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岩波書店「世界」2016年8月号 脳力のレッスン172 科学革命における「コスモスの崩壊」とは何か ― 一七世紀オランダからの視界(その38)

 

 西欧史がルネサンスなる時代から宗教改革を経て、近代の様相を深め始める頃、一六世紀から一七世紀にかけ「科学革命」が大きく進展する。J・ヘンリーは『一七世紀科学革命』(二〇〇三、東慎一郎訳、岩波書店、二〇〇五)で「一五〇〇年と一七〇〇年の間の自然的世界についての知識の差」に注目するが、この間に人類史にパラダイム転換が起こったことは間違いない。「近代」なるものの本質的要素を「デモクラシー(民衆の政治参加)」と「資本主義(株式会社制度)」と「科学革命(コペルニクス的転回)」の三つに凝縮するならば、正にこれらが相関し合い三位一体となって時代を突き動かしたといえよう。H・バターフィールドは『近代科学の誕生』(一九四九、渡部正雄訳、講談社学術文庫、一九七八)で「近代科学の成立をもって近代の成立とする」とまで述べているがあながち誇張ともいえず、ここでは科学技術の視界から一七世紀を捉え直しておきたい。

 

 

 

宗教改革五〇〇年を前にして

 

 

 

 来る二〇一七年は宗教改革五〇〇年の節目である。一五一七年にマルティン・ルターがカトリック教会への「九五箇条の論題」をザクセン州ヴィッテンベルク城教会の扉に貼りだしてからちょうど五〇〇年が経過したということである(連載その10参照)。一六一七年、宗教改革から一〇〇年の時点で、「宗教改革一〇〇周年記念パンフレット」なるものがライプツィヒ製の木版画として発行されている。欧州最後の宗教戦争といわれる三〇年戦争の始まる一年前のことで、ローマ教皇はプロテスタントという異端の根絶とキリスト教世界の再統一を呼びかけていた。つまり、これはプロテスタント側がカトリックと対峙する緊張の中で、民衆やザクセン選帝侯など領主層へ結束を訴えるポスターのようなものであった。

「印刷技術がなければ宗教改革は達成されなかった」という指摘は正しく、一四四三年の印刷機の登場が「書物の運動」としての新教の台頭に勢いをつけたことは間違いない。しかし、一七世紀の欧州ではほとんどの人は読み書きができず、都市においてさえ識字率は三分の一程度だったと思われる。そのため、図版に若干の文字を加えたポスターが人々への訴求力として有効であり、羽ペンを持ったルターが「免罪符について」と書こうとしている図柄を配した「ブロードシート」と言われる現代の漫画・イラストのようなものが作られたのである。

確かに、印刷機の登場によって、写本の時代とは比較にならないほど伝達される知識量は拡大した。ただし、グーテンベルグが葡萄酒の搾り機を改良して活版印刷機を作りだしてからしばらくの間は、一回に印刷できる部数は二〇〇部程度だったといわれ、多くの人々への浸透には限界があった。

また、科学技術史において印刷機登場のインパクトは大きかったが、宗教改革を通じて登場した「目覚めた人々」が、そのまま近代科学の扉を開いたのかというと話は単純ではない。それは宗教改革の主役ルターのコペルニクスに対する姿勢が物語っている。宗教改革がカトリックを突き上げはじめた頃、ほぼ時を同じくして一五四三年にコペルニクスが『天体の回転について』を出版した。だが、キリスト教的世界観からは自由ではなかった。「地球が回転するなどという馬鹿者」という表現で、コペルニクス的宇宙観を一笑に付したのがルターであり、「地球中心」「永遠不滅」というアリストテレス以来の宇宙観の固定観念から一歩も出るものではなかった。一六〇〇年、日本では関ヶ原の戦いの年に、ドミニカ会の修道士ジョルダノ・ブルーノ(一五四八~一六〇〇年)は地動説を擁護したことにより火刑にされている。西欧における科学革命とはキリスト教的宇宙観との戦いでありその克服であった。

