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岩波書店「世界」2017年10月号 脳力のレッスン186 二〇一七年夏への思索―内外の退嬰の中で

 二〇一七年、不思議な夏が過ぎようとしている。この夏も、五月の米東海岸から八月の欧州まで、世界を動いて様々な目線で世界と向き合っている人達と語り合ってきた。また、故郷たる北海道から長崎、山陰など、国内各地を動き、日本の現実を直視する機会を得た。とくに、須坂での「信州岩波講座」に参加し、真摯に時代を考える人達の質問事項に、混迷する時代への深い苛立ちを感じた。知性と理性を語ることの空しさ覚える時代ではあるが、二〇一七年の夏を再考しておきたい。

 

 

 

内なる退嬰―――官邸主導政治なるものの限界

 

世界が「プラネット・トランプ」(英エコノミスト誌)といわれるほど、一人の米国人に揺さぶられる中で、日本では「森友・加計問題」という日本政治のレベルを投影する事案が露呈し、後ろ向きの話題に引き回された夏であった。どう考えても、矮小な話題なのだが、日本の政治の現状を炙り出す素材ではある。
「安倍晋三記念小学校」への国有地の格安な払い下げを巡る森友問題、「国家戦略特区」として今治での獣医学部新設の認可を巡る加計問題についての国会審議に登場した官僚達の表情を、私は複雑な思いでみつめた。文科省の事務次官だった前川喜平氏、経産省柳瀬唯夫審議官(元安倍首相秘書官)、和泉洋人内閣総理大臣補佐官(元国交省)―――実は若干の縁があって意見を交わす機会があった三人が、国会の閉会中審議の場に参考人として一堂に会して発言するのを目撃することになった。前川氏は覚悟を決めて自分の言葉で語っていたが、柳瀬、和泉の両氏は、不本意な状況に置かれたことへの当惑を込め、「記憶にない」「言っていない」と無機的な答弁を繰り返していた。私は、柳瀬氏が経産省の「原子力課長」として深い知識に立った踏み込んだ仕事をしていた時代を知っており、また和泉氏が「医療のパラダイム転換」などの研究会に主体的に参画する有能な行政官であることも認識している。学識、能力において際立つ行政官が「組織を守る」だけの答弁に終始する姿に、組織人の悲哀を感じた。
 私自身も組織人として生きていた時代もあり、組織の論理に合わせなければならない立場も分る。だが、彼らのような見識ある行政官に「言った、言わない」という次元の議論ではなく、政治家への「忖度」を超えて、官邸主導の意思決定の持つ問題点を聞いてみたかった。権力への個人的な距離の近さが、国からの支援という形で特定事業への恩恵をもたらすような「国家戦略特区」の現状で良いと考えているのかを語ってもらいたかった。
 安倍政権に近い人達と議論すると、現在の政治状況が、二〇〇九年の民主党への政権交代で、それまで長期政権を担ってきた自民党が権力を失った「悲哀」への反動として生じたことが分る。自民党は政権を失って「冷や飯」を食いながら、「政治は権力である」という思いを強め、「権力さえ持てば何でもできる」との思いで、二〇一二年に政権に復帰した。確かに、政治は「価値の権威的配分」であり、選挙を通じて権力を得た勢力が優位に配分を決めるのも現実である。しかし、民主政治とは「政治は権利である」という仕組みでもあり、国民の権利が後世に保障されねばならない。回復した権力を確実に行使する思いの政治家とその恩恵を期待して群がる人たちのゲームが動いたのである。
