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岩波書店「世界」2017年8月号 脳力のレッスン184 シルバー・デモクラシー再考―国民を信じるという視座

 日本は間違いなく異次元の高齢化社会に入った。本年五月の時点の推計で、日本の八〇歳以上の人口は一千万人を超し、一〇六四万人になったという。百歳以上の人も七万人を超え、正に異次元というべき高齢化局面を迎えた。六五歳以上では三四〇〇万人を超え、総人口の二七・六%となった。
 二〇五〇年状況を視界に入れるならば、六五歳以上の人口は三八〇〇万人、総人口比三八%、八〇歳以上では一六〇〇万人、一〇〇歳以上も五三万人と予想される(中位予想)のである。人口の四割近くが高齢者ということは、有権者人口を分母にとれば五割、「若者の投票率は高齢者の半分程度」という傾向が延長されれば、有効投票の六割が高齢者によって占められ、「老人の、老人による、老人のための政治」が加速されるであろう。「シルバー・デモクラシーのパラドックス」である。
 二〇〇八年に一・二八一億人でピークアウトした日本の人口は、本年五月の推計値で一・二六七億人と既に一四〇万人も減少した。さいたま市(129万人)、仙台市(109万人)級の百万都市、もしくは北陸の金沢、福井、富山の三市の合計人口一一五万人よりも多くの人口が既に減ったことになる。日本の人口が一億人を超したのは一九六六年であったが、四二年間で二八〇〇万人増えた人口が、二〇〇八年を境に減少を始め、二〇五〇年前後に一億人を割ると予想される。急速な人口減と人口構造の異次元の高齢化、社会科学は人口論に始まり人口論に終るといわれるが、人口構造についての基本認識が、日本の将来を論ずる基盤である。

 

 

 

岩波新書「シルバー・デモクラシー」への反響

 

