Friday, Oct 18th

Last updateWed, 16 Oct 2019 5pm

You are here: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2018年 岩波書店「世界」2018年3月号 脳力のレッスン191 ロシア史における「タタールの軛」とプーチンに至る影―一七世紀オランダからの視界(その47)

岩波書店「世界」2018年3月号 脳力のレッスン191 ロシア史における「タタールの軛」とプーチンに至る影―一七世紀オランダからの視界(その47)

 現代のモンゴルにおいて、ジンギス=ハンはどう評価されているのか。昨年九月、ウランバートルを訪れた私の関心はここにあった。もちろん、ソ連崩壊を受けた一九九〇年代以降の「民主化」の中で、ウランバートル空港が「ジンギス=ハン空港」になるなど、再評価が進んでいるともいえるが、日本におけるモンゴル研究の熱気とは温度差を感じた。この温度差こそ、モンゴルという視界から世界を再認識する時の基点かもしれない。
ウランバートルのモンゴル民族博物館を訪れ、じっくり見せてもらったが、展示内容はモンゴル全史をバランス良く紹介しており、ユーラシア史を突き動かしたモンゴル帝国の栄光を誇示する内容ではなく、二〇世紀における約七〇年の社会主義時代も含めて、隣国のロシア、中国に配慮した展示になっているという印象だった。「失われたモンゴル史」という言い方があるが、皮肉にも、戦後日本のモンゴル帝国研究のほうが、岡田英弘、杉山正明などを代表格とする優れた研究が蓄積され、モンゴルからの世界史観が拓かれたといえ、むしろモンゴルの若い研究者がその成果を吸収するため日本に留学してきている状況なのである。
二〇一七年に日本でも公開された映画「グレート・ウォール(万里の長城)」(2016年ユニバーサル映画、米中合作、チャン・イーモウ監督)は、マット・ディモン主役の活劇で、シンガポールや香港など華人・華僑圏では大変な話題作であった。この映画で描かれる万里の長城の北から侵攻してくる夷狄は不気味な姿をした爬虫類の怪獣であり、獣、ケモノ、妖怪と北方民族を意識すること、これこそが中華文明的視界を象徴するものである。映画の設定は宋の時代とされ、宋の時代、北から長城を超えて侵攻したのはモンゴルであり、怪獣とはモンゴルの象徴なのである。一二七六年に南宋を滅ぼしたモンゴルが大元ウルスとして中国の中原を支配した時代を迎えるわけだが、モンゴルの位置づけが中国史のトラウマであることが分る。
この映画には、宋の時代の中国軍の武器として「火薬」とか「熱気球」が登場し、西欧の科学技術よりも、中国が前に出ていたという歴史観が埋め込まれており、「火薬、活版印刷、羅針盤、紙―――人類の四大発明はすべて中国が先行した」という「中華文明の歴史的栄光」を強調する現在の習近平政権の意図も投影されていたといえる(参照、本連載43「鄭和の大航海と東アジアの近世」)。中国中心の歴史観の象徴ともいえる映画であり、秦の始皇帝が紀元前二一四年に本格的に「万里の長城」の増改築に着手して以来、現存するだけでも日本列島縦断の三往復にあたる六二五九KMもの障壁を造り続けた情念は、中国にとって北方民族がいかに脅威であったかを想わせるのである。
そして、モンゴル史からの視界を深めることは、中国中心の歴史観(中華史観)や西欧優位の歴史観との対比、相関において、我々の世界観、ユーラシア大陸を見渡すグローバル・ヒストリーへの視界を拓くことに気付かされる。

 

 

 

司馬遼太郎の「モンゴル紀行」とモンゴル史観

 