この問題の本質は、「政治主導、官邸主導政治の帰結」ということであり、「官邸レベルの政治」しかできないことの限界が突きつけられたのである。二〇一三年、安倍政権下で内閣法が改正され、官邸主導体制が深化された。「官僚主導から政治主導へ」「縦割り行政の壁を首相のリーダーシップで突き崩す」という政策は、「決められない政治」を克服するという文脈で理解されたといえる。これによって、首相官邸が各省庁の幹部人事を掌握、政治家たる官房副長官が内閣の人事局長として、省庁の人事権を掌握することで統合力を高めようとするものであった。
 人事権は組織社会では有効に機能する。各省庁は「官邸の意向」に一段と配慮せざるをえない構造が作り出された。実は、皮肉にもこのことが、官邸レベルの政治しかできない状況を作り出したのである。官邸と文科省の間だけではない、各省庁が官邸の政治判断に引き回され始めた。消費税増税を巡る官邸と財務省との齟齬、ロシアに傾斜する官邸主導外交を巡る官邸と外務省との齟齬、原子力などエネルギー政策を巡る官邸と経産省の齟齬など、幹部人事をちらつかせる官邸の意向を無視できない政治状況が生み出された。一般論からいえば、選挙で国民の信託を得た政治家が、高級官僚を主導して意思決定がなされることは妥当なことだが、日本の政治家が優れたリーダーとして練磨されているかといえば、「二世・三世議員の溜り場」という言葉があるごとく、家業として政治家をしている議員が多く、残念ながら政治家の知的レベルが低い。一方、学歴が知的レベルを示すものではないが、高級官僚は社会的に「一流大学」と呼ばれる大学の卒業者であり、政治家の側に知的コンプレックスを逆立ちさせた対応が存在することは否定できない。
 広く世界が抱える課題に目をむけ、「政策科学」に真摯に向き合い、科学的、客観的に政策判断をすることが必要だが、政治家はどうしても選挙を意識し、国民に受ける政策に惹かれる。「国家戦略特区」「一億総活躍」など、事大主義的キャッチコピーに飛びつき、実績を装いがちとなる。
 「知のレベル」は人生において形成する人的ネットワークに投影される。知を求める努力はそれにふさわしい友人を構築する。人脈を利用して、自分の事業を拡大することにしか関心のない輩にとっては、脇の甘い政治家が格好の存在となる。結局は、レベルの低いお友達と都合の良い御用学者だけが取り巻く政治に堕するのである。日本の意思決定に英知が凝縮されていない理由はここにある。
 ユダヤのジョークに「朝寝、昼酒、幼稚な会話、愚か者の集いに名を連ねること、これが身を滅ぼす」というのがあるが、世界の多くの政治家と向き合ってきたが、日本の政治家ほど不勉強で自堕落な存在は珍しい。そのことは、中川俊直、豊田真由子、今井絵理子議員など、このところ報じられる政治家の質をみれば語るまでもない。「政治で飯を食う」ことのハードルを高くすることが肝要であり、民主政治の目的は「政治の極小化」であることを自覚すべきである。二〇五〇年までに人口が二五%減少することを視界に入れれば、議員定数を三割削減することは「代議制の錬磨」のためにも不可欠な前提であろう。
 政治への過剰期待が政治主導の幻想を産み、官邸主導と称する歪んだ利益誘導を産む。トランプのアメリカが陥っている混迷も、「何かを変えてくれる」という閉塞感がもたらした幻想に由来するものであり、ポピュリズムを刺激して形成される政治への期待は必ず屈折するのである。

