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岩波書店「世界」2017年3月号 脳力のレッスン179 オスマン帝国の後門の狼サファヴィー朝ペルシャ 一七世紀オランダからの視界(その42)

  テロ集団「イスラム国」(IS)の処刑人として、ジャーナリストの後藤健二さんら七人の斬首を行ったとされる通称「ジハーディ・ジョン」の人生を描いたR・バーカイクの著作(邦訳「ジハーディ・ジョンの生涯」、文藝春秋社、二〇一六年)を読むと、中東における国境概念を再考させられる。クウェート系難民の子として英国で育ち、シリアでISに加担し、二七歳で空爆に散る彼は、自分をクウェート人とは考えなかった。
 本名モハメッド・エンワジ、クウェート地域の誇り高い部族長の祖父は一九六一年に英国から独立したクウェートの国籍の受け入れを拒否、一族は「無国籍者」の運命に翻弄される。フセインのクウェート侵攻と湾岸戦争を機に、六歳の時一家は英国で移住するも、亡命申請の認可に三年を要す。物静かな工科大学生だった彼も、抑圧と差別の中で過激なイスラム思想に惹かれ、MI5(保安局)の監視に追い詰められ、結婚や就業の機会を奪われてISに引き寄せられ、黒装束の処刑人と化す。
 この男に他の人生はなかったのか。第一次大戦期の一九一六年、英国はオスマン帝国解体後の中東の分断統治を狙う「サイクス・ピコ協定」を画策する。中東は「大国の横暴」によって翻弄され続ける。希望を断たれた男の狂気には言葉を失うが、中東を生きる人間にとって、現在の地図に引かれた国境線など意味のないものなのである。我々は歴史の地図に立ち返って、固定化された認識から解放される必要がある。

 

 

サファヴィー朝ペルシャ―――シーア派の中核イランの淵源

 

 

オスマン帝国という「壁」が、「壁を迂回してアジアに向かう大航海時代」を触発した事情は既に触れた。一六~一七世紀、ウィーンを二度も包囲したオスマン帝国は欧州を震撼させたが、帝国を背後から脅かす存在があった。東方の大敵、サファヴィー朝ペルシャ(一五〇一~一七三六年)であり、正に後門の狼であった。一五世紀末にアゼルバイジャンに興ったイスラム系神秘主義のサフィー家を指導者とする教団が、トルコ系遊牧民族を取り込み南下、一五〇一年にタブリーズに入城した。
オスマン帝国は、一三世紀末にトルコ族のオスマン一世が建国した。一四五三年にはビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルを陥落させ、バルカン半島から欧州に勢力を拡大したが、東からサファヴィー朝ペルシャの脅威が迫っていた。一五一四年、オスマン帝国のセリム一世は脅威を断つべく、サファヴィー朝を率いるイスマイール一世との決戦に臨む。このアナトリア東部のチャルディラーンの戦いに勝利したオスマン軍はタブリーズまで進軍するが、息の根を止められなかった。
傾きかけたサファヴィー朝を再興し、最盛期を実現したのがアッバース大王(在位一五八七~一六二九年)である。政争の混乱の中、一七歳で第五代の王となった彼はトルコ系遊牧民とペルシャ系住民を束ね、古代ペルシャの版図の再統一を実現した。対立勢力の大量処刑と長男さえ殺戮する残酷さの一方、オスマン帝国との衝突を通じて欧州との外交・交易の必要を学ぶ冷静さを持っていた。一五九七年には首都をイスファハーンへ移転、人口六〇万人の国際都市に成長させた。
 この街には、英国人や中国人使節も来訪し、今日も残るキリスト教大聖堂を建設、英蘭両国の東インド会社の商館やコーヒーハウス、巨大バザール、公衆浴場などが立ち並び、栄華を極めた。一六〇二年作のシェイクスピアの喜劇『十二夜』には「気前のいいペルシャ王」というセリフが登場する。一六二二年、王は英国東インド会社と同盟し、軍艦の供与を受けてポルトガルが占拠するホルムズ島を占領、一六二四年には百年以上オスマン帝国に支配されていたバグダッドを奪還した。
今日、「シーア派イスラムの総本山」の役割を果たすイランだが、シーア派化したのがサファヴィー朝である。シーア派(一二イマーム派)を国教とする旨宣言したのはイスマイール一世で、王朝創建時からになる。シーア派とは宗祖ムハンマドの血脈(血の正統性)を重視し、ムハンマドの従兄弟で娘婿だった第四代正統カリフ・アリーを支持する宗教的党派だ。「シーア派はイラン化したイスラム」という言葉の基底を創ったのがサファヴィー朝であり、アフガン人の侵入で衰亡、一七三六年にアフシャール族の部族長ナーディル・ハーンにより滅亡する。日本では享保二一年、八代将軍吉宗の時代だった。
 一六~一七世紀、中東の双璧だったオスマン・トルコとサファヴィー朝ペルシャの攻防の焦点がバグダッドである。今日のイラクのバグダッドとはその歴史を背負った所なのだ。古代オリエント最古のシュメール文明の栄光を担い、バビロン王朝の地でもあった。フセインのクウェート侵攻時に、トルコの首相が「もしクウェートがイラクのものなら、イラクはトルコのものだ」と発言したが、中東とはそうした地政学を内包した地域なのである。そして、二一世紀の今、中東で進行する事態の深層底流には、大国の横暴に揺さぶられてきた二〇世紀の中東史とは異なり、埋め込まれていた地域パワーとしてのイランとトルコの台頭という要素が顕在化しており、「先祖帰り」、つまり歴史の下絵が炙り出されている状況ともいえる。