 本年一月に岩波新書から「シルバー・デモクラシー」を上梓して五ヶ月が過ぎた。幸いに四刷にまできて、少しずつ戦後民主主義を再考する上での叩き台として読まれているようで、様々な意見をもらった。深く再考させられたことを整理しておきたい。
 第一は、異次元高齢化は決して老人の問題ではなく、若者こそ真剣に受け止めるべき課題だということである。この数カ月、高校生と向き合う機会が多かった。群馬県高崎高校、千葉県市川学園、東京都八王子東高校で、「今、我々が生きる時代」を語った。驚いたのは高校生の真剣さであった。高崎高校の学校新聞の記者からの質問は、なんと「AI(人工知能)の時代に人間はどう生きるのか」であり、「国の借金が増え続けて、財政が破綻したら国家はどうなるか」であった。確かに彼らが生きていく時代が抱える課題は重く、大人社会の危うさに彼らは気付いている。未来が「希望」であるよりも「苦闘」である時代の空気を若者は感じ取っているのだ。
 異次元の高齢化社会は、若者に対し待ち受ける「長い人生」に耐えうる準備、つまり腰の入った人生設計を求める。これまでは、学校に入り、就職してその会社を勤めあげて定年退職を迎えれば、後は「第二の人生」であった。だが、これからは定年後も四〇年生きることを想定して人生を構想しなければならないということで、「九〇年生きることを前提とした知的武装」が必要だということで、だからこそ高齢化は若者の課題でもあるのだ。学校に入るための学びではなく、自分の長い将来を豊かにする「知の武装」、そして「人生を通じた再武装」が求められるのだ。
 第二は、微妙な高齢者世代間の差、つまり七〇歳前後の団塊の世代と八〇歳前後の高齢者の認識の差である。私自身は「団塊の世代」として戦後生まれ日本人の先頭世代であるが、戦争の体験を記憶の中に残す八〇歳前後の世代の人達との時代認識の差が大きいことを改めて知った。八〇歳前後の世代は「軍国少年のたまご」としての幼少期を体験し、戦後の混乱期を生きた人たちであり、我々団塊の世代は「戦争を知らない子供たち」である。思い知らされたのがなかにし礼氏との対談であった。なかにし礼氏の原体験は「国家に裏切られた体験」であり、敗戦後の満州で日本国に見捨てられ、帰国せず現地で生きて欲しいと本国にいわれ、国策なるものの虚構を噛み締めた人達である。国家主義への懐疑、それこそがこの世代の人達の静かな重奏低音である。それに対して、戦後だけを生きた七〇歳前後の我々の世代は、国家とか国権による統合に対する緊張感が希薄である。国家による強制も抑圧も体験したこともない幸福な時代を生きたからである。
第三は「生産年齢人口」という概念の虚構性である。「一五歳から六四歳を生産年齢人口とする」という考え方は明らかに時代の現実とずれている。まず、現実に一五歳から二二歳の人の過半は「学生」という時代で、労働に従事していない。この傾向は「学習期間の長期化」によってさらに伸びている。また、「六五歳以上は生産活動に参加しない」という括りも、九〇歳を生きる時代状況からみて非現実的である。
静岡県は七五歳以上を高齢者とする考え方に政策軸を変えようとしているし、埼玉県は七五歳にまで生産年齢人口を引き上げる形で、「生産年齢人口の減少」という思いこみを変えようとしている。「統計の魔術」に陥って一律に決めつけるのでなく、柔らかく現実を見つめ、国民のポテンシャルを生かすことが大切で、そこから高齢者、女性、学生などの社会参画の構想が生まれてくるのだと思う。「高齢化=衰亡化」と考えるのは早計である。
 そこで第四のポイントであるが、私が提起した「都市郊外型高齢化問題の深刻さ」について、正にそこに住む人達から多くの反応を得た。戦後日本が成長期に作った状況、つまり産業と人口を大都市に集中させ、外貨を稼ぐ産業(鉄鋼、エレクトロニクス、自動車)を育て、食料は効率的に海外から買うという国を創りあげたことによって、東京を取り巻く国道一六号線沿いに団地、マンション、ニュータウンを林立させた。正に、サラリーマンのベッドタウンといわれた国道一六号線付近の住民が急速に高齢化しているのである。しかも、世帯構造が単身化しており、団地・マンションというコンクリート・ブロック空間に大量の独居老人を押し込めて異次元の高齢化社会に突入しようとしているのである。
 八〇歳でも七割は健常者だといわれる。だが、社会との接点を失わせたら、精神的に健康とはいえない人が大量発生するであろう。人間とは社会的動物だからである。行政へのクレーマーと化した人の傾向をみると、多くは「七〇歳以上の男の高学歴者」である。社会工学的知恵で、高齢者の参画のプラットフォームを創ることが問われるのである。
 横浜の団地の高齢者たちが力を合わせて長野でリンゴ作りをする活動(浜っ子農園)について「シルバー・デモクラシー」で触れたが、「移動と交流」で国道一六号線沿いを活性化しようとする試みが少しずつ動き始めている。私が関わる多摩大学では、地域社会の人と学生を対象にした「現代世界解析講座」というリレー講座を年間二四回、九年半で二二八回積み上げてきたが、参加者は延べ一二万人となった。今年度から参加者に呼びかけ、農業体験を始め、五月末に三二人の参加者が山梨で田植え体験を試みた。地域の大学、行政(多摩市)、企業(多摩信金)などが力を合わせて、高齢者が参画できるプラットフォームを創造する努力が大切だと思う。もちろん、農業体験だけではない。地域の子育てであれ、教育であれ、社会的に意味のある活動に参画し、貢献する様々な活動が実行されていいし、事実「なるほど」と思われる多様な活動の報告を受けるようになった。

 

 

 

英国の総選挙にみる世代間GAP

 