 

 

 

外なる退嬰―――トランプの迷走と空前の株高という怪

 

  トランプ政権がスタートして半年、この連載では、政権スタート時の二〇一七年二月号に「見えてきたトランプ政権の性格」として、人事の布陣から判断して「金融・軍事複合体」的性格をもつのではという見方を示した。そして、政権が三か月を超えた同五月号では「トランプ政権の本質」として、この政権がいかにウォールストリートの思惑に傾斜しているのか、つまり産業通商政策では「保護主義」を鮮明にする一方、金融政策についてはリーマン・ショックの教訓を忘れた「規制緩和」路線をとろうとしていることを論じた。
半年が過ぎ、迷走を深めるトランプ政権だが、政権の本質がより明確に示す「不思議な状況」を迎えている。トランプ政権の経済政策が成果を挙げているとは思えないのに、株価だけが異様に高騰しているという謎めいた状況にある。TPPからも離脱、NAFTA(北米自由貿易協定)も見直しとしてアメリカの繁栄基盤を突き崩し、公約の「一兆ドルのインフラ投資」も「一五%への法人税減税」も何一つ進捗が見られない状況でありながら、何故か株価だけが跳ね上がり、DOWは実に史上空前の二・二万ドル水準を突破し、昨秋の大統領選挙の時点よりも二割も高騰している。リーマン・ショック後の底値(一・〇六万ドル)からすれば、倍以上に上がっているわけで、異様である。
「ウォールストリートの懲りない人々」と言われるが、金融資本主義の総本山は、実体経済や政治のリスクとは別次元のしたたかなロジックで株価を動かし、「根拠なき熱狂」の相場を形成しているということである。トランプ政権の布陣をみると、経済閣僚の中核をウォールストリートの出身者が占めていることが際立つ。しかも、フィナンシャル・タイムズさえもが指摘するごとく(4月28日)「ハゲタカ投資家主導の政権」になっている。財務長官のスティーブン・ムニューチン、商務長官ウィルバー・ロスもマネーゲームを生業としてきた人物であり、トランプの娘婿として政権に深く入り込んでいるクシュナーもゴールドマン・サックスで働いていた。
オバマ政権が二〇〇八年のリーマン・ショックに懲りて二〇一〇年に成立させたドッド・フランク法といわれる「金融規制改革法」でさえ、トランプ政権は早々と廃止を決めるなど、金融規制緩和に動こうとしており、ウォールストリートはそれを「追い風」としてマネーゲームを高揚させているのである。この事態は、トランプ政権において極端な形で顕在化していることだが、本質的には現代資本主義が抱える病理であり、「民主主義は金融資本主義の肥大化を制御できるのか」というテーマでもある。このことは、本連載の昨年十一月号において、二〇一六年大統領選挙の深層テーマが強欲なウォールストリートを規制できるかにあるとして論じた。しかし、トランプ政権はしたたかな金融資本主義に取り込まれ、「民主政治は金融資本主義を制御できない」方向に進んでいるのである。
 八月上旬、米西海岸を訪れた。強く感じたのは、西海岸と東海岸の差、とくにシリコンバレーとホワイトハウスの緊張である。現在の堅調な米国経済を牽引しているのは「IoT」という表現があるごとく情報ネットワーク技術革命の成果を経済産業のあらゆる局面に導入し、米国経済の生産性と効率を高める上で貢献しているICT産業である。その拠点ともいうべきシリコンバレーを主導する経営者たちのトランプ政権への眼差しは冷たく、厳しい。失望を通り越して軽蔑にも近い目線を感じる。創造的経営者は政府の助成も支援も期待しない。「自助」の精神を貫いているのである。
もう一つ、半年が過ぎたトランプ政権に新たな展開が起こっている。それは「軍事シフト」というべき動きで、制服組の軍人がホワイトハウスでの重みを増しているということである。象徴的なのが、七月三一日に海兵隊出身の将軍ジョン・ケリーを首席補佐官に起用したことである。国防長官のJ・マティスも海兵隊の将軍であり、陸軍出身の国家安全保障担当の補佐官H・R・マクマスターとともに、政権の要石が制服組の軍人によって固められつつある。トランプの側近中の側近で、当初は「影の大統領」とまでいわれた首席戦略官S・バノンは八月一八日に辞任した。右派ネットメディア(ブライト・バート)を率い、移民排斥、保護貿易、白人至上主義などの主張に置いてトランプの本音と最も近く、トランプ現象を支えた男が去ったのである。
 トランプ政権は息子、娘婿などの「身内派」、バノン等の「アメリカ・ファースト」を信条とする「イデオロギー派」、そして前述のウォールストリート出身の「金融派」と「軍人派」によって成り立っていた。それが、ここにきて北朝鮮問題の緊張の高まりもあり、制服組の軍人が政権を主導し始めている。トランプの本質は「家族経営型中小企業の経営者」であり、人事においては「忠誠心」だけを気にする。コミーFBI長官の解任時に見せた、「自分への忠誠」へのこだわりがそれを示している。職業軍人は決してトランプを尊敬しているわけではなくとも、国家や組織に対して忠実であり、言葉に虚言が無い。政権運営が混迷する中で、信頼が制服組に向かう力学も理解できる。
 かつて、アイゼンハワー大統領が、「産軍複合体」という言葉を使い、アメリカの国家としての基本性格が、産業と軍事の連動関係で戦争に向かう構造に傾斜することの危険を語った。トランプ政権のスタート時、先述のごとく、私はこの政権の本質が「金融・軍事複合体」になるのではと論じたが、半年が経過、このことはより鮮明になった。ウォールストリートの利害と職業軍人の論理が一致したところで、この政権の進路が決まるということであり、それはトランプ現象の震源地であった「白人貧困層」を中核とする草の根の米国人の期待とは真逆の方向であることは間違いない。
 八月一七日付のウォールストリート・ジャーナルがUSコメンテーターのエドワード・ルースの「米国にとって、現実的に最も深刻な脅威は北朝鮮かトランプか」という論稿を載せ、「米国の民主主義はトランプの射程距離に脅かされている」と指摘しているが、民主主義のリーダーだった米国は、都合の悪いメディアを「フェイク」といって拒絶する指導者による「民主主義の脅威」に晒されているといえる。そして、熟考すれば、日本も民主主義の価値を信じることのできない指導者が、国家による統合や規制こそ重要とする流れを作っているという意味では共通している。日米双方の指導者が、政治を「国民の権利」よりも「国家の権力」に比重を置いて牽引する志向を強めているのである。

 

 

我々が取り戻すべき「正気」

 