 

 

イランとは何か―――民族ではなく地理的概念

 

 

 改めてイランとは何か。古代史において二つのペルシャ王朝が存在した。紀元前に存在したアケメネス朝(BC五五〇~三三〇)は、ペルセポリスを中心にオリエント全域を支配した帝国で、マケドニアのアレキサンダー大王により崩壊させられたが、トム・ホランドの“Persian Fire“(Little,Brown’二〇〇五年)が、「西に挑んだ最初の世界帝国」と描いているごとく、遊牧騎馬民だったペルシャ人のキュロス大王(在位BC五五〇~五二九年)を始祖として、イラン高原の支配権を確立、BC五三九年には新バビロニア王国までも征服した。ダレイオス一世の時代には、BC四九二年~四九〇年にかけて、二度もギリシャ本土への侵攻を試みるが失敗、息子のクセルクセス一世はBC四八〇年に二百万の陸海軍を率いて再びギリシャへ侵攻、アテネを陥落させたが、海戦で打撃を受けて撤退した。ペルシャの脅威が「西」(欧州)に向けられた瞬間であり、アレキサンダー大王の大遠征の伏線となった。
アケメネス朝滅亡から五五〇年後に登場したのがササン朝ペルシャ(AD二二六~六五一年)で、アケメネス朝の再興を目指す、ゾロアスター教を国教とする神政帝国であった。AD二三〇年には、創始者アルダシール一世(在位二二六年~二四一年)はメソポタミア全域を支配し、息子のシャープール一世の時代にローマ帝国と闘い、二六〇年のエデッサの戦いではローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜にするほど戦果を挙げた。
栄華を誇ったササン朝ペルシャも、七世紀には衰亡の兆しを強め、六四二年には台頭するアラブ・イスラム軍に敗れ(ニハーヴァンドの戦い)、最後の王ヤズデギルド三世は暗殺されて、六五一年に終焉を迎えた。教祖ムハンマドの死が六三二年であり、いかにイスラム勢力が急拡大したかが分る。
二つの古代ペルシャ王朝が滅びて、先述のサファヴィー朝登場までの八五〇年間、ペルシャといわれた地域は、七世紀に興ったイスラム勢力に席巻されて以後、西アジアの地政学に翻弄され続ける。一一世紀央から一五〇年間セルジューク朝トルコ(一〇三八~一一九四年)の支配を受ける。このトルコ系王朝の最盛期は三代目スルタンのマリクシャー(在位一〇七二~九二年)の時代で、アナトリア、シリアから紅海沿岸、中央アジアに至る大帝国を形成した。一一世紀末から西欧社会が送り込んだ「十字軍」と対峙したのがこのセルジューク朝だ。一〇九九年の第一回十字軍によるエルサレム陥落など、キリスト教軍が一定の「戦果」も、内部の対立や内紛でイスラム側が結束していなかったという事情によると気付く。
一三世紀には、北からモンゴルの圧力が高まる。ジンギス・カンは一二二〇年から二四年にかけて、中央アジアからペルシャ、西北インドへと遠征、略奪・殺戮を繰り返す。一二五三年からは、ジンギス・ハンの孫フレグ・ハンがモンゴル帝国の大軍を率いて南下、
西アジアに侵攻してイルハン国(一二六〇~一三五三年)を設け、モンゴル支配の時代となる。フレグは一二六〇年にはシリアにも侵攻、アレッポ、ダマスカスを攻略した。フレグは帰還せず、イランの地に留まった。三代目の王となったテグデルがイスラムに改宗し、五代目のガザンの一二九五年からは、イルハン国が国家としてイスラム国家になった。「モンゴル人のイスラム化」である。
 ペルシャ、そしてイランの存在を再考すれば、民族や王朝の連続性によってではなく、地理と宗教から成り立つ概念だと分かる。ホメイニ革命で放逐されたパーレビ国王が、一九七一年に古代ペルシャ王朝の栄光を引き継ぐ演出でペルシャ帝政二五〇〇年祭をペルセポリスで挙行したが、系統だったペルシャ民族など存在しない。この地に住む人は、アーリア系のペルシャ人を基底としながらも、トルコ系、モンゴル系、中央アジア系の諸民族などの複雑な混血によって成り立ち、人種の十字路というべき多民族国家だ。そして多民族を束ねるアイデンティティが宗教としてのシーア派イスラムなのである。
「イラン」という呼称は、第一次大戦後に英国の支援を受けて一九二五年に国民会議の推挙によって即位したパーレビ王朝のレザー・シャー以降のものである。イランを基点として「シーア派の三日月」といわれるゾーンがイラクからシリアにまで形成されつつある。イラク戦争がイラクをシーア派主導の国に変え、湾岸の北にシーア派の影響を浸透させつつある。孤立したスンニ派の過激派勢力がISを生み、混迷を深めたが、シーア派のイランが台頭する潮流は、レバノン・シリア・イエメンからアフリカにまで拡大している。