欧州で宗教改革の火蓋が切られた一五一七年、日本は室町時代であり、将軍は足利義稙、戦国という時代に向けて群雄割拠の様相へと動き始めていた。武田信玄(一五二一~七三)、上杉謙信(一五三〇~七八)、織田信長(一五三四~八二)、豊臣秀吉(一五三七~九八)、徳川家康(一五四二~一六一六)といった戦国の領袖たちが生まれる少し前であった。宗教改革の衝撃がいかに大きかったかは、ルターが狼煙を上げてわずか三二年後の一五四九年に、ザビエルが鹿児島に来訪したことに象徴されるであろう。プロテスタント台頭への対抗宗教改革から生まれたイエズス会が、極東の島国にまで使命感に燃えた宣教師を送り込むほどに情熱を掻き立てられたのである。

 

 

 

宇宙観のパラダイム転換ーーー「コスモスの崩壊」とは何か

 

  

 

コペルニクスは一四七三年、現在のポーランドに生まれ、一四九七年に二三歳でイタリアに留学、一五〇年に至る七年間当時のあらゆる学問を学んだ。教会法で博士の学位を取得したが、ルネサンス期の新プラトン主義の息吹に触れギリシャ・ローマの古典を吸収した。最新の科学史研究の成果ともいえるS・ワインバーグの『科学の発見』(二〇一五年、赤根洋子訳・文藝春秋、二〇一六年)などによれば、紀元前三世紀の天文学者アリスタルコスが既に「地動説」を唱えており、留学中のコペルニクスはそれらの文献を読み込んでいたという。

 一六~一七世紀の欧州に展開された科学革命を考える時、前提となる歴史認識として、アラブの科学が果たした役割を視界に入れておく必要がある。プラトン、アリストテレスに代表されるギリシャ文明の精華は、西欧自身の中では一旦はすっかり失われ、アラビア語からの再翻訳という形で蘇った。七世紀のアラビア半島に忽然と現れたムハンマドなる預言者が開いたイスラム勢力が、ダマスカスに本拠を置くウマイヤ朝(六六一~七五〇年)として、七一五年には欧州のイベリア半島までも制圧する巨大帝国となった。次いでイスラム世界の覇権を握ったアッバース朝(七五〇~一二五八年)はビザンツ帝国との「文明の衝突」を通じて、そこに蓄積されていたギリシャ文明を吸収した。とくにアッバース朝の第二代カリフとなったアル・マンスール(在位七五四~七七五年)はバグダッドを首都として、アラブ科学の黄金期を築いた。「知恵の館」(バイト・アル・ヒクマ)という学術機関が設けられ、多くのギリシャ文明の文献が翻訳された。皮肉な話だが、欧州における「ルネサンス」といわれる文明の再興運動は失われたギリシャ文明の文献のアラビア語からの再翻訳によって支えられたという性格を持ち、イスラムが東西文明の交流・接着剤的役割を果たしたことを忘れてはならない。

『天球の回転について』の発刊はコペルニクスの死の直前であった。途方もない軋轢が予想され、逡巡したためである。それほどまでにキリスト教体制に深く埋め込まれていた「天動説」的宇宙観の岩盤を壊すことは至難であった。

中世キリスト教的宇宙観とは何か。その意味で『神曲』は中世の欧州における宇宙観を象徴する作品である。フィレンツェ生まれの詩人、哲学者ダンテ・アリギエーリ(一二六五~一三二一)の『神曲』は一三〇七年から死の直前まで書き続けた彼の代表作で、地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部から成り、ダンテ自身が生身のまま彼岸の三界を巡る構成である。その天国篇(岩波文庫版では「天堂」)に描かれた宇宙観こそ一四世紀初頭のローマ教皇を中心とする欧州の人々が共有するものであった。最上位の第十天に神を、人間世界を第一天で「月下界」とする、これこそがアリストテレス(前三八四~前三二二)に発し中世キリスト教と接木された宇宙観ル・コイレ、一九五七)といわれる所以である。

