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岩波書店「世界」2018年6月号 脳力のレッスン194特別篇 ジェロントロジーの新たな地平―異次元の高齢化社会に向き合う柔らかい構想力

   「幸せな高齢化社会」など実現可能なのであろうか。「老いも若きも共に支える温かい高齢社会」というフレーズが、一九九五年に制定された「高齢社会対策基本法」に登場するが、高齢化社会とは、行政の「キレイゴト」に集約できるほど単純な話ではない。その後、「高齢社会対策大綱」は二度改訂され、二〇一五年には「一億総活躍社会プラン」が掲げられる中で、日本の高齢化社会の輪郭は混濁し、むしろ見えなくなったといえる。
 ジェロントロジー(GERONTOLOGY)という概念がある。英和辞書で引くと、「老年学」と訳され、何やら息苦しい老人社会の議論といったイメージが浮かぶが、高齢化社会を体系的に解析し、前向きに制御していく意思が伝わらない。私は、新しい社会を創造するための体系的な「社会工学」という視界が重要と考え、「高齢化社会工学」と訳すべきと考えている。人間社会総体の構造変化を視界に入れた「高齢者の社会参画」を促す構想力が問われているのだ。

 

 

 

異次元の高齢化という現実を直視する

 

 もう一度、日本の人口構造の変化を直視し、異次元の高齢化とは何かを確認しておく。
二〇一八年四月現在、日本の総人口は一・二六億とされ、二〇〇八年のピーク、一・二八人に比べ、既に約一六〇万人減少した。つまり、福岡、神戸、川崎、さいたま級の都市が一つ消えたといえるほど人口減は加速している。その中で、八〇歳以上の人口は一〇〇〇万人を超し、一〇〇歳以上人口も七万人、六五歳以上も三五〇〇万人(28.0)を超した。高齢化社会は既に現実である。
「少子高齢化」は今後加速し、二〇五〇年前後には、日本の人口は一億人に迫り、百歳人口五三万人、八〇歳以上人口一六〇七万人、六五歳以上人口三八四一万人(総人口の三七・七%)という状況を迎えると予測されている。人口が一億人を超した一九六六年の六五歳以上比率はわずかに六・六%、つまり六六〇万人しか高齢者はいなかった。一億人を割ると予想される二〇五三年、四〇〇〇万人に迫る六五歳以上人口を抱えた一億人であり、意味がまるで違うのである。

世界の中でも日本の高齢化は際立つ。国連の人口推計(2017年改訂版)によれば、二〇一五年の時点で、六五歳以上の人口比率で日本の二六・〇%は飛びぬけており、先進国といわれる国で日本に次いで高いのがドイツの二一・一%で、フランス一八・九%、英国一八・一%、米国は一四・六%である。ちなみに、中国は九・七%、韓国は一三・〇%にすぎない。この高齢化率、二〇五〇年の予測では、日本は三六・四%となっているが、世界的に高齢化が進行するとみられ、韓国は三五・三%、中国は二六・三%と一気に高齢化が進むとされ、ドイツ三〇・七%、フランス二六・七%、英国二五・四%、米国二二・一%になると見られている。つまり、日本の異次元の高齢化社会への対応が世界にとっても重要な先行モデルになるわけで、日本におけるジェロントロジー研究は重大なのである。とくに、急速な「産業化」による人口構造の変化をもたらしている東アジアの中国、韓国などにとって重要な示唆となるであろう。

 

 

 

 

 

最大の課題は都市新中間層の高齢化―――戦後日本の帰結

 