 

 

 

日本の古代史に見え隠れするペルシャ人の存在

 

 二〇一六年一〇月に奈良文化財研究所の発表では、平城京跡から出土した木簡の解読によって、天平神護元年(七六五年)の大学寮の人事記録に「破斯清道」との名が残されており、「破」「波」の違いはあるが、当時のペルシャ=「波斯」に由来する姓を名乗るペルシャ人が大和朝廷に仕えていたと推定されるという。この木簡自体は一九六六年に出土していたが、赤外線撮影による読み取り技術の進歩で判読できたという。
『続日本紀』にも天平八年(七三六年)遣唐使から帰任した入唐副使中臣名代が唐人三人と波斯人一人を、聖武天皇に拝謁させた記録がある。厳密に「波斯人」がペルシャ人かは別にして、中央アジアから西の地域の出身者たる「西域人」が、中国、朝鮮半島を経て日本に渡来したことは事実だろう。既に「キリスト教伝来と禁制」(本連載その一七)で触れたが、六三五年にペルシャ人アロペン(阿羅本)が長安に景教の名でキリスト教(ネストリウス派)を伝え、景教寺院(教会)まで建てており、西域との交流が窺える。
遡って六世紀末、仏教伝来の寺である日本最古の飛鳥寺(元興寺)建立に当たり、百済王が献じてくれた造仏工、造寺工は「百済の工人」といわれるが、「元興寺縁起」に残る名前には、西域人風の名があり、そのことは井本英一「古代の日本とイラン」(学生社、一九八〇年)が説得力ある解明に挑んでいる。蘇我馬子による建立開始は五八八年、創建は五九六年であり、日本古代史にユーラシアの風が吹き込んでいたことに心が熱くなる。
六~七世紀は、ササン朝ペルシャがアラブ・イスラムの台頭で滅亡(六五一年)した時代で、圧迫を受けたペルシャ人が、中央アジアから中国へ流動し、日本にやってきていたと思われる。空海が遣唐使の一翼を占める形で中国に渡航した八〇四年頃、長安には四〇〇〇人超のペルシャ人がいた記録もある。

 

 

 

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