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You are here: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2016年 岩波書店「世界」2016年2月号 脳力のレッスン166 欧州における一七世紀フランス― ルイ一四世・絶対王政がもたらしたもの― 一七世紀オランダからの視界(その34)

岩波書店「世界」2016年2月号 脳力のレッスン166 欧州における一七世紀フランス― ルイ一四世・絶対王政がもたらしたもの― 一七世紀オランダからの視界(その34)

 ミシェル・ヴィノックが『フランスの肖像』(大嶋厚訳、吉田書店、二〇一四年、原著二〇一〇年)で述べるごとく、「フランスは地理ではなく、思想である」という視点は的確だと思う。有史以来、ケルト人(ガリア人)が住み、ローマによる征服を経てラテン化したガリアにゲルマンが侵入し、複合的な文化ゾーンが形成された。その基底の上に歴史の経過が「フランスは単一で不可分なり」(一七九三年憲法)というアイデンティティを刻みつけた。イタリアやドイツが一九世紀後半まで小国分立状態を続けたのに対し、五世紀頃からフランク王国という形で今日の国土の中核を占める地域で統一国家が形成された。歴史とともに国境線は伸縮するが、「フランス」なる国は存続し、その中でフランスという自己意識形成された。その自己意識形成の重要な転機となったのが、七三二年ピレネーを超えてフランク王国に攻め込んだイスラム勢力を撃退したことであった。ダマスカスに首都を置くウマイヤ朝は北アフリカを制圧してジブラルタルを渡り、七一一年にはイベリア半島を支配下に置き、更なる侵攻を狙った。トゥール・ポワティエ間の戦いでその侵攻を止め、この時、イスラムに対するフランク王国を中核とするキリスト教共同体という自覚が欧州に芽生えたといえる。イスラムの圧力が欧州のアイデンティティを誘発する構図は、今日にも繋がる。

近世フランス――フランソワ一世から太陽王・ルイ一四世まで

 一七世紀のオランダを探求する視界においても、同時代のフランスの持つ意味は重い。もちろん、一六四八年までの八〇年間、独立戦争を戦ったスペイン、一七世紀の間に三次にわたる英蘭戦争を戦い、海洋大国としての栄光に影を投げかけてきた英国も「オランダの脅威」ではあったが、南から迫るフランスの圧力も大きな意味を持ったのである。今日フランスを訪れても、一七世紀フランスの主役であり、「太陽王」ルイ一四世が残したベルサイユ宮殿の華麗さに目を奪われるし、多くのフランス人が「偉大な世紀」として一七世紀に郷愁を抱いていることを印象付けられる。フランス革命(一七八九年)を経て、革命前の「古い体制」という意味で、アンシャン・レジームとも絶対王政ともいわれる時代であるが、一七世紀フランスは王権が輝きを見せていた時代であった。
 一六世紀のフランスはやや惨めだった。この時代を代表するフランソワ一世(在位一五一五~四七年)は、強大化するウィーンのハプスブルク家の圧力に押され続けた。一五一六年に宿命のライバルたるカール五世がスペイン王カルロス一世となり、フランスはハプスブルクの版図とスペインの挟撃されることになる。一五一九年には神聖ローマ皇帝の座を巡る選挙で、「フッガー家の二トンの金貨を使ったカール五世の買収工作」に敗れる。さらに「イタリアへの憧憬」に駆り立てられたフランソワ一世は、一五二五年にイタリアに進撃したものの、ミラノ郊外パヴィアの戦いに敗れて自らが捕虜となり、屈辱的な服従の誓約書を書かされる。このことは「なぜオランダは近代の揺籃器となったか」(連載その4)に書いた。
 にもかかわらず彼は執拗な反抗を試み、バルカン半島を超えてカール五世の脅威となりつつあったイスラム国家オスマン帝国と手を組んでまで意趣返しを続けた。フランスがオスマン帝国から通商特研を得たのが一五三六年であった。

