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岩波書店「世界」2016年5月号 脳力のレッスン169 プロイセン主導の統合ドイツに幻惑された明治日本 ―一七世紀オランダからの視界(その36)

「ドイツといえばプロイセン」という固定観念が日本人にはこびり付いている。プロイセン主導の統一が実現したのが明治四(一八七一)年、明治日本の国家形成にとって新興国ドイツの中核となったプロイセンは魅力的なモデルとなり日本近代史に大きな影響を与えた。

 

 

プロイセン主導のドイツ統合とはなにか

 

 

 セバスチャン・ハフナーの『プロイセンの歴史――伝説からの解放』(一九七九年、邦訳魚住昌良監訳、東洋書林、二〇〇〇年)はプロイセンなる存在を考察する上で示唆的である。ハフナーは対照的な二つの伝説、すなわち「黄金のプロイセン伝説」(ドイツ統一の使命を担ったプロイセンという見方)と「黒いプロイセン伝説」(略奪的な軍事国家プロイセンという見方でフリードリヒ大王、ビスマルクをヒトラーの先駆者とする)の双方を否定し、神聖ローマ帝国の衰退がプロイセンの台頭をもたらし、ドイツ的使命を押し付けた経過を、説得力を持って検証している。

 

 プロイセンの歴史は一二世紀以来のドイツ諸侯による宗教的騎士団(ドイツ騎士修道会)の東方植民運動に遡ることができる。ドイツ騎士団はバルト海沿岸に迫りプロイセン人の地を征服、騎士団長ホーエンツォレルン家の下にプロイセン公国を設立、一二二六年にプロイセン人の領土の統治権が与えられた。背景には一一世紀末から二〇〇年に亘る「十字軍の時代」があり、ドイツ騎士団のプロイセン侵攻は正に「北に向かった十字軍」であり残虐な征服戦であった。このプロイセン公国が一七世紀にブランデンブルク選帝侯国と合体、プロイセンの母体となる。つまり非ドイツ的地域を侵攻・征服したドイツ騎士団のDNAがプロイセンの基本性格といえる。

 

 さて、このドイツ騎士団だが、一一九九年にローマ教皇によって公認された軍事修道会で、淵源は十字軍を機に一一一九年にフランスの騎士ユーグ・ド・パイヤンが結成した修道会がエルサレム王ポードアン二世から「ソロモン神殿の警護と巡礼者の守護」という使命を与えられ、神殿騎士団(テンプル騎士団)と呼ばれる武装された修道会が生まれたことにある。三〇年戦争を経て、神聖ローマ帝国が後退するプロセスを通じてプロイセンは絶対主義国家体制を構築していく。先駆者フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯(在位一六四〇~八八年)は宗主国ポーランドからの自立を図り、常備軍体制を整備していった。一七〇一年には公国から王国に昇格、初代国王としてブランデンブルク選帝国王のフリードリヒ一世が即位した。三〇年戦争後のドイツは戦争による荒廃と消耗によって人口が半減した地域もあったというが、そうした状況の中で、建前上は一八〇六年まで存続し続けた神聖ローマ帝国の下、最上位は選定候国、つまり金印詔勅の七国とバイエルン(一六二三年)、ハノーヴァー(一六九二年)を加えた九国を中核として約三〇〇もの領邦国家と帝国都市が分立していた。

 

神聖ローマ帝国の研究者菊池良生は、三〇年戦争の終結点たるウェストファリア条約を「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とするならば、その後も名称だけとはいえ存続しつづけた帝国の「埋葬許可書」と、一八〇六年の最後の神聖ローマ皇帝フランツ二世による神聖ローマ帝国の解散勅令を表現している(『神聖ローマ帝国』、講談社現代新書、二〇〇三年)。ナポレオンとの戦争に敗れ、西・南部の領邦国家がフランスを後ろ盾とする「ライン同盟」として帝国から離脱するのを受け、自らをオーストリア帝国の初代皇帝フランツ一世とすることで延命した。以後、ドイツはプロイセンとオーストリアの綱引きの中で次第にプロイセン主導の統一へと向かっていく。一度はナポレオンに敗れたプロイセンだがロシアとの同盟で反撃(一八一三年)、ウィーン会議(一八一五年)を経て国家体制を整備し、普墺戦争(一八六六年)、普仏戦争(一八七〇年)に勝利して一気にオーストリアを排除する形でドイツ統合を実現する。日本がドイツに出会うのは正にその頃である。ただし単純な「プロイセンとオーストリア・ハプスブルクの二元対立」の結末ではなく神聖ローマ帝国を形成してきた中邦諸国のザクセン、バイエルン、ヴェルテンベルク、ナッサウなどの領邦国による第三軸形成の動き(一八五九年の「ヴュルツブルク連合」)など自邦の自主・独立にこだわる諸国が蠢き今日に至るまでこれがドイツのDNAになっているとさえいえる。