   五月のゴールデン・ウィーク期間だけでも、五〇人を超す日本の国会議員がワシントンを訪れた。それらの人たちと面談したワシントンにおける東アジアの専門家達の日本の政治家への印象が興味深かった。約言すれば、「日本人は小さいね」というのである。もちろん体の大小ではなく、世界観が矮小だというのである。
トランプ政権になって、アーミテージ・グループを始め大方の「ジャパノロジスト」「ジャパンハンドラー」、つまり日本問題で飯を食ってきた人たちは、舞台を降りた。ほとんどがヒラリー・クリントンを支持していたからである。日本人は知日派を親日派と誤解し、「日米安保は大切」と言って日本マネーを取り込む日本問題の専門家を頼りに日米関係を構築してきた。そうした連中が消え、「ジャパン・パッシングからジャパン・ナッシング」になったという自虐的認識も語られるが、ここは東アジア戦略全体の中での日本の存在が問われる局面と考えるべきである。東アジア広域の地域専門家は、当然のことながら中国と日本との対比の中で米国の戦略を構想する。そうした視界から見て、日本人の思考の枠が「小さい」というのである。
多くの日本の政治家は、北朝鮮の脅威と中国の危険性を語り、その脅威に「日米で連携して戦う」というレベルの話に終始するという。そこにはいかなる東アジア秩序を創造するのか、もしくはいかなるグローバル・ガバナンスを構想するのかという視界がないというのである。これに対し、中国はどこまで成功するかは別にして、AIIB(アジア・インフラ投資銀行)構想にせよ、「一帯一路」構想にせよ、次に目指す構想を打ち出し、グローバル・ガバナンスにおいて米国に代わるリーダーとしての構想を模索しているという。
中国はそうした構想を実体化させる「攻め筋」として強く欧州を意識している。トランプの米国と向き合うため、中国と欧州の関係がパラダイムを変え始めている。六月のEU・中国首脳会議(ブリュッセル)では、例えば北朝鮮問題への対応として「対話による解決」を合意してみせ、これが中国を通じた北朝鮮への圧力強化を要求する米国への牽制材料になっている。もちろん、中国がすべてうまくやっているとも思わない。拡大主義的傾向、民主化から遠ざかる習近平体制など、中国への警戒心も高まっており、とても「世界のリーダー」になれるとは思えない。だが、少なくとも中国は「グローバル・ガバナンス」を意図しているのである。
 静かに、日本の姿を鏡に映してみよう。大きな構想を模索しようにも近隣に友人がいない。アジアにおいて日本の指導者は敬愛、尊敬されていない。本来なら、成熟した民主国家として、「国民を大切にする政治」の見本を示さねばならない。米国の変容に対しても、無原則に寄りかかるのではなく、「アメリカ周辺国」から脱し、アジアにおいて米国が果たすべき役割を提起すべきであろう。残念ながら、この数年、日本が見せてきた姿は「政治は権力である」という「力の論理」に固執し、戦前のレジームへの回帰を目指す危うさを見せている。気が付けば、現在の日本は「近隣外交の失敗」というジレンマに陥っている。中国、韓国との関係が冷却したままであり、力を入れた「ロシアへの接近」も、北方領土での日ロ共同開発が同床異夢の幻想と化しつつある。六月、プーチンはサンクトペテルブルクで「日米安保がある限り、領土返還は難しい」と発言、近隣外交がことごとく空転しているのである。
 この論稿では、内外の政治の退嬰を論じてきたごとく、政治に過大な期待を寄せられる状況ではない。だが、最も大切なのは自らの国を正気の国」、筋道の通った国にすることである。原点に立ち返って、日本という国の国益を、地政学的立地、経済・産業構造を熟慮して考えてみよう。この国の最大の国益は「平和と安定」である。様々な対立の要素を極小化する知恵、宗教間の対話を促し、民族間の交流を深め、武力による問題解決を避ける叡智、それこそが日本が近代史の苦闘を経て確認した教訓である。
 福沢諭吉の「脱亜論」と樽井藤吉の「大東合邦論」という近代日本のアジア観を代表する対照的な二つの論稿が発表されたのは一八八五年(明治一八年)であった。その後の日本は列強模倣の「富国強兵」路線を歩み、日清・日露戦争で自信を深め、日本自身が植民地帝国と化し、「脱亜」を「侵亜」に転換して欧米列強と衝突する。欧米との関係が緊張すると「アジア還り」するのが日本のアジア政策であるが、「大東亜共栄圏」構想の挫折を踏まえ、戦後の日本は再び「脱亜」へと傾斜、高坂正尭の「海洋国家日本の構想」は一九六四年に発表されたが、これこそ戦後版の「脱亜論」といえる。
 今、アジアとの貿易が日本の貿易総額の五二%を占める時代(2016年)を迎え、アジアでの日本の存在感には「正当性」が求められる。近隣の国が括目するような、歴史の教訓と戦後七二年の蓄積を踏まえた、二一世紀の世界を牽引する構想力が問われている。それは「政治的現実主義」を理由に、米国の「核の傘」にしがみつき、国連の核禁止条約採択にさえ反対(七月)する国を脱することである。

 

 

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