   シルバー・デモクラシーを考えさせられる素材が世界でも動いた。英国の総選挙である。二〇一六年の世界における想定外の出来事として、英国のBREXITと米国のトランプ当選が語られるが、この二つの選択において、英国の若者は「EUに残るべき」という選択をし、サンダース現象でヒラリーを追い詰めた若者も、究極の二択「トランプ対ヒラリー」となった時は総じてヒラリーを選んだ。にもかかわらず、高齢者層の選択に引っ張られる結果となり、そのことは新書本でも「シルバー・デモクラシーのパラドックス」として触れた。政策判断における世代間GAPは世界的事象といえる。
 EU離脱を決めた国民投票から一年、英国を率いるメイ首相は総選挙に打って出た。結果は「メイの誤算」といわれるごとく、与党保守党の敗北であり、三三〇議席あった保守党は三一八に後退、三二六という過半数を割りこんだ。決定づけたのは若者であった。一八歳から二五歳の若者の投票率が、昨年の国民投票時の四三%から六六%に上昇し、その六二%は労働党を支持したという。労働党は「大学授業料も無料化」「医療保険サービスの充実」などを公約に掲げ、若者を引き付けた。「財源はあるのか」と問われると、「タックスヘイブンまで使って税金逃れをする大企業と大金持ちから取ればいい」と主張、昨年のパナマ文書の開示によってキャメロン前首相の一族の名前が浮上、一気にキャメロン政権の正当性が失われた事態を思い起こさせ、現実の政策論としては無責任な主張であるにもかかわらず、拍手を受けることになった。
 メイ首相は、世代間の分配の公正化にも強い問題意識があり、高齢者に介護の自己負担を重くする政策を提示した。これが老人の離反を招いた。二重の痛手となり、大敗を招いたのである。
 世代間の分配の公正化については考えさせられる資料がある。二〇一四年のOECD資料によれば、「年金所得代替率」(年金受給水準の現役世代所得に対する比率)は、オランダの九〇・五%、スペインの八二・一%などを先頭に欧州諸国が極端に高いことが分る。日本は三五・一%とOECD加盟国の中では低いが、高福祉は高齢者にとっては望ましくとも、後代世代にとっては荷重となることを考えるならば妥当とも思える。ちなみに高福祉国家のように見られがちの英国だが、実は年金所得代替率は日本よりも低く、二一・六%である。
 日本の場合、年金受給水準は低いようにみえるが、金融資産、有価証券の七割は高齢者が保有しており、年金に加え金融資産運用からの利益は、ほとんど高齢者によって享受されている。それが高齢者ほどアベノミクスを支持する傾向と結びついている、新書本で分析したごとく、マイナス金利にまで陥った金融政策の中で、定期預金の利息などあてにできず、株が上がることへの期待だけが肥大化する。本年六月現在、日銀のETF買い(約一七兆円)だろうが、年金基金(GPIF)の日本株購入(約三六兆円)だろうが、官製相場であっても株が上がる政策に老人の拍手が起こるのである。これこそがアベノミクスを支えるシルバー・デモクラシーのパラドックスである。

 

 

二〇一七年日本政治の退嬰―――安倍政権の本質的な問題

 

