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岩波書店「世界」2016年12月号 脳力のレッスン176 人間機械論の変遷―デカルトからAIまで―一七世紀オランダからの視界(その40)

 単純化すれば近代史は人間機械論への挑戦だったともいえる。人間なるものを解明・要素分解していけば、人間も機械のように部品を組み合わせたメカニズムによって稼働しているという認識に至り、限りなく人間再生の試みを繰り返してきたのである。中世の欧州では宗教的権威の中に人間が置かれ、創造神を中心にした「宇宙」という世界観の下に神によって創られた人間が生きていると考えられていた。その宇宙観を覆したのがコペルニクス、ガリレオであり、「人間とは」という問いかけを探求し、自己の合理的自覚を試みたのがデカルトであった。「理性の勝利」の時代の到来についてはこの連載でも確認してきた。今人工知能ブームの中にあってふと思うことがある。これはデカルトに始まった挑戦をバイオリズムのように繰り返してきたことの究極の現代版ではないのか。そのことの持つ意味を冷静に認識する必要性を痛感する。

 

 

デカルトの自動人間―――ロボットの原型

 

  

 一七世紀思想の研究者上野修は『デカルト、ホッブス、スピノザ 哲学する一七世紀』(講談社学術文庫、原本『精神の眼は論証そのもの』、一九九九)において「一七世紀は、自動人形=自動機械の創作に異様な関心を見せる点で際立っている」との視界を提示する。確かに近代合理主義の開祖ともいえるデカルトは「水力装置で対象を感知して洞窟から出現するディアナやネプチューン、片言をしゃべる自動人形」などカラクリ仕掛けの自動人形に強い関心を寄せ、オランダ滞在中に家政婦ヘレナとの間に設けたフランシーヌと名付けた、五歳で死んだ娘そっくりの自動人形をトランクに入れて持ち歩いていたという不気味な伝説も残している。どこまで本当の話かは分からない。デカルトは理性が勝利する時代を切り拓いた人物であった。あらゆる事象や権威に関し「本質的に疑ってみる」という懐疑論に立ち、その先にどうしても否定しえない思考する自分自身の存在を確認することによって「我思う、故に我あり」という視界を拓き合理主義の扉を開いた。その彼が自動人形にこだわった事実には違和感を覚えるが、「心身二元論」を主張したデカルトだからこそ「人間とは何か」を探求する中で、どこまでが身体(機能的メカニズム)で、どこからが心(精神、魂、意思)かを極めるべく自動人形に異様な好奇心を寄せたともいえる。
 デカルトについては、「一七世紀オランダからの視界・その14」において、その生涯と作品『方法序説』に論究した。そして「我思う、故に我あり」に至る、思惟する主体としての個の自覚が近代を突き動かすパラダイム転換になったことを論じた。彼は一六〇六年から一四年、一〇歳から一八歳までの八年間、仏イエズス会のラ・フレーシュ学院でスコラのカリキュラムに基づく、当時としては最高の人文学教育を受けた。日本では大坂夏の陣から江戸幕府の初期の時代である。そして一六一九年一一月一〇日、二三歳の時、相次いで三つの夢をみて電撃のような衝撃をうけた。悪夢と啓示、激しく吹き荒れる風、稲妻と閃光、そして三つ目が静けさの中で詩集の文言が現れ、自分が立ち向かうべき道に関し、あらゆる学問・科学の統一に向けて、「理性を正しく導き、あらゆる学問における真理を求める方法の探求」という使命に目覚める。
 デカルトは無神論者ではない。合理的な神の存在証明を試みていた。だが彼は本質的に幾何学者であり、全ての事象は「数値化された世界」に置換できると考えていた。神の啓示ともいえる霊的体験に突き動かされる部分と、全てを幾何学的に分解できると考える部分を共存させるデカルトの「心身二元論」は、突き詰めると心と体が結びつく「心身結合」を容認するに至る。
 デカルトの評価は揺れ動く。それは近代なるものへの評価にもつながる。一九九三年に『デカルトなんかいらない?』(松浦俊輔訳、産業図書)という刺激的な本が出版されている。フランスのル・モンド紙などに掲載された一九八〇年代の仏内外の科学者のインタビューからなる対話集(原書、一九九一)で、原題を『デカルトを葬り去らねばならないのか カオスから人工知能まで』といい、「偶然か決定論か、問われる科学」が基調となっている。ここでのデカルトは近代合理主義の象徴、「決定論に立つ過去の古典」とされ、「カオス、ファジー、曖昧」などIT革命の一時代前に盛んだった議論を投影する論稿が並び、科学にも流行り廃りがあることを思わせる。
 西欧の自動人形へのこだわりは一八~一九世紀のカラクリ人形作りへと継承された。ゼンマイ仕掛けの自動人形には時計職人などの技術が使われ、驚くほど精巧な機械人形が開発された。興味深いことに江戸期の日本でも「からくり人形」が登場する。出島経由で入ってきたオランダからの機械時計の技術に注目し、細川半蔵(?~一七九六)が作った「茶運び人形」や田中久重(一七九九~一八八一)の「弓曳き童子」など驚くべき作品が生まれた。国立科学博物館の「万年自鳴鐘」(万年時計)は田中久重の作品だが、その精巧さは日本人の技術吸収力、器用さを象徴しており、その技術は後の東芝の礎となった。ただしいかにその動きが精緻であれあくまで動きをプログラムされた人形であり、決して人造人間ではない。
 