司馬遼太郎が「街道をゆく」シリーズで、モンゴルを訪れたのは一九七三年で、五〇歳を迎えた夏であった。「モンゴル人民共和国」としてソビエト連邦の衛星国的位置づけをされていた時代で、週刊朝日連載の後、「モンゴル紀行」(朝日新聞社、1974年)として刊行されている。ハバロフスク、イルクーツク経由でウランバートルを訪れており、直行便などなかった。一九七三年といえば、石油危機の年であり、私が三井物産に入社し、社会人としての生活をスタートさせた年でもあった.
まだ社会主義が一定の輝きを残していた。世界の多くの若者が社会主義への幻想を抱いており、「万国の労働者よ、団結せよ」と訴える「社会主義インターナショナル」が歌われていた。ベトナム戦争で米国が敗退したのが一九七五年であった。つまり、司馬遼太郎がモンゴルを訪れた頃は、ジンギス=ハンの栄光が最も抑制されていた時代であった。
ウランバートルには「政治粛清祈念博物館」があり、社会主義国家時代にスターリンによるソ連の支配に抵抗した元首相のゲンデンが一九三七年に処刑されたのをはじめ、政治家、僧侶など四万人以上が粛清されたといわれ、その犠牲者を記憶する施設が「民主化後」に作られたのである。モンゴル民族にとって一九二一年からの社会主義体制下の七〇年間は「失われた七〇年」どころか、民族の栄光を消し去られた時代であった。
司馬遼太郎は大阪外国語学校の蒙古語科を卒業し、モンゴルについて深い知見を持っていた。一九二三年生まれの彼は、一九四三年に学徒出陣で軍役に付き、満州の牡丹江で戦車連隊の小隊長として北東アジアを体験した。日本が「満蒙問題」という形で、この地域に特別の利害と関心を有していた時代であった。後に司馬は「街道をゆく」というシリーズで国内外の様々な地域を訪れて足跡を残したが、晩年「ハンガリーを訪ねたい」と語っていたという。生まれた赤ん坊の尻に「蒙古斑」がでる最西端といわれるのがハンガリーであり、モンゴル軍が攻め込んだ世界を極めたかったのであろう。
 「モンゴル紀行」において、司馬は社会主義政権下のモンゴル憲法では「極端な愛国主義と盲目的な民族主義を排する」ことを規定していると指摘、1962年にジンギス・カン生誕800年記念行事を行おうとしたが、当時のソ連政府の顰蹙を買ったという記述もある。確かに、一九二一年の社会主義革命で成立したモンゴル人民共和国の憲法(1924年制定)では「人種的または民族的所属を理由とする、市民の権利の直接的または間接的なすべての制限、排外主義および国家主義思想の宣伝は、法律によって禁止される」(第83条)とあり、条文だけでは意味が伝わらない部分もあるが、ロシア革命を受けてソ連の周辺国だった時代において、ソ連がいかにモンゴル人の民族主義の再燃を抑制することに神経質になっていたかを示すもので、「勤労人民」の民族を超えた連帯のほうが重要という価値観を強く押し付けていたことが分る。
ウランバートルの中心部に「スフバートル広場」があり、スフバートルは一九二一年の社会主義革命の指導者で、一九二三年に二九歳で夭折した英雄であった。広場の中央にスフバートルの騎馬像(一九四六年建造)が立ち、広場の北側には巨大なジンギス=ハン像が建てられている。この広場、二〇一三年にジンギス・ハーン広場と名を変えたが、二〇一六年に再びスフバートル広場に戻された。この微妙なバランス感覚がモンゴルの歴史感覚を象徴するものといえよう。

 

 

 

ロシア史におけるタタールの軛とその後

 

