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岩波書店「世界」2018年1月号 脳力のレッスン189 モンゴルという衝撃――十字軍と蒙古襲来 ―一七世紀オランダからの視界(その46)

 この連載の「世界を見た漂流民の衝撃」(第30回)において、江戸前期の一六四四年、日本海を漂流して、現在の極東ロシアに漂着し、その後、奇跡的に北京、ソウルを経て帰国した越前人の体験に触れた。「韃靼漂流記」として記録された史実であり、満州族(女真)が中国の中原を制覇して「清朝」をスタートさせた直後の北京を目撃した日本人の歴史的体験だったことを論じた。一七世紀の中国の東北部を訪れて帰国した体験がなぜ「韃靼漂流記」と呼ばれたのか。「韃靼」とは何かを再考しておきたい。
前記の論稿では「韃靼とはタタールのことでモンゴルを意味する」と書き、「この頃の日本人の視界では、日本海の向こうに広がる世界は韃靼だった」と述べたが、正確にいえば、タタール族はバイカル湖の南東部に遊牧していた民族で、一〇世紀には契丹に帰属していた。その時点では、モンゴル族がタタールに服属していたが、モンゴルから英雄ジンギス・ハーンが出現し、一二〇二年にタタール部族を討滅、タタールはモンゴル配下でユーラシアに展開することになる。ここからタタール即モンゴルというイメージが形成されていく。
このタタール族の「勇猛果敢で、残虐な戦士」というイメージが、ラテン語の「タルタル」(地獄)という響きと重なり、欧州ではポーランドやハンガリーにまで侵攻してきたモンゴルの脅威を「タタール」として記憶し、「タルタル・ステーキ」や「タルタル・ソース」という呼称にまで、都市伝説的に残影を留めている。また、元朝を滅ぼした後の中国では、元朝の子孫を「韃靼」と呼ぶことが定着、この認識を投影し、江戸期の日本で北東アジアを動き回った足跡を「韃靼漂流記」としたことも理解できる。
 二〇一七年九月、私はウランバートルを訪れ、モンゴル民族史を再考する機会を得た。 現在、モンゴル民族は二つの国に分かれて存在している。かつて外モンゴルと言われた「モンゴル国」は、中国とロシアに挟まれ、面積一五六万平方キロ(日本の四・二倍)で約三〇〇万人のモンゴル人が住む。また、中国領内のモンゴル自治区(内モンゴル)に四七五万人のモンゴル人が住む。このモンゴル人の先祖がユーラシア史を突き動かしたのである。西洋史と東洋史を繋ぐ視界を拓くために、この連載の収斂に向けて、三回に分けて「モンゴルからの世界認識の深化」を試みたい。

 

 

 

十字軍とモンゴル―――複雑な三つ巴構造の敵対

 