  二〇一七年夏の日本の政治は、内政・外交ともに驚くべき退嬰と閉塞感に埋没している。約言すれば、森友・加計問題で政治が歪んだメカニズムで意思決定されていることが明らかになっても、日本の民主主義が「共謀罪法」によって窒息させられる可能性があっても、「株価さえ上がれば結構だ」という判断で、高齢者のアベノミクス支持は動かないのである。その株価は、先述のごとく、日銀が株式市場から直接株を買い、国民が積み上げてきた年金基金を運用するGPIFが、「株価変動のリスクをとった運用」へとルールを変更してまで基金の四分の一を国内株式で運用するという「健全な資本主義」とはいえぬ異様な構造で成り立っているのだ。
 つまり、公的資金を投入して株式市場を支えているわけで、この約五三兆円の公的資金が市場から去れば、現在二万円前後を動いている日経平均は間違いなく一・二万円を割り込むまであろう。官製相場に支えられた歪んだ資本主義にしてしまったのである。この自堕落な構造に強い疑問を抱くべきは戦後日本を生き、日本の産業社会を支えてきたはずの高齢者でなければならない。マネーゲームに幻惑された経済社会ではなく、公正で健全な経済社会にこだわらねばならないはずだ。
 もう一つ、戦後民主主義なる時代を生きた世代が、自らの思想の基盤として踏み固めるべきは「民主主義」への覚悟である。簡単に国権主義、国家主義に共鳴するのではなく、民主主義の光と影を咀嚼したうえで、「国民の意思」を大切にすることの意味を強く認識することである。現在の日本は、近隣との緊張を背景に、軍隊(自衛隊)と警察権力を強化する方向に回帰し始めている。「安保法制」から「共謀罪法」に至る流れは、国家権力による統合を志向しており、根底には「国民の自由な意思表示、行動を信じない」という思考が横たわっている。政治は権力であり、権力による統合が社会を安定させると考えているのである。
 この「脳力のレッスン」において、連載内連載という形で「一七世紀オランダからの視界」を既に四五回にわたり積み上げているのも、「近代」を問い詰めているからであり、近代の要素たる「資本主義」と「民主主義」と「科学技術革命」は相関していることを確認する作業でもあるが、この基本的なことが理解できていないのが日本だと思う。とくに、民主主義をマッカーサーによって与えられた民主主義だと思い、国家主義的日本に戻すことを祈念している人達が多く存在するのが現実なのである。
 「民主主義」というものを改めて再考させられる機会があったので触れておきたい。六月上旬、「香港返還二〇周年」の年を迎えた香港のホテルで、香港島の満艦飾のような夜景をみながら、一九七五年に最初にロンドンを訪れて以来、四〇年以上も観察を続けてきた英国についての論稿(「ユニオンジャックの矢―――大英帝国のネットワーク戦略」(NHK出版、本年七月末発行)の最終章を書いていた。そして、第二次大戦期の英国を率いたチャーチルの「回顧録」や関連の書物に、目を通していた。そして、英国における民主主義と日本における民主主義への認識の違いを考えていた。
 W・チャーチルが首相に就任したのは一九四〇年五月一〇日であった。ヒトラーが西部戦線の攻撃開始を指示したのが五月一日、チェンバレンの後を受け、保守党、労働党、自由党の挙国一致内閣であった。英国が直面している状況は悲惨であった。五月一五日にオランダが降伏、五月二八日にはベルギーも降伏、五月二八日からの八日間がダンケルクの大撤退であった。大陸に展開していた二二・八万人の英国軍と一一・二万人の仏・ベルギー軍がナチス・ドイツに追い詰められ、兵器弾薬さえ捨てて、八五〇隻の漁船、内航船、石炭船、ヨットをかき集め、命からがら英国に逃れたのである。六月一四日にはパリが陥落し、フランスは降伏する。七月一〇日には英国への爆撃が始まり、「あしか作戦」といわれるナチの英国上陸作戦も切迫していた。こうした苦渋の中でチャーチルは「我々は決して降伏しない」と英国民を鼓舞し続けた。