  単に高齢者が増え、人口に占める高齢者比重が高まるというだけの話ではない。どういう人達が高齢者になっているのかという社会学的視座が重要なのである。とくに、日本の高齢化は戦後日本の産業構造、社会構造の変化を投影しており、そのことを視界に入れなければ、「異次元の高齢化」の意味が理解できないであろう。
そこで、特に戦後日本がどういう国を造ってきたのかを再確認しておきたい。敗戦後五年を経た一九五〇年(昭和25年)、六五歳以上の人口は四・九%で、戦前(一九三〇年は四・八%)と変わらなかった。そして、就業人口の四八・六%が一次産業に従事、まだ戦後の「産業化」は始まっておらず、二一・八%が二次産業、二九・七%が三次産業であった。ここから「戦後日本」は動き始めたのである。
一九七〇年(昭和45年)、日本の高度成長が軌道に乗った大阪万博の年においても、六五歳以上の人口比重はまだ七・一%、それほど大きな変化はなかった。しかし、就業人口構造は大きく変化し始めており、一次産業比率は一九・三%に下がり、二次産業が三四・一%に急増、三次産業は四六・六%という状況でえあった。鉄鋼、エレクトロニクス、自動車といった外貨を稼ぐ産業が動き始め、日本は「工業生産力モデル」の優等生として高度経済成長期を走っていた。
一九九〇年、高度成長を経て日本経済がバブルのピークだった年、六五歳以上人口は一二・一%であったが、就業人口は一次産業七・二%、二次産業三三・五%、三次産業五九・四%と、工業生産力志向が一巡して「サービス産業化」の局面に入っていた。そして二一世紀に入って「高齢化」が加速、二〇一七年には六五歳以上人口は二七・七%となり、就業人口構造も一次産業従事者はわずかに三・四%となってしまった。とくに、二一世紀に入って、三次産業就業者が拡大、一七年には七一・二%となった。とりわけ、看護・介護に従事する「医療・福祉」への就業者が急増しているほか、宅配業務を担う「運送」、ガードマンなどの「保安」関連の従事者が増加しており、就業構造は新たな局面を迎えている。
戦後日本は大都市圏に外貨を稼ぐ産業とそれを支える人口を集中させる形で高度成長期を走った。とくに、首都圏には東京をベルトのように取り巻く国道一六号線に沿って団地、ニュータウン、マンション群を建て、サラリーマンを住ませた。その都市新中間層が急速に高齢化しているのである。つまり、工業生産力を支えた世代が定年退職期を迎え、大量の高齢化した都市新中間層を郊外に抱える時代にはいったのである。農耕社会における高齢者とは異なる社会的特性を身に着けた高齢者が大都市圏に集積している事実は重い。

 

 

 

 

高齢化社会への前向きの認識―――高齢化は社会的コスト増ではない

 

  高齢化社会に関する従来の議論、ジェロントロジーを「老年学」と訳してきた視界では、高齢化を社会的コストの増大と捉え、その負担の在り方についての議論に傾斜しがちとなる。ジェロントロジーに関する書物をみても、その三分の二以上の内容は、医療、年金、介護に割かれている。確かに、「二〇一五年度の日本の医療費約四二・四兆円の五九%が六五歳以上の高齢者によるもので、七〇歳以上で四八%」「六五歳以上の一人当たり医療費は六五歳未満の四倍」という資料をみれば、高齢者による医療負担の増大、さらに介護費用の増大が今後の大問題であることは否定できない。だが、高齢化を社会的コスト増とするだけでは、異次元高齢化社会を明るい未来と構想することは不可能である。社会を支える側に高齢者を参画させるパラダイム転換が必要なのである。