 一六世紀フランスが抱えた最大の問題は宗教対立であった。一五四〇年代から宗教改革を背景にカルヴァン派が浸透。カルヴァンは一五〇九年に北仏で生まれたフランス人で、二十代で「突然の回心」を経て宗教改革活動に入るが、王権による迫害のためスイスに逃れ、一五三六年に『キリスト教綱要』を著し改革運動を主導するに至る。一五五〇年代には改革派教会はフランス全土に二〇〇〇を超したという。
当初、フランソワ一世は神聖ローマ皇帝となったカール五世への反発もあり新教に寛容であったが、貴族層にまで教則に浸透していく新教のカトリック批判が王権批判に昂じていくことに危険を感じ、弾圧に転じた。その後、一六世紀後半のフランスは一五六二年から八次にわたるユグノー戦争とよばれる宗教内戦に突入し、暗殺と虐殺の連鎖の果てにようやく一五九八年のアンリ四世の「ナントの勅令」によって新教の信仰の自由が許容される。だが勅令は新旧教の並存は認めたものの、プロテスタント信仰が認められたのは、既にプロテスタント教会による信仰体制が定着していた約百都市だけで、「首都パリ圏内では新教禁止」という制限が存在していた。
 一五八九年、カトリックの修道士によって暗殺されたアンリ三世に代わってアンリ四世が国王に即位して「ブルボン朝」が始まるが、緊迫の中でアンリ四世はカトリックに改宗、その彼がナントの勅令によって新旧教間の妥協を図るものの王権の伸張と共にカトリックへの傾斜が顕著となり、一七世紀のフランスはカトリックの体現者、ルイ一四世を生む。ルイ一四世がナントの勅令を廃止するのは一六八五年であった。
確かに、一七世紀フランスはルイ一四世の世紀であった。ヴォルテールは『ルイ一四世の世紀』で、人間の歴史において、学芸が完成し、人間精神の偉大さで後世の模範になる時代としてルイ一四世の治世を挙げている。なるほど、ルイ一四世が残したベルサイユ宮殿は人類の遺産ともいえる威容を示し、太陽王のイメージと重なり、まばゆい印象を残す。この宮殿は、ルイ一三世が狩猟の館として建設したものだが、一六六八年にルイ一四世が大規模な増改築と政府機能の移転を決定したもので、後に第一次世界大戦の講和会議の舞台となる「鏡の間」は一六八四年に完成し、天井にはルイ一四世の事績を表す絵画が王の栄光の表象として埋め込まれている。

 一六四三年にわずか四歳で即位したルイ一四世は一七一五年まで実に七二年間も王座にあった。スペイン王女だった母后アンヌが幼少の王を支える摂政となり、次第に父ルイ一三世の宰相であったリシュリュー卿の寵臣マザランが宰相として実権を握り、一六六一年まで王権を支えた。マザラン死後の半世紀は王自身の親政となり王権による中央集権化を進めた。親政を始めた時ルイ一四世は二二歳であった。一八六七年に書かれたJ・ミシュレの大著『フランス史』(邦訳二〇一〇年、藤原書店)は、ルイ一四世の治世について「美しく完成された時代――が、何一つ創造しなかった時代」と表現する。
あまりにその治世が長かったため、ルイ一四世の死の後を継いだのは五歳の曾孫ルイ一五世(在位一七一五~七四年)で、それを引き継いだルイ一六世(在位一七七四~九二年)の治世はフランス革命への準備期間ともいえ、絶対王政の輝きが次第に薄れていく時代でもあった。この時期に革命を支える啓蒙思想、モンテスキューの『法の精神』(一七四八年)やルソーの『社会契約論』(一七六二年)が登場し、フランス革命とは絶対王政の光の消滅点であったことに気付く。一七九三年に断頭台に消えた王妃マリー・アントワネットはオーストリアのマリア・テレジアの娘であるが、一六世紀にあれほどフランソワ一世を苦しめたハプスブルクの娘がフランスの動乱に巻き込まれていく欧州史の皮肉に嘆息せざるをえない。

      