 この頃のチャーチルの心を支えたものは何だったのか。ジョン・キーガンの「チャーチル――不屈の指導者の肖像」(岩波書店、2015年、原書2002年)によれば、彼は「父の教え」としての「国民を信じること」だったと語っている。「国民を信じること」、実はこれこそがデモクラシーの原点である。ナチの専制を跳ね返す力の源泉を「国民を信じる」という民主主義に求めたのである。歴史家でもあるチャーチルが「民主主義」を思う時、英国が一七世紀の「ピューリタン革命」と「名誉革命」という血塗られた葛藤の中から、立憲君主制という形で民主主義を根付かせた記憶が蘇ったことは想像に難くない。そうした思いがルーズベルトを引き寄せ、アメリカの支援・参戦をテコに反転攻勢に向かう基点となったのである。
 アメリカには一九三五年に制定された「中立法」があり、「欧州の紛争に巻き込まれたくない」という国民世論も強く、当初、第二次大戦には参戦しなかった。しかし、チャーチルの要請もあり、ルーズベルトは次第に方向を転換し、「米国が民主主義国の兵器廠になる」との意思で、一九四一年三月に「武器貸与法」を成立させた。それでも、直接的な参戦には慎重であり、武器援助、後方支援に徹していた。
 その米国が欧州戦線に参戦する転機となったのは、皮肉にも日本の真珠湾攻撃であった。米国の政治家で共和党の重鎮だったハミルトン・フィッシュが「ルーズベルトの開戦責任」(2014年、草思社、原書1976年)で「FDRは議会を欺いて、日本を利用して対ドイツ戦争を始めた」と述べるごとく、「欧州参戦の流れをつくるために、日本の先制攻撃を誘発したルーズベルトの陰謀説」が根強く存在する理由でもある。一九四一年一二月七日(現地)の真珠湾攻撃を受けて一二月八日に米英は対日宣戦布告、一二月一〇日にはマレー沖海戦で、英戦艦プリンス・オブ・ウェールズが撃沈され、グアム島は占領される。そして、一二月十一日、ついに米国はドイツ・イタリアに宣戦布告、欧州戦線に直接参戦した。チャーチルの英国を救ったのは、米国を挑発した日本であった。
この辺り、日本人の認識と微妙なズレが生じる。日本人は「アジアの植民地解放のための戦争」と思いたがるが、欧米の識者の目線からは「ナチと手を組んだ専制軍事国家の挑戦」なのである。一九四〇年九月、日本は日独伊三国軍事同盟という形でナチス・ドイツと同盟関係を結ぶ。日本人の意識には存在しないことだが、「ユダヤ人六〇〇万人を虐殺したナチスと結託した反民主主義陣営に与した国」という汚名を引きずる同盟であった。
 日本人の意識には「ドイツとの枢軸国同盟に参加した」という認識は埋め込まれているが、「ファシスト・ナチ陣営」「反民主的全体主義陣営」に加担したという認識は希薄である。日独伊軍事同盟も、政治的現実主義(プラグマティズム)に立てば、快進撃するドイツを横目に、「勝に乗ること」に目を奪われたわけで、「仕方がなかった」ことになる。
 結局、民主主義とは国民を信じることだと思う。現在の日本政治を見ていると、政治で飯を食う人達の民主主義への本音が透けてみえる。つまり、国民を信じていないのである。移ろいやすく、放っておくと何をするかわからない。ポピュリズムへの傾斜も「大衆迎合」と理解されがちだが、実は権力側からは都合の良い「大衆操作、扇動」への誘惑である。
今、戦後民主主義が本物か否か、どこまで根付いたのかの試金石となるのが、戦後なる時代を生きた高齢者である。この層が、経験と蓄積を基盤に、若者に何を諭し、選択すべき座標を示しうるのか、ここが正念場なのである。
 日本の政治は、激変する世界情勢の中で、再び「プラグマティズム」(政治的現実主義)の名の下に、現実的計算での行動選択に向かっている。米外交専門誌「フォーリン・アフェアズ・レポート」(2017、NO5)はトム・リ論文「日本のプラグマティズム外交の代償」を掲載し、「安倍外交が、政治リスクの高いプーチンやトランプのような反リベラルを掲げる権威主義的指導者に接近することを、他に選択肢のないプラグマティズムと信じているようだが、いずれ歴史の間違った側に立つことになる」と警鐘を鳴らす。確かに内外政ともに、アジアの成熟した民主国家としての立ち位置を見失っているといえよう。
「力の論理」に誘惑される前に、「国民を信じること」、これが民主主義の原点である。

 

 

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