   「ロシアは謎のなかの謎につつまれた謎である」と英首相チャーチルは語っていた。ロシアとは何かを考える時、埋め込まれた「タタールの頸木」といわれるモンゴルの影がロシア史の謎を深めていることは間違いない。本連載の第一回「ピョートル大帝のオランダでの船大工体験」において、一七世紀末のオランダにおいて、ロシアのピョートル大帝がロシア皇帝という身分を隠してまで、アムステルダムで東インド会社の子会社で船大工として働いたことがあるという史実に触れ、こうした体験を通じて、ピョートル大帝がユーラシア大陸の東への関心を深めたことを述べた。その中で、「ロシア史には『タタールの頸木』という表現があり、一三世紀初頭から一五世紀末まで二世紀半にわたるモンゴルの支配を受け続け、潜在意識におけるトラウマになっている」と論じたが、ロシア理解にはこのトラウマを視界に入れることが不可欠である。
既に述べたごとく、ジンギス=ハンが一二〇六年にモンゴル帝国を建国し、一二二七年に没した後、その孫バトゥ(抜都)軍が、タタール族をはじめ多様な高原民族を率いて、一二三六年に西方遠征を開始した。破竹の進撃で、一二三八年にはモスクワ、一二四〇年にはキエフを陥落させ、ポーランド、ハンガリーにまで侵攻した。バトゥはヴォルガ川下流域に留まり、キプチャク・ハン国を成立させた。キプチャク・ハン国はモンゴル帝国からも自立し、一四世紀半ばにはロシアの諸公国を支配下に置いて全盛期を迎えるが、モスクワ大公国やチィムール帝国の台頭によって、一五世紀末には衰退する。ただし、タタールの頸木は長く尾を引き、杉山正明が「モンゴル帝国と長いその後」(講談社、2008年)において語るごとく、一五五二年のカザン攻略で「タタールの頸木」を断ち切り、雷帝といわれたモスクワ大公イヴァン四世(在位1533~84年)でさえ、流れている血の半分はモンゴル人であった。つまり、イヴァン四世の母はジョチ・ウルスの有力者ママイの直系であり、妻マリヤ・テムリュコヴナはジョチ家王族の血脈で、杉山正明が言う「モンゴルの婿たるモスクワ」だったのである。そのころのロシアは、モンゴルの後ろ盾を権威付けとしていたということである。
 イヴァン一世(在位1328~40年)がモスクワ大公国を継承した時、その領地はわずかに二万平方KMにすぎなかったが、一世紀後の第六代大公イヴァン三世(在位1462~1505年)はその版図を二〇〇万平方KMにまで拡大していた。イヴァン一世の孫、ドミトリー・ドンスコイがタタールの頸木に初めて反旗を翻したとき、モスクワ軍に二〇か国もの公国が合流した。そして一五四七年。雷帝イワン四世が初代ツァーリに就任、前記の「タタールの軛」からの解放の戦いに挑むのである。
 ロマノフ家はモスクワ公国の貴族であったが、王家との婚姻を通じて権威を高め、一六一三年にミハエル・ロマノフがロマノフ家初代のツァーリとなり「ロマノフ朝」がスタートした。それが一七世紀末における「中興の祖」ピョートル大帝(在位1682~1725年)によって、「東進するロマノフ朝」となり、ロシアはさらなる膨張期に入った。ロシアはアジアに迫り、モンゴルの後継を自認する満州族主導の清国と一八五八年に愛琿(アイグン)条約を結び、アムール河北岸を獲得、さらに一八六〇年には清国と北京条約を結び、ロシア語で「東征」を意味するウラジオストクの建設を開始した。この間、一七九二年にはラックスマンが根室に来航、一八〇四年にはレザノフの長崎来航という形で、江戸期日本の扉をたたき始めた。以来、日露戦争、シベリア出兵、ノモンハン、八月九日(ソ連参戦)と、日本近代史はロシアの脅威と向き合ったのである。
 ロシアは一八六七年、明治維新の前年にアラスカを米国に七二〇万ドルで売却、一八七五年には「千島・カラフト交換条約」で、とりあえず日本との国境を確定したものの、東への野心を失うことはなかった。改めて、ロシア史を再考する時、思い起こす言葉がある。
 一九世紀末、つまりロシア革命前のロシアにおける言葉だが、「ロシア人とは、美と精霊と愛を意識する正教徒であり、ツァーリを君主とし、同じ民族に属するという意識をもつ者」というのである。注目したいのがロシア正教の存在である。ロシア研究の下斗米伸夫は「宗教・地政学から読むロシア―――『第三のローマ』をめざすプーチン」(日本経済新聞社、2016年)において、「モンゴルの脅威から自由になり、ビザンツ帝国への従属的地位から解放され、モスクワ独自の存在感を高める中で、雷帝イヴァン四世は『モスクワは第三のローマ』と語るようになった」と指摘し、「二つのローマ(ローマとコンスタンチノーブル)」は斃れ、モスクワが「第三のローマ」としてキリスト教文明の中心に立つという自負を語るものという見解を示している。
ロシアの本質を見抜く上で重要な視点であり、現在のプーチン政権にも通じると思われる。二〇〇〇年に大統領に就任以来一八年、二〇一八年三月の大統領選挙で再選されれば、大統領という名の「新しいツァーリ」ともいえるプーチンが語る「正教大国を目指す」という意味は、この政権がロシア統合の基盤を「ロシア正教」に置くということである。ウラジミール・プーチン―――思えば、ウラジミールはロシア正教の原点に関わる名前である。九世紀後半に、バルト海と黒海の間に「ルーシ」と呼ばれるノルマン人の族長による部族を超える統治機構が台頭し、八八二年には首都をキエフとし、東ローマ帝国の首都コンスタンチノープル襲撃を目論んでいた。九八八年、東ローマ帝国はこの異邦人たちのキリスト教化を試み、ルーシのウラジミール公を東ローマ皇帝の妹と結婚させ、「大公」の称号を与えた。ロシア初の統一封建国家たる「キエフ・ルーシ」を率いるウラジミール一世(聖公)はギリシャ正教を国教とした。その後、一三二六年に混乱したキエフから逃れたルーシ総主教がモスクワ公に迎えられて以来、モスクワがロシア正教の中心となったのである。「ロシア主義」への回帰を主導するプーチンが何を心にロシアを駆り立てているのか、考えさせられる。

  

 公開記事につきましては各社及び筆者の許諾を得ています。無断転載・引用等、著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。