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岩波書店「世界」2017年9月号 脳力のレッスン185 ひとはなぜ戦争をするのか―そして、日本の今

 一九三二年、八五年前の夏、アインシュタインとフロイトという二〇世紀の知性を代表する二人の間で、「ひとはなぜ戦争をするのか」というテーマを巡る刺激的な往復書簡が交わされた。この往復書簡には興味深い背景があり、第一次大戦の悲劇を教訓として一九二〇年にジュネーブに設立された国際連盟が、物理学者アインシュタインに対して「最も大事だと思う問題について、最も意見交換をしたい相手と書簡を交わす」という要請をし、アインシュタインが提起したテーマが「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか」であり、書簡を交わす相手として選んだのが、「夢の精神分析」の著者で心理学の大家フロイトであった。

 

 

 

アインシュタインとフロイト―一九三二年夏の往復書簡

 

彼はまず、人間も本質的に動物であり、「人と人のあいだの利害対立、これは基本的に暴力によって解決されるもの」と言い切る。そして、「暴力」が肉体の力たる腕力から「武器」を用いることへと変化し、社会が発展するにつれて「暴力の支配」から「法(権利)の支配」へと進化したことを確認する。
 国際連盟という人類史上初の実験を評価しつつも、「すべての国々を統一できる権威を持つ理念は見当たらず」と冷静に事態を見つめ、一九一七年のロシア革命後、欧州の知識人の中に「共産主義」による世界平和の実現に期待する動きがある中で、ナショナリズムが根強く存在する状況下では「共産主義による世界の統一も無理」という二〇世紀の先行きを予見するような見解を示している。
 そこからが、心理学者フロイトの真骨頂というべきで、人間には「二つの欲望」が潜在し、対立していると語る。一つは「愛」(エロス)であり、保持し統一しようとする欲望、もう一つは「攻撃本能」で、破壊し侵害しようとする欲望だという。そして、この対立は善悪などではなく、相関・促進し合うものであり、「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうもない」と言い切る。その上で、フロイトは戦争を抑制するものとして、文化の大切さに言及するのである。「文化の発展を促せば、戦争の終焉に向けて歩み出すことができる」というのがフロイトの結論といえる。
 このフロイトの議論に違和感を覚える人も多いはずだ。虚ろな理想論であり、政策論を欠く観念論のように思える。それでも、フロイトは文化が生み出すものとして、 一つは知性を強め、それが欲望をコントロールすること、二つは知性が攻撃本能を内に向けることを指摘する。「反知性主義」が跋扈する今日、無力に見えるフロイトの議論だが、再考に値する本質論だと思う。
この書簡が交わされた一九三二年という年は、実に微妙な年であった。一〇〇〇万人を超す戦死者を出した第一次世界大戦(1914~1919年)から一三年、第二次大戦に向かう「戦間期」であり、時代のうねりが新たに動き始めた時期であった。敗戦国ドイツにおいて、ナチの前身「ドイツ労働者党」が設立されたのが一九一九年であり、第一次世界大戦の終結に向けたベルサイユ講和会議が開かれた年であった。翌一九二〇年には「民族社会主義労働者党」(ナチ)と改称、ヒトラーがミュンヘンで二五か条の党綱領を発表し、ベルサイユ・ワイマール体制へのドイツ国民の反発をテコに、次第にその危険な体質を露わにし始めていた。そして、一九三二年七月の総選挙で、ついにナチが第一党となり、一九三三年の一月にヒトラーが政権を掌握する。したがって、この往復書簡は、まさにナチの台頭を背景として行われたということである。
一九三二年の日本はというと、三月に満州国建国、植民地帝国としての性格を際立たせた。また、五・一五事件の年であり、犬養毅首相が海軍の軍人により暗殺された。軍部急進派による初のクーデター事件であった。これに先立つ二月には前蔵相井上準之助、三月には三井合名の理事長團琢磨が血盟団によって暗殺されるという事件が続き、暴力によって局面転換を図る不穏な空気が満ち始めていた。五・一五事件によって八年間の政党内閣は終わり、海軍出身の斉藤実内閣となり、翌一九三三年には満州国問題を巡り国際連盟から脱退、日本は孤立を深め、ナチス・ドイツとの同盟と真珠湾への道に追い込まれていく。
 アインシュタインは米国に亡命後、一九五五年に死去するまで、プリンストン大学の高等学術研究所にとどまり、フロイトも英国への亡命した翌年、一九三九年に死去した。一九三二年のこの往復書簡は一瞬の邂逅であり、知の火花が飛び交った瞬間であった。

 

 

 

安倍政権の戦争認識―――戦後七〇年談話再考

 