 

 

ドイツ統合の日本近代史へのインパクト

 

 

長崎の出島でオランダ東インド会社を通じて西欧世界と交易していた江戸期、実はオランダ人を装い多くのドイツ人が日本を訪れていた。領邦国家群として分立していたドイツにとって、世界へとつながる回廊はオランダであった。また、キリシタン禁制下の日本にとって神聖ローマ帝国はキリスト教共同体の幻影であり、ドイツ人たちは宗教的には無色透明を装いオランダ人として日本に現れたのである。阿部謹也はで一七世紀のドイツについて「新しい経済的状況に対応して発展していく兆しは見られたが、全体としては領邦国家の枠組みに縛られて、オランダやイギリス、フランスのような発展は阻まれていた」と述べ(『物語ドイツの歴史』、中公新書、一九九八年)、オランダについては「市民と自由農民による協力の下で、国民の力が結集されていた」と指摘、領邦国家に分割されていたドイツにとってライン川の下流のオランダは世界への窓口、いわば「出島」だったのである。

 

この連載でも論及してきたシーボルト(連載29「蘭学の発展とシーボルト事件の背景」)は、南独バイエルンの出身で、ドイツで医学・薬学・植物学などを身に着け、二六歳でオランダに赴き、「蘭領東インド陸軍一等外科医少佐」として一八二二年にアジアに発った。この少し前、オランダはナポレオン侵攻によって一時フランスに併合され、国家として消滅していたが、英国に亡命していたウィレム一世率いる王国として一八一三年に再建、アジアにおけるオランダの優位を確立すべく、日本研究の特命を受けての来日であった。「鎖国」という言葉の由来にもなった『日本誌』を残したケンペルもドイツ人であることも本連載で「モンタヌスとケンペルの『日本誌』」で触れた。また一六四九年に出島に来て「カスパル流紅毛外科医術」の開祖となった外科医カスパール・シャームベルゲンも、一六三五年来日の砲術家ブラウンもドイツ人であった。

 

 幕末に至り日本人もオランダの背後にあるドイツの存在に気付き始めた。一八六〇年九月、オイレンブルク伯(後のプロイセン内相)を正使とするプロイセン艦隊が江戸湾に来航。幕府は一八六一年一月、プロイセンとの修好通商条約を締結した。外国奉行堀織部正利煕をはじめ幕府側交渉団は統一前のドイツの領邦国家分立という複雑さが理解できず、プロイセンが要求した北ドイツの諸国それぞれとの条約締結に当惑し攘夷論吹き荒れる世情の中堀が割腹自殺する事態が生じた。

 

 一八六二(文久二)年、幕府は竹内下野守を正使とする使節を欧州に派遣、一行は約一年をかけて仏、英、蘭、プロイセン、露、ポルトガルを歴訪した。パリ、ロンドンをチョンマゲ帯刀で動いた三八人の侍の抱腹絶倒の異文化体験については拙著『若き日本の肖像――一九〇〇年、欧州への旅』(新潮文庫)で触れた。オランダとは出島で二〇〇年以上もの通商を重ねた日本だが、正式の日本使節が訪れたのはこれが初めてであった。この使節に翻訳方御雇として福沢諭吉がいた。欧州訪問から四年後の一八六六年、つまり幕府崩壊の前年に彼は『西洋事情』の初編を著し、「欧羅巴にて文学の盛なるは普魯士(プロイセン)を以て第一とす。国内の人民大抵、字を知らざる者なし。別林(ベルリン)には獄屋の内にも学校を設け、三、四日毎に罪人を出して教授す」と述べる。また福沢は『西洋事情』の二編・巻三(一八七〇年)でナポレオンが「千七百九十五年、和蘭を伐ち、一挙して全国を滅し」と記述しており、日本人として最も早く「オランダという国が消滅していた期間があったという事実」に気付いた一人といえる。   