西欧とアジアの激突というと、十字軍が思い浮かぶ。十字軍関連の文献を読んでも、「ヨーロッパとイスラムの対立」「キリスト教とイスラムの衝突」という構図で十字軍が描かれているのが大半である。ところが、欧州が「十字軍」として聖地エルサレムを目指した頃とモンゴルが「征西」として欧州に迫った時期は微妙に重なっている。モンゴルと十字軍の関係に視界を広げることが、世界観の深化には不可欠である。
十字軍とモンゴルの関係については、アミン・マアルーフの「アラブが見た十字軍」(原書、1983年、牟田口義郎他訳、ちくま学芸文庫、2001年)に「モンゴルの鞭」として言及され、伊藤敏樹の「モンゴルVS西欧VSイスラム」(講談社、2007年)が、この三つ巴の構図を的確に捉えている。
十字軍は一〇九六年の第一次から約二〇〇年間、八次にわたって続くが、イスラムの反撃で苦境を迎えた一二世紀の半ば頃から、欧州に「プレスター・ジョン(司祭ヨハネ)の伝説」という噂話が広がる。東方からキリスト教を奉じる聖王が救世主のごとく十字軍の支援に現れるという噂で、イスラム圏の後方からネストリウス派キリスト教徒の王が軍勢を率いて救援に来るというものであった。
 願望から生じた噂にすぎないが、全く根も葉もないものでもなかった。東方伝来のキリスト教が景教として唐代の中国に伝わったのは六三五年で、そのことは本連載(その17)「キリスト教の伝来と禁制」でも触れた。長安に景教寺院(教会)たる大秦寺が建てられるなど一定の隆盛を見せたが、八四五年に武宋皇帝による道教の保護のための非合法化で、景教はウイグル、モンゴル高原方面に離散した。したがって「東方のキリスト教徒」は実在したともいえる。だが、実際に東方から現れたのは、残忍極まりない「タタール」であり、欧州の衝撃は深かった。
ジンギス・ハーンの征西と死去の後、一〇年を経て、モンゴル帝国は二手に分かれて「征西」を再開した。ジンギス・ハーンの孫バトウはロシアを制圧し。ポーランド、ハンガリーに攻め込み、欧州を震撼させた。「ロシア・東欧遠征」と呼ばれる大遠征で、一二三八年にはモスクワ、一二四〇年にはキエフを陥落させ、中央アジアから東欧に至る地域を制圧し、ロシアの諸侯を支配下に置くキプチャク・ハン国を残し、モンゴル帝国からも自立する形で一四世紀には全盛期を迎えた。モスクワ公国の台頭で次第に勢力を失うが、ロシア史においては一六世紀初頭まで「タタールの頸木」として埋め込まれた。現在の国際的係争地であるクリミア半島もその版図にあった。
 一二四一年、バトウ軍に攻め込まれたハンガリー王国のベーラ四世(在位1235~70年)は、ローマ教皇グレゴリウス九世に援軍を求めたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世との確執に苦闘する教皇は動かず、アドレア海の小島に身を潜めたベーラ四世は、翌年バトウ軍が引いた後に帰国、「モンゴル来襲」を教訓とするハンガリー国家体制の整備に努め「中興の祖」となる。
モンゴルの進撃の中で、一二四五年、ローマ教皇はカルピニを使節としてモンゴルに派遣する。タタール王にあてた書簡を携えたカルピニ一行は、ヴォルガ流域のバトウの本営を訪れた後、バトウの勧めによりカラ・コルムを訪れ、大カーン就任直後のグユクと面談、「モンゴルへの臣従を求める書簡」を返書として二年後の一二四七年にローマに帰還する。
 一方、一二三六~四一年にかけて将軍バイジェ率いる軍勢は、サマルカンドを首都としたホラズム王朝など西アジアのイスラム圏に侵攻した。モンゴルはイスラムにとっても脅威となったのだ。このホラムズ人勢力が追い立てられるように南下、シリアを経て、聖地エルサレムに至り、略奪・蛮行の限りを尽くした。
動揺の中で、キリスト教国のアルメニア王ヘトゥム二世のごとく、将軍バイジェに使者を送り、自ら保護国になることを申しでて、モンゴルの後ろ盾での勢力拡大を考える者もでてきたのである。
 一二四八年、フランス王ルイ九世(在位1226~70)は、第七次十字軍を率いて地中海を渡った。キプロス島で準備を整えた後、エルサレムではなくエジプトに向かった背景には、モンゴル軍によって故郷を追われたホラムズ勢力に「キリスト教徒の土地を奪え」とそそのかしエルサレムの殺戮を引き起こした元凶がエジプトのスルタンという理由があった。また、モンゴルの将軍バイジェの使者が訪れ、「対イスラム共同戦線」を持ちかけた。バイジェ軍団はバグダッドを攻撃するので、フランス王はエジプト攻略をという申し出であった。なんとも奇妙な「十字軍・モンゴル連携」の構図が見えた瞬間であった。
このルイ九世は極めて数奇な運命を辿った人物で、「正義の王」などといわれ、情熱に駆り立てられて十字軍を率いてエジプトに渡ったものの、一二五〇年には補給を断たれ降伏、捕虜となる。エジプト側の混乱もあり、なんとか身代金で解放された後、パレスチナに渡り、聖地巡礼を経て一二五四年秋に帰国。一二七〇年に再び第八次十字軍を率いて地中海を渡るが、チェニスで疫病にかかり死去、十字軍に憑りつかれた人生であった。
ルイ九世がパレスチナを彷徨っていた頃、一二五三年にモンケが第四代大カーンに就任すると、弟クビライに東方経略を委ね、同じくフレグには西方経略が振り分けられた。「大元ウルス」、「フレグ・ウルス」なるモンゴル帝国の新たな拡大局面への展開であった。