ところで、「高齢化」を論ずる時、思い出すのがサムエル・ウルマン(1840~1924年)の「青春」という詩である。「 青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたをいう・・・・年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる・・・・頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、八〇歳であろうと人は青春・・・」という詩は、多くの老人の心を駆り立ててきた。前向きに生きる高齢者の永遠の応援歌といえるであろう。
また、ヘルマン・ヘッセ(1877~1962年)は「人は成熟するにつれて若くなる」(V・ミヒェルス、岡田朝雄訳、草思社、1995)において、「老いてゆく中で」という次のような詩を書いている。「 若さを保つことや善をなすことはやさしい  すべての卑劣なことから遠ざかっていることも  だが心臓の鼓動が衰えてもなお微笑むこと  それは学ばれなくてはならない  それができる人は老いてはいない  彼はなお明るく燃える炎の中に立ち  その拳の力で世界の両極を曲げて  折り重ねることができる・・・・」
年齢を超えて、積極的に生きる力を求める者にとって、ウルマンやヘッセの詩は心に響く。だが、個人の「心構え」だけで高齢化社会を論ずることもできない。我々は、最新の脳科学、生命科学をはじめ、医学・医療の進化を注目しなければならない。例えば、ノーベル生理学・医学賞受賞の脳神経学者R・L・モンタルチーニの「老後も進化する脳」(朝日新聞出版、2009年)は、脳科学の最新の成果として、人間の精神活動は「老年期」に新しい能力を発揮しうることに言及している。確かに、記憶力や創造力に関わる機能は「老化」によって劣化するかもしれないが、積み上げた体験から事態の本質を捉え、体系的に対応を考える「思慮深さ」は、高齢者の能力が評価されるべき分野といえる。
同様に、米国の科学ジャーナリストB・ストローチの「年をとるほど賢くなる脳の習慣」(原題“THE SECRET LIFE OF THE GROWN― UP BRAIN”、2010、邦訳池谷裕二監修・解説、日本実業出版社、2017年)も、「脳は経年劣化しない」「運動、訓練によって脳は強くなる」ことを指摘している。私の個人的実感においても、現場体験(フィールドワーク)の蓄積と文献の読み込みが相関し、六〇歳を過ぎて以降、物事のつながりを見抜く「全体知」(INTEGRITY)が高まっているように思う。
 「老化現象」があらゆる生命活動の共通の宿命である中で、とりわけヒトの老化がドラマティックな様相を呈する理由について、モンタルチーニは、「第一にヒトの寿命が長いこと、第二に、損耗による器官の衰えが肉体の各所で表面化しやすいことに加え、第三の理由として、社会が高齢者を疎外すること」を挙げている。この第三の理由の「疎外」を考えるならば、これまでの社会がこれほどの高齢化を想定していなかったために、社会システムに高齢者を参画させる基盤がなかったことによって不適合が生じているといえる。一〇〇歳人生を想定した社会モデルなど存在しなかったのである。
 「疎外された存在」は必ず社会変革の起爆剤となる。今、日本の高齢化社会の中核になりつつある世代は戦後日本の社会構造変化を投影した存在であることを認識しなければならない。そうした高齢者を健全な社会的参画者として機能させるのが、日本のジェロントロジーの課題といえる。
ところで、ジェロントジーへの新たな視角として、美容界に足跡を残した山野愛子氏の長男で山野学苑を率いる山野正義氏が「美齢学」(美しく歳をとる)という主張を掲げていることに注目したい。美とはいうまでもなく、表面的な美だけではなく、精神の美でもある。美容と福祉の融合を目指す山野氏が「九〇歳を過ぎて介護状態にあった女性が、ネールアートと髪を整えることでオシメが取れた」と語る言葉は、高齢化の本質の一面を炙り出している。「美しさ」を意識することが高齢化社会の質を決めると思われるからである。