 

 

コンピュータの登場とサイバネティックス―――人間機械論PARTⅡ

 

  

 コンピュータ科学、サイバネティックスの父とさN・ウィーナーは『サイバネティックス』(一九四八)、『人間機械論』(一九五〇、改定版一九五四)において、通信と制御を一体化する「電子計算機」の開発に向けた問題意識に関し、「人間の非人間的利用」からの脱却を語っている。人間機械論と訳された本の原題は“The Human Use of Human Beings”であり、「人間を鎖でつなぎ動力源とする労働」や「頭脳の一〇〇分の一しか使わぬ単純労働」から解放するためにサイバネティックスの進歩が求められるとの認識を示している。つまり、人間の可能性を信じ人間の人間らしい活動を促すために「閉じた機械仕掛けによって動く自動人形」を超えた機械を構想しているのだ。ウィーナーの時代を微妙な形で投影して誕生したのが手塚治虫の『鉄腕アトム』である。一九五一年のクリスマス島での米水爆実験を受け、「この科学技術を平和利用できたらいいな」という思いで産み出されたのが「超小型原子力エンジンと善悪が見分けられる電子頭脳の産物」である「百万馬力の人型ロボット鉄腕アトム」であった。五一年四月に連載が開始された「心優しい科学の子」たるアトムは技術楽観論の象徴ともいえる存在であり、物語上ではア二〇〇三年四月七日に誕生することになっているが、AIブームとの今日でも人工知能ロボットといえるものは誕生していない。
 不思議な因縁を感じるのはアトムが人間の代わりとして開発されたというストーリーである。開発者の天馬博士が、ロボット科学の粋を集めて、死んだ一人息子トビオの代わりを創ったというのがアトム誕生の背景であった。何やらデカルトのフランシーヌ人形を思い出される。アトムは一六〇の言語を話す優れたロボットだが、成長しないアトムに苛立った博士はサーカスに売り飛ばしてしまう。そこから育ての親たるお茶の水博士との出会いなどの物語が展開するのだが、戦争による親の無い子供が溢れていた戦後日本を背景に、無機的ロボットの物語は人間社会の情愛と絡みあう表情を持ち始める。我々はアトムに機械と心の融合の幻影を見たのである。
 A・C・クラーク原作キューブリック監督の映画『二〇〇一年宇宙の旅』は一九六八年の作品で、人工頭脳コンピュータHAL9000が一九九二年に完成し宇宙の旅を可能にしたことになっているのだが、スーパー・コンピュータの能力が飛躍的に進歩した今日現在でも、HALのような人工頭脳コンピュータは完成していない。コンピュータ科学の進歩が、SFの想定より遅れているのかといえばそんなことではない。進歩の方向が変わり、インターネットの登場に象徴されるネットワーク情報技術革命の方向に動いたということである。
 インターネットの原型となった米国防総省のARPANETの開発思想は「開放系・分散系」の情報技術で、一九六九年に完成した。冷戦期であり、中央制御の大型コンピュータで情報を管理してもソ連の核攻撃には無力で、「一つの回路が破断されても柔らかく情報が伝わる開放系・分散系のネットワーク型情報技術」が必要だったのである。このARPANETの基盤技術が冷戦後の軍事技術の民生転換の象徴として技術解放されて登場したのがインターネットであった。冷戦が終わって二五年が経つが、正に世界の情報環境はネットワーク情報技術によってパラダイム転換を起こしたのである。

