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岩波書店「世界」2018年10月号 脳力のレッスン198 アイスマンの衝撃ー一七世紀オランダからの視界(その51)

 西欧世界における古代史はギリシャ・ローマに始まる。それ以前の歴史は「考古学」の対象であり、約二・七万年前とされる後期旧石器時代のラスコーに代表されるクロマニオン人による優れた洞窟壁画や約五〇〇〇年から三五〇〇年前と推定されるストーンヘンジなどの巨石文化に至る多くの遺跡が欧州各地に存在するが、検証可能な「歴史」はギリシャ・ローマに始まるのである。ギリシャの歴史家ヘロドトス(BC490年頃生まれ、BC425年頃死去と推定)が「歴史の父」といわれる理由は、その作品「歴史」全九巻(邦訳、松平千秋、岩波文庫、1971年)によって、過去の出来事を詩歌ではなく実証的学問としたことによる。つまり、ペルシャ戦争を歴史として見つめ直して文献化したのである。この書物の「序」は「人間界の出来事が時の移ろうとともに忘れ去られ、ギリシャ人や異邦人の果した偉大な驚嘆すべき事績の数々――とりわけ両者がいかなる原因から戦いを交えるに至ったかの事情――も、やがて世の人に知られなくなるのを恐れて、自ら研究調査したところを書き述べたものである」という記述から始まる。西欧における叙事詩ではない歴史はここから始まった。約二四五〇年前のことであった。
 しかも、ギリシャ史が科学的に実証されたのは比較的近年のことである。ドイツの考古学者H・シュリーマン(1822~1890)が、ホメロスの物語が架空のものではないと信じて、ビジネスの成功で得た財を投入し、トルコのトロイアのヒッサリクの丘を発掘してトロイ文明が実在したことを証明したのは一八七三年であり、まだ一五〇年も経っていない。シュリーマンの自伝「古代への情熱」(新潮文庫、1977年、原書1892年)を読むと、ギリシャの栄光を実証した人物が、ドイツの田舎に育ち、ホメロスの世界を夢見たドイツ人だったことに感慨を覚える。

 

 

 

ルネサンスという呪縛―――西欧史の宿命

 

西洋においては、古代ギリシャとローマに関する学問が「古典学(CLASSICS)」と呼ばれ、近代ヨーロッパにおいては、「古典学」の知識を有する人々が「教養ある社会的エリート」とされてきた。一八世紀の英国の歴史家エドワード・ギボン(1737~94年)の「ローマ帝国衰亡史」(邦訳、中野好夫、筑摩書房、1993年)は、今日に至るまで欧州の基本的教養書であり、その冒頭は「西暦第二世紀、ローマ帝国の版図は世界のほぼ大半を領し、もっとも開化した人類世界をその治下に収めていた」という言葉で始まるが、このローマについての憧憬にも近い認識が、西欧世界観の基盤だった。ルネサンスといわれる一四~一六世紀の欧州に吹き荒れた文化運動は、「文芸復興」とされるごとく、ギリシャ・ローマの古代文化を理想とする人文主義運動で、近代に連なる欧州の潜在意識には、ギリシャ・ローマへの回帰という衝動が埋め込まれていた。我々、近現代を生きてきた人間は、「ルネサンスから近代的知性の幕が開かれた」という歴史観を受け止めてきたために、ギリシャ・ローマには暗黙の敬意を抱いてきたといえる。
例えば、アレキサンダー大王(BC356~323年)なる存在は、ヘレニズム世界の栄光のシンボルとされる。アレキサンダー大王(三世)は、正確にはギリシャの英雄というよりも、マケドニアの王(在位BC336~323年)なのだが、ギリシャ、エジプトからペルシャ、インドの一部に至る広大なオリエント世界を制圧、ヘレニズム世界を形成したことで東西世界の接触・交流の起点となった存在とされてきた。
マケドニアは不思議な存在である。バルカン半島の中央に位置し、現在は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という奇妙な名前で国連に加盟する独立した共和国なのだが、一九四五~一九九一年まではユーゴスラビア社会主義連邦共和国に帰属、かつてはアレキサンダー大王のマケドニア王国の本拠地としてヘレニズム世界に君臨したが、ローマに敗れ、のちビザンツ帝国領、一四世紀末からはオスマン帝国領とされ、正に歴史に翻弄されてきた。現在は、ギリシャとの微妙な国名を巡る対立があり、前記の奇妙な国名になっている。ギリシャが、「後世六~七世紀にかけて侵入したスラブ人主導の国となった現在のマケドニアが栄光の地名マケドニアを国名にするのはおかしい」と主張しているためである。
 欧州における異様なまでの「ローマの重み」を考えさせられるのが「神聖ローマ帝国」なる存在である。かのヴォルテールが「神聖でもなければ、ローマ的でもなければ、そもそも帝国でもない」と喝破したごとく、「ローマ・カトリックの権威の下での欧州を統治する皇帝」という「擬制としての神聖ローマ帝国」が、西欧社会に一〇世紀から一七世紀まで存続し続けた謎については、本連載35「ドイツ史の深層とオランダとの交錯」において論じたが、ギリシャ、そしてローマ帝国への憧憬は欧州の地下水脈として流れ続けた。
そのギリシャとイタリアの今日的状況が「欧州のお荷物」といわれるほど悲惨な現実に直面していることについては、悲しみを禁じ得ない。かつての帝国の栄光の輝きが強いだけに、その影はあまりに黒く深いのである。
 ところで、ルネサンスに関して、この連載を通じて私自身が学んだことであるが、改めて確認しておきたいのは、「ルネサンスへのイスラムの貢献」という事実である。本連載41「オスマン帝国という視角からの世界史」において論じたごとく、皮肉にも「イスラムこそがヘレニズム文明文化の継承者」だった。バグダッドを首都としてアラブ科学の黄金期を築いたアッバース朝(AC750~1258年)が、ギリシャの哲学、文学、医学、地理、天文学、数学、化学などの文献をアラビア語に翻訳して保持したことで、「欧州では消失していたギリシャ科学の文献のアラビア語からの再翻訳がルネサンスを触発したのである。誇張ではなく、イスラムがルネサンスを生み出す触媒になったのである。
 ギリシャ史が歴史に登場するのが二八〇〇年前、BC八世紀にポリス形成、BC七世紀末にアテネの民主制、そしてスパルタとの抗争を経て、BC三三四年にマケドニアに征服され、前記のアレキサンダー大王の登場となる。また、ローマ史といえば、BC七五三年ローマ建国、BC五〇九年に共和国成立となるのだが、この西洋古代史の射程距離をはるかに超えた五〇〇〇年以上も前の時代―――「世界史年表」においては考古学上の推定年表の空白のゾーンから忽然と現れたのがアイスマンなのである。