   戦後を生きた日本人は筋道立てて日本の戦争を考えたことはあるのだろうか。今更、「戦争に至った理由」や「戦争責任」など考えても「仕方がない」として、「一億総ざんげ」という曖昧な空気のまま、思考停止となり、本当は心にもない近隣への「謝罪」を繰り返してきたといえる。
 歴史教育においても、近代史に真剣に向き合う気迫もなく、戦後日本の中学、高校での歴史教育も、多くの場合、縄文弥生から始まり、幕末維新で時間切れとなり、近代史への合理的認識に踏み込まないままに終わった。大河ドラマか司馬遼太郎から得た近代史の認識が、大方の日本人の認識として共有され、出来事の年表を記憶する程度の浅薄な歴史認識が定着してしまった。
フロイトのいう文化力を形成する知性の中核は歴史認識である。E・H・カーがいうごとく「歴史とは過去と現在の対話」であり、あえて言えば「過去・現在・未来の対話を通じた時間の繋がりを認識する力」であろう。つまり、民族の歴史を時間軸の中で客観視する歴史認識を踏み固めることが、その民族の文化力を示す「民度」といえる。
二〇一七年の夏、日本人の心に「戦争への誘惑」が静かに高まっているといえよう。ミサイル、核で恫喝・挑発する北朝鮮の脅威、海洋進出を露わにして尖閣を窺う中国の圧力、そして「力こそ正義」を隠さない米トランプ政権、露プーチンという存在―――時代環境は「力の論理への回帰」を誘い掛け、我々も「目には目を」の報復の論理に傾斜しかねない。そうした時代に向き合う今、日本人の知の基盤、とりわけ「戦争をどう総括しているのか」という歴史認識が問われているのである。
そこで、現在の日本を統括する安倍政権の歴史認識を確認しておきたい。それは二年前の二〇一五年夏の戦後七〇年談話に凝縮されている。そして、この政権の政策と行動はすべてその歴史認識から派生していることが分かるのである。戦後七〇年談話のための「有識者会議」なるものを立ち上げ、都合の良い「御用学者」と不勉強な経済人を並べ、その報告をも参考にした談話だったのだから、ある意味では「現代日本のエスタブリッシュメント」による歴史認識ともいえる。
その戦後七〇年談話が、「戦争責任」や「近隣への謝罪」をどういう表現で乗り切ったのかというメディア的関心よりも、「なぜ戦争となったのか」という本質的認識に焦点を当ててみたい。第一次大戦後から第二次世界大戦に至る展開について、七〇年談話は次のように述べる。「第一次大戦を経て、民族自決の動きが広がり、植民地主義にブレーキがかかりました。・・・・人々は『平和』を強く願い、国際連盟を創設、不戦条約を生み出しました。」・・・「当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして日本は、世界の大勢を見失っていきました。」―――― もっともに聞こえるこの認識の重大な欠陥に気付かねばならない。
 この戦間期こそ、一九三二年、先述の往復書簡が交わされた時期である。戦後七〇年談話では、日本も国際協調路線に進みだしていたが、世界恐慌が起こり、「ブロック化」の中で孤立感を深めた日本が「行き詰まり」を「力の行使」で解決しようとして戦争に至ったかのごとき、受け身の日本という認識が示され、「やむをえなかった」というニュアンスが込められている。しかし、この捉え方は的確ではない。日本は自らが欧米列強の植民地にされるかもしれないという緊張の中で「開国・維新」を迎え、「富国強兵」で自信を深め、日清・日露戦争を「戦勝」で乗り切った辺りから、「親亜」(アジアへの共感)を「侵亜」(日本によるアジア支配)に反転させ、自らが植民地帝国と化していった。この過程こそ戦争への誘導路として認識されねばならないのである。
 この「脳力のレッスン」という連載の一六五回「『運命の五年間』から百年―――戦後70年の日本への問いかけ」(「世界」2016年1月号)において、私は第一次大戦に「日英同盟」という集団的自衛権を根拠に「山東利権」を求めて参戦した日本が、一九一九年のベルサイユ講和会議に列強の一翼を占める形で参加するまでの五年間を注視した。そして、この五年間における、一九一五年の「対華二一カ条の要求」、一九一七年のロシア革命に対する「シベリア出兵」と植民地帝国に豹変していく過程こそ、やがて戦争の災禍に引き込まれていく転機であったことに論及した。受け身の外部環境要因だけで、戦争を語ってはならないのである。もし、百年前の「運命の五年間」の日本に世界史の潮流を見抜き、欧米追随の路線ではなくアジアの自立自尊に資する日本の選択を構想できる指導者がいれば、日本の運命も変わっていたというのが私の見解である。「仕方がなかった」「日本だけが悪かったわけではない」というプラグマティズム(政治的現実主義)に帰結する歴史観が、戦後七〇年談話には重く横たわっている。
 驚いたことに、この戦後七〇年談話を「右派論壇の知性」ともいうべき渡部昇一氏が「百点満点だ」として絶賛した(WILL、二〇一五年10月号)のである。如何なる点で「百点満点」なのか、改めて読み直してみた。確認できることは、「東京裁判史観を否定し、隠れたアメリカ批判を内在させていること」への評価であり、「中国、韓国への懸念」を明示していることへの支持である。七〇年談話に象徴される歴史認識が、その行く先に「戦後民主主義」を否定して国権主義、国家主義、そして全体主義への回帰をもたらしかねないことを賢明な渡部氏は気付いていたはずだが、その渡部氏ももういない。
四月に八六歳で亡くなられた渡部昇一氏だが、五年前、日本を代表する一〇人ほどの個人蔵書家を連れて九段下の寺島文庫を訪ねていただいたことがあった。渡部氏自身が一五万冊の蔵書を持つ方であり、じっくりと寺島文庫の蔵書と所蔵品を観察された後、懇談をされていった。アナログの書籍が配架された中で思考することの重要性を語り合う、充実した時間だった。「ここに集積されている本の密度が濃い」とする励ましの礼状が届き、嬉しかった。亡くなられてから、「渡部昇一 青春の読書」という本(ワック社刊、2015年)を手にし、渡部昇一という人物の知的基盤形成の過程に触れた。山形県鶴岡市に生まれ、旧制鶴岡中学生として敗戦を迎え、一九四八年に学制改革により県立鶴岡第一高等学校三年生になるという「戦中派」として、戦争と戦後を体験したことが理解できた。
 私なりに渡部氏の「知の軌跡」を辿るならば、「共産主義、社会主義とは肌が合わない」と感じ、若くして「全体主義」を拒否する感性を身につけている。そして、中学生として敗戦の衝撃を受け止めるという体験をする。戦場や戦争の災禍を直接体験しなかった銃後の「軍国少年」の世代の戦争への目線は微妙で、「ジャワの乙女の歌」や「マニラの街角で」を歌った少年時代を過ごしている。我々のような戦後生まれの「戦争を知らない子供達」の戦争観とは異なる目線であり、じっと戦後の大人社会の混乱を見つめる中で、「日本だけが断罪される東京裁判の不条理」と「アメリカの抑圧的寛容」に湧き上がる疑念を内在させながら生きたといえる。そして、世界の歴史文献に通暁するにつれて、「日本だけが悪とされるべきではない」という論理に突き進み、「日本民族の誇り」を強く語りかけるに至った。
 人間は誰も自分が生きた時代を「世代」としてひきずる。自分が体験したことに誠実に向き合い、世代の責任を果たさねばならない。私は「知的生活の方法」(講談社現代新書、1976年)を読み、知を求める先達として渡部氏を敬愛するが、戦後七〇年談話を礼賛する主張には賛同できない。何故ならば、七〇年談話に込められた歴史認識の歪みが日本の未来を暗く重苦しいものに向かわせているからである。集団的自衛権を解釈改憲してまで推進した「安保法制」から「共謀罪法」に至る政策思想、さらに「憲法改正」を目指す流れを注視するならば、明らかに「軍事力、警察力」という国家権力を強化し、国家の統治力を高める国家主義、国権主義へと日本を傾斜させていることは否定できない。それは、やがて「国民主権」を否定して国家権力による過ちを国民に押し付ける歴史を繰り返すことになるであろう。