 

蘭学を通じて「西洋文明の中心」と認識していたオランダへの軽い失望がドイツへの過大評価につながっていく。維新政府は明治維新後間もない一八七一(明治四)年一二月から七三年九月までの二一か月間、米欧一一国を歴訪する「岩倉使節団」の派遣を決める。太政官岩倉具視を正使、参議木戸孝允、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文を副使とし、明治近代化の方向を決定づける使節であった。主眼は国家建設のための欧米事情の視察と幕末に結ばれた不平等条約の改正にあり、米・英・仏が主たる訪問先であったが、結果としてドイツでの見聞に深い感銘を受けることになった。維新後の国造りを主導した大久保は「ビスマルク、モルトケと出会えたことが今回の旅の唯一の成果」という言葉を帰国直前の手紙で述べているが、一行のベルリン滞在中になされた晩餐会での「鉄血宰相ビスマルク」の演説には心を揺さぶられたのである。ビスマルクはプロイセンが弱小国だった少年時代の思い出から語り始め、国際関係の現実は弱肉強食であると、「万国公法」よりも自立自尊を目指す「国力増強」こそが重要であると熱く語った。

 

一八八一(明治一四)年、大隈重信が提出した英国流の議院内閣制の採用を主張する憲法意見書を否定する形でドイツに範をとった憲法制定の方針が確認され、その準備のため伊藤博文が一八八二年から八三年にかけドイツを再訪する。伊藤らはウィーン大学の教授だったローレンツ・シュタインの「国家学」の影響を受け、国権と民権のバランスを図る志向よりも天皇を中心とする国家行政機構の整備を重視する明治憲法を起草する指針を固めた。

 

司馬遼太郎は『この国のかたち』に「ドイツへの傾斜」(文春文庫、巻―50所収)と題する論稿を寄せ、「ドイツについては、ひいきというよりも、安堵感だったろう。ヨーロッパにもあんな田舎くさい――市民精神の未熟な――国があったのか、とおどろき、いわばわが身にひきよせて共感した」と述べる。的確な捉え方であり、フランス革命のような市民主導の民主主義やピューリタン革命を経た英国の立憲君主制はどうしても理解できなかったのである。

 

石附実の『近代日本の海外留学史』(ミネルヴァ書房、一九七二年、中公文庫版、一九九二年)によれば、文部省派遣留学生(明治八~三〇年までの官費留学生)の合計一五九名の内一〇四名(六五%)が、また明治期の陸軍からの留学生の半分以上がドイツに向かった。森鷗外もその一人である。これだけお世話になったドイツに対し日本は、第一次大戦の開戦に際してその山東権益を奪い取るため襲い掛かった。理由は「大英帝国との同盟責任」、つまり集団的自衛権の発動であった。ビスマルクの演説を岩倉使節一行が感銘深く聞いてから四二年後であった。

 

日本近代史の失敗は、ドイツ史の深層を理解しないまま、台頭するプロイセン主導の第二帝政の影響を受け、「科学技術の先進性と民主政治の後進性」というドイツ的特質を抱え込みすぎたことに淵源がある。私が主宰する寺島文庫は九段下にあるが、九段坂を靖国神社方向に登ると坂の左側に三体の銅像が立つ。九段下交差点の交番の裏に平田東助像。米沢藩士で岩倉使節の随員、その後ドイツに留学し政治学・法学を学び、法制局長、農商務大臣、内務大臣を務めた。次に品川弥二郎像。長州藩士で松下村塾に学び、普仏戦争を視察、松方内閣内相として一八九二年の総選挙での有名な選挙干渉の主役となる。そして大山巌像。薩摩藩士で西郷隆盛の従兄弟、やはり普仏戦争を視察しドイツに留学。初代陸相として一一年間務め、日清・日露戦争を主導した。つまり何故かドイツ帰りの明治の国造りを牽引した人物が坂を見下ろすのである。

 

 
     

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