 

 

 

日本人の深層におけるモンゴル―――覚醒の転機となった元寇

 

  モンゴルは蒙古として日本に現れた。そして、蒙古襲来は日本人の深層トラウマとなり、「日本」という意識を高め、国家と社会の統合への契機になったといえる。日本史を振り返っても、異民族に侵攻されたことはほとんどなく、アジア・太平洋戦争における一九四五年の敗戦・占領がいかに重い体験だったかが分る。それ以前の体験としては、遠く鎌倉時代の「蒙古襲来」ということになる。日本人の潜在意識において、元寇とは何だったのか、新しい研究成果を吸収し、ユーラシア史の脈絡での元寇理解を試みたい。新井孝重「蒙古襲来(戦争の日本史7)」(吉川弘文館、2007年)、湯浅治久「蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡」(吉川弘文館、2012年)、服部英雄「蒙古襲来」(山川出版社、2014年)などが、元寇の再考に示唆的だった。
クビライの下で東征に動いたモンゴル軍は、一二三一年には朝鮮半島への侵攻を開始し、一二五九年に至り、ついに高麗王国は降伏する。朝鮮半島とモンゴルの関係は微妙であり、異民族支配への反発も強く、江華島に籠もり抵抗を続ける勢力もいたが、翌一二六〇年、フビライが大ハーンに就き、フビライは実娘を高麗王二五代の忠烈王に嫁がせ、その間に生まれた忠宣王(二六代)もモンゴル女性を妃としたため、その息子忠粛王(二七代)は「四分の三はモンゴル人の血」という王朝となり、一三九二年の将軍李成桂のクーデターで滅びるまで、高麗王朝は「モンゴル化」と言われる時代を続ける。元寇はそうした時代を背景に起こったのである。
 日本の書物に「蒙古」が初見されるのが一二六七年であり、高麗と蒙古の使節がクビライの国書をもって来日、再三の巨従と交易を求める書状への日本側の「返牒」がないことに怒ったクビライは日本侵攻を命じ、一二七四年の「文永の役」となって、モンゴル・高麗軍三万が対馬、博多湾へと来襲するのである。この文永の役のモンゴル側にとっての基本性格は、あくまでも中国の中原に覇をなすための、「南宋攻略作戦の一環」であった。フビライの目的は「火薬の材料となる硫黄の確保」という見方もあり、日宋貿易において日本から硫黄が南宋に輸出されていたことは、元にとって日本は利敵国でもあったのだ。
 文永の役で、博多湾を埋めたモンゴルの軍船が一夜にして消えたという「一〇月二七日」は太陽暦では一二月であり、台風の季節ではない。爆弾低気圧が発生したとしても「神風」伝説は誇張であろう。モンゴル側は「鉄砲(てつはう)」という火薬を包んだ球状の鉄による炸裂砲や日本の長弓の二倍の威力がある毒矢の弓などで衝撃を与え、占領の意思はなく、短期戦で引き上げたと考えるべきであろう。
 その七年後の一二八一年の「弘安の役」は、性格の全く異なる来襲であった。既に一二七六年に南宋攻略に成功し、東アジアをほぼ統一する「大元ウルス」体制を確立した後の来襲であった。モンゴル、女真、高麗からの連合軍たる「東路軍」四万と「江南軍」一〇万とされるが、江南軍の実体は、南宋攻略(1276年)後の疲弊した漢人の兵員を食わせるための農業開拓移民先としての日本への送り込みが狙いだったらしく、鋤や鍬を所持する武装農民のようなもので「兵団」といえるものではなかったといわれる。
 艦船四四〇〇艘が押し寄せたといわれ、文永の役の後、東国武士の動員、博多湾での石築地(防塁)の構築など、鎌倉幕府も防御態勢を強化していたものの、大兵力の攻勢にたじろぐ大宰府に向けて上陸、進撃するはずだったモンゴル軍に襲いかかったのは七月末の台風・大暴風雨であった。記録によれば、残った船は「二〇〇艘足らず」であり、全軍の五分の一しか大陸に帰還できなかったという。「神風」伝説が芽生えた由来でもあるが、鎌倉幕府の統治力が全国に浸透していなかった状況において、九州の御家人、地侍達が健闘したこともうかがえる。肥後の御家人、竹崎季長のように「蒙古襲来絵詞」を作り、恩賞を求めて鎌倉まで訴え出る者も現れた。