 『神曲』が書かれた時代には、エルサレムを目指した「十字軍」は一二二一年の第五回で終っていたが、イスラムへの憎しみと偏見は欧州キリスト教社会を覆っていた。地獄篇の第二八曲に描かれた地獄で苦しみぬくマホメット(ムハンマド)の描写は、あまりの残虐さに気分が悪くなるほどであるが、異教徒、異端者への憎悪はかくもと思わせるものがある。

 そこにコペルニクスが「地球中心」という当時の常識を覆す視界を語り始めたのである。彼は単に地球が太陽の周りを動いていることを主張しただけでなく、全宇宙の体系をこれまでのキリスト教的宇宙観と異なるパラダイムで描き出したが故に衝撃だったのである。コペルニクスの議論をさらに進化させたのがドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(一五七一~一六三〇)で、地動説に立ってより正確な惑星の楕円軌道の動きの法則性を発見した。所謂「ケプラーの第三法則」といわれるもので、「惑星の公転周期の二乗は軌道の長半径の三乗に比例する」という法則によって、「地動説パラダイム」を完成の域にもって行った。さらに象徴的立役者がガリレオ・ガリレイ(一五六四~一六四二)である。イタリアのピサに生まれたガリレオは、一六〇九年に天体望遠鏡を創り出し、木星の衛星を発見したことから地球も太陽の周りを回転していることを実感し、月面クレーター、太陽の黒点などの発見、一六三〇年には『天文対話』を出版するが、「キリスト教の教義に反する」として教皇庁の異端審問を受け宗教裁判により有罪となる。「それでも地球は回っている」と呟いたという有名なエピソードを残した。一六三〇年といえば『天体の回転について』の出版から八七年、北の欧州では地動説的世界観が浸透しつつあったが、教皇庁お膝元のイタリアではガリレオが矢面に立たされた。A・ファントリの『ガリレオ――コペルニクス説のために、教会のために』(一九九三、須藤和夫訳、みすず書房、二〇一〇)は体系的なガリレオ研究の成果として意味深い。教皇ヨハネ・パウロ二世により教皇庁がガリレオに正式に謝罪し名誉回復に踏み込んだのは実に一九九二年であった。

 

 

 

日本におけるコペルニクス

  

 

 

科学史を再考する上で、T・クーンの『科学革命の構造』(一九六二、中山茂訳、みすず書房、一九七一)は欠かせない古典である。今日「パラダイム」という言葉が安直に使われがちだが、個別の事象で歴史を見るのではなく、事象の基盤にある原理の転換を見抜き、歴史の構造変化を捉える視界を拓いたのがクーンであった。彼はパライム・シフトこそ科学革命と言い切ったが、その典型がコペルニクス的転回だった。

日本では、一九七三年に生誕五〇〇年を記念して『コペルニクスと現代』(時事通信社刊)が出版され、『天体の回転について』の訳者・矢島祐利が「日本におけるコペルニクス」という興味深い論稿を寄せている。矢島によれば日本の文献に最初にコペルニクスが登場したのは、一七七四年(安永三)年、長崎の通詞・本木良永の「天地二球用法」(天球儀と地球儀の使い方という意)で、「コペルニクス体系」という表現が登場する。その理論を理解し、紹介しているのは志筑忠雄の『暦象新書』(一七九八~一八〇二)で、天動説、地動説という訳語も志筑が創り、日本の影響で韓国、中国でも使われているという。

一八世紀も後期になっていたが、キリスト教による宗教的抑圧のない日本では天文学にうおける学説としてのみ冷静に受け止められ、禁断の世界に踏み込むという抵抗はなかった。科学と宗教の対立という緊張を経ることなく、「和魂洋才」として西洋の科学技術を受容した日本の特質が見えてくる。

 

 

 

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