 

 

二一世紀・高齢化社会への構想力―――参画のプラットフォームへの知恵

 

  高齢化社会が政治にもたらすインパクトについては、岩波新書からの「シルバー・デモクラシー」(2017年)において問題意識を整理した。人口の四割を六五歳以上が占めるということは、若者は投票に行かない傾向が延長されれば、有効投票の六割を高齢者が占めることになり、「老人の老人による老人のための政治」という「シルバー・デモクラシーのパラドックス」が生じかねない。既に「アベノミクス」が高齢者によって支持される心理を解析した。既に、金融資産の大半は高齢者が保有していることにより、「株が上がる政策」であれば、異次元金融緩和にせよ、財政規律を無視した財政出動にせよ、高齢者が拍手を送る構図が顕在化している。本来、高齢者は思慮深くなっているはずで、社会の安定勢力として機能すべきで存在である。金融政策の歪みがもたらした「マイナス金利」が、「勤勉、貯蓄が利息を生む」という経済倫理を毀損し、金融政策主導で株価を上げることが自己目的化するという危うい構図をもたらしているのである。
 敢えて言えば、いつの時代でも「老人は悪魔」であり、「老人が戦争を始め、若者が戦場に立つ」といわれてきた。だが、現代日本における世代間ギャップは質を異にする。そのことは、農業社会における社会関係が、大家族主義の中で、老人は子供に食わしてもらう関係が常態で、「老いては子に従え」という価値が機能していたことを想起すれば分る。都市郊外に集積した現在の高齢者は子供に食わせてもらうことを期待できる者などほとんどいない。現代日本の社会システムは、工業化社会を前提に作られ、その結末としての大都市郊外型の高齢化に適合できなくなっているのである。
 この歪みはさらにエスカレートすると思われる。二〇一八年三月に国立社会保障・人口問題研究所が発表した「地域別将来推計人口」には改めて驚かされる。二〇一五年比で二〇四五年の全国の人口が一六・三%減少すると予測される中で、東京だけがわずか〇・七%増加とされるが、秋田県の四一%減を最大に、青森、山形、高知、福島、岩手などの県で三割以上も人口が減ると予測されている。つまり、大都市圏への人口集中が進み、地方は一段と過疎化するということであり、しかも「七五歳以上の人口比重が二割を超す道府県が四三になる」という。こうした展望がなされる理由は、地方を支える産業がないからである。大震災後の東北ブロックを見ても、食べていける産業がないため「帰りたくても帰れない」のである。「大都市の大都市による大都市のための政治」になる傾向が暗示され、突き詰めれば、「大都市の老人による意思決定」が重くなるといえる。高齢化した都市新中間層がどう動くかが日本の運命を決めるのである。
 日本におけるジェロントロジーの焦点は明らかである。健全な社会の参画者として大都市郊外型の高齢者を招き入れるプラットフォームを社会工学的に構想、実現することである。高齢者を生かし切る構想力が問われているのである。
 前提となる考え方を確認しておきたい。まず、一五~六四歳を「生産年齢人口」とする概念の修正が必要となる。現実に一六~二二歳の六割以上は学生であり、生産に従事していない。ここでいう「生産」の意味は工業化社会を想定した生産であり、既に就業者の七割は三次産業、サービス産業に従事している。そうした就業構造を前提として、「生産」活動を柔らかく想定し、少なくとも七四歳までは生産労働人口とし社会的活動に参画させるという視界を拓くべきである。
 この一〇年近く、東大医科研の臨床・研究医と「保健・医療のパラダイムシフト協議会」として「病気にさせない医療」を求めて議論を重ねてきたが、我々に必要な認識は「八〇歳でも七割はほぼ健常者」という事実である。「寝たきり老人」ではないということである。ただし、六〇歳前後で定年退職した人を、二〇年以上大都市郊外のコンクリート住居空間で、社会的関係から遮断された独居老人として閉じ込めるならば、その七割は精神的に異常をきたすであろうという現実を注視しなければならない。人間は社会的関係を見失うと制御不能になるのである。
そこで、「定年延長」とか「生涯現役」として高齢者の就労機会を拡大することも重要であろうが、高齢者の仕事の中身を社会の安定に資するものにする努力が求められる。例えば、「食と農への高齢者の参画」という構想を提示しておきたい。戦後日本は、国際分業の中で「食べ物は海外から買ったほうが効率的だ」という国を創り、食料自給率を三八%にまで下げ、海外から七兆円(2017年)の食料を買う国になった。特に、大都市郊外の「ベッドタウン」の食料自給率はZEROで,都市新中間層のライフスタイルは「カネで食料を買い、自分は食う役割」という感覚を身に着けてきた。気が付けば、現代日本人の「食」のライフラインは、全国に五・六万店になったコンビニエンス・ストアと三五〇〇か所を超したショッピング・センターによって維持され、「食」の基盤を自ら作るという意思を見失った高齢者群を生み出したのである。
都市郊外型の高齢者を参画させ、都会と田舎の「交流」によって、日本の「食と農」を再生させる構想は推進に値すると思う。そのことによって、食料自給率を六〇%にすることができれば、つまり食糧輸入を七兆円から二兆円減らし、食の輸出を一兆円増やせれば、食の外部依存を軽減し、産業構造の重心を下げることに着眼したい。そんな構想にリアリティーがあるのか、疑問を抱く人も多いであろう。
 現在、日本の農地は四五〇万ha、農耕放棄地四二万haとされるが、この農耕放棄地を活用し、飼料穀物や野菜、果物を栽培して輸入代替を図り自給率を上げる構想は現実性のある課題であろう。農業生産法人(株式会社農業)などによるシステムとしての農業を受け皿とし、分業としての農業、都市居住者が応分に参画しやすい農業にもっていくことは可能であろう。既に一・七万の農業生産法人が動いているが、都会と田舎の「移動と交流」による呼応関係によって新しい食と農の仕組みが柔らかく構築され、食のパラダイムが変わるのであれば、意味のあることだと思う。歴史のネジを巻き戻して、「脱・工業化時代」の社会形成が求められている。
地球的規模での人口増は加速している。二〇一七年に七五億を超した世界人口は、二〇五〇年には九〇億を超すと予想される。食と農は重要であり、日本として食を安定させる試みは不可欠である。都市郊外型の高齢者を食と農のプロジェクトに参画させる知恵が求められる。もちろん、高齢者が参画すべきテーマは食と農だけではない。エネルギー、教育、子育てなど社会を安定させる分野での参画と貢献が期待され、そのプラットフォームの形成が課題となる。壮年期の仕事が「カセギ」(経済生活のための活動)のためだとすれば、高齢者の仕事は「ツトメ」(社会的貢献)のためのものへと昇華すべきである。ジェロントロジーはその仕組みを構想、実現する社会工学でなければならない。
時代は「高度情報化社会」というべきデジタル・エコノミーへと向かっている。AI(人工知能)、ビッグデータ、I0Tが社会生活を突き動かす時代を生きる人間として、高齢化社会の社会システムを柔らかく描き出すことに立ち向かわねばならない。少子高齢化を「縮小均衡」にしないため、日本の実験が、世界の先行モデルとなる構想に挑戦したい。

 

 

  

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