鎌倉幕府は一一八五年(文治元年)、鎮西統治のために「鎮西奉行」を大宰府に設けていたが、実際には権限は守護に分散、文永の役後の一二九六年になって「鎮西探題」を設置、北条一族が任に就いたが、一三三三年に大友、島津、少弐らの有力守護の攻撃で滅亡している。いずれにせよ、元寇は日本人が「世界」と接触し、「日本」を意識した瞬間であった。新井孝重は前掲書において、「帝国主義戦争撃退のパラドックス」と呼ぶが、偶発的自然現象たる暴風雨によってモンゴル帝国が仕掛けた帝国主義戦争を退けた幸運が、日本人の心に神風を信じる心性を生んだと論じる。それは、神の域としての国土概念―――外は「鬼」であり。幸若舞の「百合若大臣」でのムクリ(蒙古)やコクリ(高句麗)は妖術を使う鬼となっていくのである。全国の神社仏閣で「外敵退散」の祈祷・唱道がなされ、神国思想の温床となったともいえる。
 こうした意識の芽生えは、北畠親房の「神皇正統記」(1339年)などに投影される。親房は南北朝期の南朝に忠節を尽くした重臣で、後醍醐天皇の親政を補佐、足利尊氏による建武政権の崩壊を受けて、南朝勢力の拡植に努力したが、一三三八年の「境浦の戦い」での南軍敗北後、常陸の国に逃れ、この地で「神皇正統記」を執筆したもので、東北の武士に南朝の正当性を説く意図があったと思われるが、元寇によって高まった「紳国思想」を背景にしている。日本神話から神武より後村上天皇までを記し、後の江戸期の本居宣長による国学の成立の伏線になる作品と言える。
 また、日蓮(1222~1282年)の「立正安国論」(1260年)も、時代を投影するもので、「自界叛逆難(内乱)」「他国侵逼難(侵略)」の危機を見つめ、「法華経至上主義」を説く仏教者の登場も、日本仏教史において特筆すべきものである。「立正安国論」は日蓮三九歳の作品であり、預言が現実となった元寇を受けて書いたのが一二六八年の「安国論御勘由来」である。その中で日蓮は、元寇について、むしろ「隣国の聖人による謗法の国日本への法罰」と捉え、「安国」に腰をすえる俗に対して、「立正」に向かう聖への昇華を説くもので、決して単純な国家主義の表象ではない。
 仏教伝来以来の日本仏教史において、国家鎮護の大和仏教、唐の真言密教の中枢にアクセスした空海、民衆の仏教へのパラダイム転換を果たした法然、親鸞、そして主体的に日本を意識する仏教を提起した日蓮と、時代を投影する流れを感じざるをえない。キリスト者内村鑑三は、「代表的日本人」(1894年)において、日蓮を「仏教を日本の宗教にした」と語っている。つまり、蒙古襲来は日本人の精神性に、民族とか国家という意識を醸成したのである。
 ところで、元寇から七〇〇年を経た二〇世紀に入り、「蒙古」は唐突に蘇る、日露戦争を経て、朝鮮半島併合、満州国設立という大陸政策を進める日本の視界に「満蒙問題」という形でモンゴルが浮上したのである。清朝が辛亥革命によって滅び、中国の東北部(満州)と内モンゴルの支配を巡る問題が動き始め、勢力の拡大を図る日本の野心が複雑に絡み始める。そして、満州国の設立という形で踏み込んだ日本が、満州だけでは満足せず、「満蒙問題は日本の生命線」という松岡洋介のレトリックに象徴されるごとく、ジンギス・ハーンの第三〇代目の子孫という「徳王」を担いだ内蒙古の中国からの独立を画策する動きや、ノモンハンでのソ連との衝突にまでつながっていくのである。徳王は二度来日し、昭和天皇にも面会している。蒙古という言葉には、蒙古襲来以来の日本とモンゴルの細い糸の絡み合いが込められており、日本人の深層意識におけるトラウマが滲みでている。

 

 

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