   

 

五〇〇〇年前の人間―――アイスマン「エッツィ」の衝撃

 

  一九九一年、オーストリアとイタリアの国境近くの、標高3200メートルのアルプス山岳地帯で凍結した遺体発見された。最初は比較的近年の山岳遭難者ではないかと見られたが、検証が進むにつれ、なんと五千年以上も前の人間の遺体と分かり、騒然となった。メディアの話題にもなり、アイスマン「エッツィ」と名付けられ、考古学者コンラート・シュピンドラーの「五〇〇〇年前の男―――解明された凍結ミイラの謎」(文藝春秋社、1994年)が日本でも出版された。遺体と遺物に関し、欧州の四つの研究機関が年代測定を行い、ほぼ五〇〇〇年前、紀元前三〇〇〇年頃に生きていた男であることが特定されたのである。つまり、ギリシャ、ローマより二〇〇〇年以上も前の冷凍人間が現れたのである。古代遺跡からみつかる骨や乾燥ミイラとは異なり、瞬間凍結された生身の人間がみつかったということであり、胃の内容物をはじめ、確認できる圧倒的情報量を有する検体ということである。現在、このアイスマンはイタリア北部にある「南チロル考古学博物館」で保管されているが、アルベルト・ツインク博士(ミイラ・アイスマン研究所長)指揮の下、二四人の専門家チームで現代科学を駆使した遺体の検査が行われ、アイスマンは、身長一五七・五センチ、体重五〇Kℊ、年齢四五歳前後、血液型O型の男性であることが分った。胃の内容物の検査からは、意外なほど豊かな食生活が証明され、三枚重ねの衣服、熊皮の底の靴、所持品と思われる石剣と銅製の斧、火打石などからは当時の生活文化を支えた技術が検証されてきた、アイスマンの職業は羊飼いとの見解もあるが、少なくとも農耕牧畜社会の一員だったと推定されている。
 アイスマンが何を食べていたのかについては、二〇一八年になって、イタリアのミイラ研究所が微生物研究者フランク・マイクスナー博士などによる新たな報告書がだされ、脂質性の食材が四〇%を占め、野生の動物の肉を乾燥させて食べていたと思われることや穀物をバランスよく摂取していたことが窺えるとし、「人間の適応力の証左」と表現している。
 着ていた衣服については、二〇一六年にネーチャー誌が詳しいレポートを掲載しており、九片の衣革断片のミトコンドリア・ゲノムの塩基配列を解析した結果、被っていた帽子はヒグマ、矢筒はノロジカの毛皮からできており、着ていた上着はヤギとヒツジなど四種類の野生動物の毛皮を素材にして縫い合わせたものということが判明した。また、一番上に着ていたのは縄で編んだマントで、一メートル以上の草で編んでおり、日本における蓑のような形状で、高山地帯を歩く旅人には適したマントだという。
また、興味深いことに全身に六一個の入れ墨(タトゥー)があり、その場所が東洋医学でいう「ツボ」に重なることから、痛みを和らげるツボに対する一定の医療行為があった可能性などが指摘されている。また、人類史の極めて早い段階から、入れ墨がある種の「お守り」、あるいは「粋(かっこよさ)」といった価値の表象だったことが窺えるという。日本の縄文時代の土偶にも入れ墨の意匠あることが思い起こされる。
さらに、病理学的解明により、アイスマンには胆石があり、結腸内に寄生虫が存在していること、さらにピロリ菌にも感染していたことが分ってきた。腹痛や消化不良にも悩まされていたのだという。野生の原始人というよりも、現代人に近い生活者のイメージが浮かんでくる。死因の特定もなされ、体内から矢尻が見つかったことから、弓矢で撃たれたことが分り、頭蓋骨にも攻撃で受けた陥没があり、他殺されたことが検証されたのである。何らかの攻撃によって死んだのであろう。アイスマンも人間社会のトラブルに巻き込まれたのである。ゲノム解析も進み、インスブルック医科大学が二〇一三年に公表した報告によれば、オーストリアのチロル地方の三七〇〇人のDNAを分析した結果、一九人の男性の親族がいることが判明したという。「文理融合」といわれるが、生命科学の進化が社会科学の世界に留まってきた歴史学を突き動かしつつあり、その前兆がアイスマンの解明ともいえる。歴史の彼方にあったものが、科学的事実として光を放ち、我々の歴史認識は屋台骨から修正を迫られるのである。