 

 

日本人として今考えるべきこと

 

   もう一度、戦争に至った日本近代史を見つめてみよう。大恐慌後の一九三〇年代に入り国際的に孤立して真珠湾に追い込まれていく過程で、日本が道を間違えたのではない。第一次大戦期の「運命の五年間」、一九一四年から一九一九年、欧米列強模倣の力比べに参入、新手の帝国主義国家としての路線を露わにし始めた、「対華二一カ条の要求」がその嚆矢といえる。そして、一九二三年の関東大震災を受けた人心の不安に乗じ、一九二五年に治安維持法を公布、言論・思想の自由を規制する方向に踏み込んでいく。統制は統制を呼び、やがて「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく」として統合国家への誘惑を覚え、軍事優先の軍国主義国家へと変貌していく。「この道はいつか来た道」という言葉があるが、「日本を取り戻す」という叫ぶ日本は、戦争に至った日本への回帰を図り始めているのではないか。
 一九二四年十一月、死去する四か月前の孫文は、神戸で有名な「大アジア主義」についての講演を行った。その締めくくりで孫文はこう述べている。「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれから後、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです。」孫文は日中連携論者であり、辛亥革命に向けて彼を支援し、心を通わせた日本人も多かった。アジアの中で先駆けて列強との不平等条約を改正した日本への期待も大きかった。それ故に、一九一五年の「対華二一カ条の要求」以降、西洋覇道への模倣に傾斜する日本への失望も深かった。日本が孫文の警鐘に聞く耳をもたなかったことは、その後の歴史が示している。
 世界潮流は、先述のごとくトランプやプーチンが発するメッセージや北朝鮮、中国の圧力を受けて、「力こそ正義」の空気が溢れつつある。反知性主義が大手を振る状況の中で、苦慮しつつも、やはり私は「文化力」と「知の力」にこだわりたいと思う。憎しみの連鎖を抑えるのは知性(文化)であり、日本を再び誤らせてはならない。

 

 

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