中東一神教のイスラムも封殺したことになる。明治期に入って、イスラムの宣教者の来日も記録されているが、日本人として初めてイスラム教徒としてメッカ巡礼に参加したのが山岡光太郎といわれ、一九〇九年(明治42年)のことであった。明治以降も、日本におけるイスラム理解は深まらず、アジア太平洋戦争期に日本軍の南進により東南アジアが軍政下に置かれるに至って、唐突に「回教徒対策」が浮上した。大日本回教協会などの協力を得て、現地イスラム団体との連携を模索したが、結局付け焼刃に終った。
日本におけるイスラム研究者で特筆すべき存在が大川周明であろう。大アジア主義者で「大東亜戦争」のイデオローグでもあった大川周明は、三〇年にわたるイスラム研究を集約し、戦時中の一九四二年に「回教概論」(慶應書房)を出版、その前書きに「「今や大東亜共栄圏内に多数の回教徒を抱擁するに至り、回教に関する知識は国民に取りて必須のもの」と述べている。「梅毒性脳症」によって戦犯から外されて後、異様な執念でコーランを翻訳したのも、彼なりの総括と省察があったといえる。「回教概論」において、「回教は宗教に非ず、文化体系の総合」と大川は論じるが、アラビア半島に生まれたイスラムがアジアの命運をも左右する存在になっていることに大川は気付いていたのであろう。
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