 

  

 

五〇〇〇年前の世界への想像力―――その頃の世界、中国、日本

 

  アイスマンが生きた五〇〇〇年前という時代に想像力を働かせてみたい。この連載の前回に取り上げた世界最古の文字を生んだシュメル都市文明がメソポタミアに動き始めたのが約五〇〇〇年前であった。また、欧州にとって地中海の対岸のエジプトに統一国家が形成されたのがやはり約五〇〇〇年前、BC三〇〇〇年頃であり、BC二六〇〇年頃がクフ王のピラミッド時代であった。
 欧州においては、ウルム氷期(7万年~1万年前)を超えて、約六万年前から始まったホモ・サピエンスのアフリカからユーラシアへの移動が一巡し、約一万年前の定住革命(農耕・牧畜の定着)から約五〇〇〇年を経た時点であり、地中海地域に、BC三〇〇〇年頃とされるエーゲ文明(クレタの青銅器文明)が始まった頃であった。
遠くアジアの中国の五〇〇〇年前となると、中国最古の王朝とされる「殷」(BC1600年頃~BC1127年)よりも一四〇〇年も前であり、幻の王朝とされる「夏」が興ったとされるのが約四〇〇〇年前で、「黄河文明」が興隆する以前の中期新石器時代ということになる。「殷」王朝よりも前に存在したとされる「夏」王朝については、河南省西部にある二里頭遺跡の発掘などによって実在が証明されたという最近の論説もある(「中国文明史図説――先史・文明への胎動」、創元社、2006年)が、春秋から戦国の時代に幾つかの地方王朝の伝説が一個の「夏」という王朝史としてまとめられたという見方もある。いずれにせよ、仮に夏という王朝が存在していたとしても、その王朝成立の一〇〇〇年以上前の存在がアイスマンなのである。
 さらに、日本の五〇〇〇年前に視界を取るならば、仮に古事記・日本書紀の記述が、すべて歴史的事実だとしても、神武天皇の即位はBC六六〇年ということで、約二七〇〇年前となる。つまり、アイスマンは「神武」より二三〇〇年前の縄文中期の人間ということなのである。縄文時代は約一・二万年前に始まったとされるが、BC三〇〇〇年頃に、関東・東北に住居の集落が形成され、この縄文時代中期の「縄文人」が生み出した土器が、あの縄文芸術の華ともいえる「火焔型土器」(新潟県十日町市笹山遺跡)であり、土偶「縄文のビーナス」(長野県茅野市棚畑遺跡)である。その造形美と創造力には驚嘆せざるをえないが、この中期縄文人が欧州のアイスマンとほぼ同時代人であった。地球上の各所で、人類は知を凝縮させながら、それぞれの環境条件の中で必死に生きていたのである。そして、アイスマンの解明が突きつける科学的事実が、否定するすべもない歴史認識の素材となり始めているのである。

 

 

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