 

 

 

AI(人工知能)という挑戦―――新しい次元の人間機械論

  

 

 

 今、我々は新次元の人間機械論の渦中にある。AIの開発の流れである。AIの基本的考え方は、「脳は神経細胞であり、電気回路と同じ」であり、CPUによる演算能力の高度化により限りなく人間の思考・認識・記憶・感情はプログラミングで実現できるとする試みといえる。これは鉄腕アトムの電子脳の実現のようなもので、既に囲碁や将棋などでは「ディープ・ラーニング」という高度なプログラミングで、プロの人間を凌駕する能力を持つシステムが開発されている。コンピュータ・サイエンスの進化は凄まじく、我々の生活を取り巻く情報環境は大きく変わりつつあり、BigDataの解析を取り込んだ人工知能が人間生活や産業活動を便利で効率的に導いていることも否定できない。既に「人工知能は人間を超えるのか?」というテーマが現実味を帯び、AIより賢いAIの開発をAI自身が行うという「特異点(シンギュラリティ)」への到達が二〇四五年には実現するとの議論さえ登場している。AI研究者の中には、「現存する労働の七五%がAIによってなされる時代の到来」や「天才にしか仕事の無い時代」を予測する議論をする者もいる。ある意味では、「非人間的労働」から人間が解放される時代の到来ともいえ、ウィーナーの夢、さらにはデカルトの夢の実現かとも思われる。だが、そんな時代が来たとして、「人間は何をするのか?」という疑問が残る。より付加価値の高く、より人間的喜びを味わえる分野に専心できるともいえるが、普通の人間にとってそれはどんな分野なのか。もしそれがスマホで「ポケモンGO」をする時間のごときものだとすればあまりに悲しいことではないのか。

 もっともそうした先走った悩みに向き合うことはない。どんなに進んだ人工知能でもそれは目的・手段合理性における優秀性であり、設定された目的の下での最適合理性の探求においてプログラムされたコンピュータが効率的なことは確かだが、問題は目的の設定、つまり「課題設定能力」である。人間が高次元の課題設定力を維持できるのかが重要となる。

 人間の脳はわずか一・五kg前後にすぎない。しかし、その潜在力は無限とも思われる。最新の神経科学の成果ともいえる伊のトノーニ他著『意識はいつ生まれるのか 脳の謎に挑む統合情報理論』(亜紀書房、二〇一五、原書二〇一三)は興味深い。「人間の脳は意識を生み出すが、コンピュータは意識を生み出さない」というのである。月面に着陸した宇宙飛行士が彼方の地球を見て覚える感動のような意識はコンピュータでは生まれない。さらにいえば人間には神仏を想い意識する力がある。つまり、大きな力に生かされているという、謙虚に自分を見つめる意識がある。究極の人間機械論が突き動かしてくる時代において、人間の正気を保たねばならない。人間が六〇兆の細胞から成り立つ生物であることを解明しても、その一〇倍を超すウィルスと共生することで生まれる「個体差」を一括りで対応できないと、友人の医師が語っていた。  

 

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