オランダ、そして日本とフランスの関係

 一六~一七世紀のフランスの状況を確認すると、何故フランスから多くのユグノー(新教徒)がオランダに亡命したかが分る。宗教戦争と新教弾圧を逃れた人々にとってオランダは希望の地だったのである。既に本連載で触れたごとくデカルトもフランスからの亡命者であった。一五九六年フランス中部ラ・エーで生まれた彼は新教弾圧の中一六二八年オランダへ移住、以後二一年間同地で活動する。そして「我思う、ゆえに我あり」という近代的思惟の芽生えを生むのである。
 一七世紀オランダが黄金期を創りえた一つの原動力が、イベリア半島からのユダヤ人、フランスからのユグノー、英国からの清教徒の亡命・移住にあったことは間違いない。それらの移住者が放つエネルギーを吸収することによって、小国オランダが商業・海洋大国として世界に光を放ったのである。
 親政期のルイ一四世はカトリック王としての性格をあからさまにして領土的野心を高めていった。一六六七年にはスペイン王家から迎えた妃マリの持参金代わりの「王妃の権利」としてスペイン領南ネーデルランドの領有を主張して、リールなど主要都市に侵攻、さらに一六七二年にはオランダに宣戦、オランダ戦争(一六七二~七八年)を始めた。オランダはスペインとの反仏同盟で対抗するが、この動きこそ一六四八年のウェストファリア条約以降の欧州を象徴するものである。つまり、一六四八年までスペインからの独立戦争を戦ってきたオランダが仇敵スペインと手を組んでフランスと戦うことは、カトリック対プロテスタントという宗教間対立よりも国家間のバランス・オブ・パワー(勢力均衡)による共存が重要になったということである。フランスの強大化を警戒する反仏同盟はスペインのみならずドイツ諸侯、フランスの後ろ盾で王政復古を実現した英国をも巻き込み、ルイ一四世の野望を抑え込む形で一六七八年のナイメーヘンの和議がなされる。
 親政期にはオランダ戦争以外にもフランドル戦争、スペイン継承戦争など対外戦争に突入していく。また、清教徒革命から名誉革命にかけて揺れ動く英国に対して英王室の亡命先となり、カトリック王として英国の政局を揺さぶった。この背後には、国際商業に先行する英蘭に対する仏の参入という利害対立があった。欧州諸国はフランスに警戒を強め拡張政策は必ずしも成功しなかった。一六八三年、オスマン帝国による第二次ウィーン包囲がなされウィーンは陥落寸前に追い込まれる。バイエルン、ロレーヌ、バーデンなどのドイツ諸侯とポーランド王が結集してイスラムの攻勢に立ち向かうが、ローマ教皇と対立を深めていたルイ一四世は動かなかった。

 ルイ一四世のオランダ侵攻は成功しなかったが、一世紀後の一七九五年、フランス革命がオランダを制圧して「バターフ共和国」という傀儡政権を設置、総督ウィレム五世は英国に亡命を余儀なくされた。さらに一八〇六年にはナポレオンによる「ホラント王国」が発足し、弟のルイ・ナポレオンが王となった。地上からオランダが消滅していた期間があり、このことが江戸期の日本に歪んで伝えられた事情は「『オランダ風説書』と江戸期日本の世界認識」(連載その20)で書いた。
 日仏関係を考える時、まず一五四九年に鹿児島に来たザビエルを思い出す。彼がデ・ロヨラとともにイエズス会を設立したのは一五三四年、パリのモンマルトルで、当時のフランスがカトリックの基点であったことがわかる。フランスが日本史に登場するのは一九世紀、一八四四年の仏人宣教師フォルカードの琉球来訪あたりが最初と思われる。彼は琉球で六千語におよぶ琉仏辞書を編纂したという。一八五三年、日本開国の頃、フランスはナポレオン三世の第二帝政下にあった。日仏の正式国交は一八五八年の日仏修好通商条約に始まる。二代目公使レオン・ロッシュは精力的に幕府との関係を深め、フランスの借款による横須賀造船所建設の締結、幕府への軍事顧問団の派遣などを進めた。戊辰戦争は薩摩を支援した英国と幕府支援の仏の代理戦争的様相を呈した。驚くのは劣勢の幕府と共に戦い続けた仏軍人がいたことで、一八六八年の榎本武揚ら幕臣による最後の抗戦となった函館五稜郭の戦いまでJ・ブルュネほか約十人は国元からの指示ではなく滅び行く幕府に殉じた。フランス人気質というべきか、「フランスは地理ではなく、思想である」との言葉を思わざるをえない。

 
     

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