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岩波書店「世界」2016年1月号 脳力のレッスン165特別篇 「運命の五年間」から百年―戦後七〇年の日本への問いかけ


 戦後七〇年という節目に、戦争をどう総括するか。「戦争は悲惨だ」「二度と繰り返してはならない」との議論はメディアにも溢れていた。だが、何故あんな悲惨で無謀な戦争に至ったのか、「軍閥の暴走」と単純化する前に、なぜ国民が大政翼賛の空気に埋没し、総力戦に参加したのかという論点は、「戦後七〇年首相談話」を含めほとんどなされなかった。
 二〇一五年の夏から秋、私自身が目撃したことを踏まえて、戦争への導線を再考しておきたい。私の結論は、一〇〇年前の五年間、第一次世界大戦開戦の一九一四年からベルサイユ講和会議までの日本を深く考察することが戦争の総括とそれを踏まえた二一世紀日本の進路に大きな意味を持つということである。

 

一九一五年サンフランシスコ パナマ・パシフィック博覧会

   七月、サンフランシスコを訪れ、歴史博物館で一九一五年に行われた「パナマ・パシフィック万国博覧会」の百年記念展示に足を運んだ。映像での記録が残っており、興味深い展示だった。前年(一九一四年)にパナマ運河が開通、米国が太平洋と大西洋をつなぐ大陸国家としての性格を明らかにし始めた頃、運河開通を記念して太平洋に視界を向けた博覧会が華やかに行われた。四五か国が出展、二月から一〇か月の回帰に一九〇〇万人が訪れたという。欧州では第一次大戦が始まっていたにもかかわらず、英・仏・独・オーストリア・トルコなどの交戦国も出展した。何よりも驚くのは日本館の豪華さで、金閣寺のレプリカのようなパビリオンを展開していた。

   正に当時の日本の時代の空気を反映した「ゴールデン・テンプル」であった。一九一五年は日露戦争から一〇年、日韓併合から五年、日本が胸を反らしていた時代であった。一九一二年に明治から大正となり、一四年には第一次大戦に参戦、中国でのドイツの権益を奪い取るため青島を攻略、一五年に中国に「対華二一ヵ条要求」を突きつけた。何故ドイツと戦わなければならなかったのか。明治期に日本から海外留学した多くの若者の七割は、ドイツの世話になったという間柄であった。参戦の理由は、今日でいう「集団的自衛権」、つまり日英同盟に基づく「同盟国支援」である。

   思えば一九一五年は咸臨丸が太平洋を超えてサンフランシスコに入港(一八六〇年)して五五年という時点であり、この博覧会の三六年後にこの地で敗戦国日本との講和会議が行われるのだから、感慨を覚えざるをえない。ちなみにこの前年(一九一四年)東京上野で東京大正博覧会が行われ、エスカレーター、ケーブルカー、国産乗用車DAT一号が登場し話題を集めた。三月から四か月の会期に七四六万人が入場したという。血まみれの欧州大戦を横目に日本が漁夫の利的な繁栄を享受していた。「国富統計」を見ると、一九一三年~一九年までの第一次大戦期に日本は国富を二・七倍に拡大している。
     

 

ウィーン軍事博物館―――第一次大戦の特別展

   昨夏はウィーンの王宮博物館で第一次大戦開戦百年の特別展がなされ、戦時下に死去したオーストリア・ハンガリー二重帝国皇帝の遺体の写真を見た。この夏はやはりウィーンの軍事博物館でサラエボ事件直後のフィルム映像、オーストリア皇太子を撃った拳銃、乗っていた車などの展示を見た。一九一四年に第三次バルカン戦争(第一次バルカン戦争=一九一二年、第二次バルカン戦争=一九一三年)が始まった時、この戦争が欧州全域を巻き込み一〇〇〇万人の屍を積み上げる大戦になるとは誰も思わなかった。背景には、オスマン帝国の弱体化とバルカン諸民族の民族国家形成志向があり、長くバルカン半島を支配してきたオスマン帝国とオーストリア・ハンガリー二重帝国をいう二つの帝国による勢力均衡の構図が崩壊しかけていた。第一次大戦前の欧州において、オーストリア・ハンガリー二重帝国はハプスブルクの栄光を担い、欧州の中核を占め、ドイツ帝国の領土をしのぐハンズを誇っていた。その通貨ターラー銀貨(ハプスブルク家の双頭の鷲の紋章とマリア・テレジアの横顔を刻印)は今日のドルの語源といわれ、世界の基軸通貨の一つであり南欧からバルカン、小アジア、アラビア半島、北アフリカにも流通していた。皇帝フランツ・ヨーゼフは甥の帝位継承者が暗殺されて、セルビアに宣戦布告した。

   第一次大戦はドイツ中欧同盟に対する英仏露(三国協商)という構図で展開された。参戦国それぞれの野心、被害者意識、権益拡大という思惑が交錯、燎原の火のごとく戦火は広がり、各国がナショナリズムを掻きたてる総力戦(国民戦争)となって人類史上かつてない災禍をもたらした。謎めいているのがトルコの参戦で、局外者でいられたはずだが、青年トルコ党が権力を握って以降民族主義に立ち、ロシア支配下のトルコ民族の解放という意識が高揚しドイツ帝国と連帯してロシアと戦う戦争に向かった。一九一六年、戦端を切ったオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフが死去、ハプスブルクの栄光は幕を閉じた。皇位継承者カールは焦燥の中で秘密裏に講和を探るがその動きを暴露され、激怒したドイツの締め付けによりさらに悲惨な戦況に引き込まれていった。

   大戦の結果、地上から多民族を束ねる四つの帝国が消えた。ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国が敗戦国として消滅し、ロシア帝国は大戦中の一九一七年のロシア革命によって崩壊した。帝国主義の時代が幕を閉じようとしていた時に、日本は「遅れてきた植民地帝国」としてこの大戦に参戦したのである。七月二八日にオーストリアが戦端を切ると、八月一日にドイツがロシアに宣戦、三日に仏、四日に英国が対独参戦したが、日本は早々と八月三日には、加藤高明外相がグリーン英大使に「全面的な軍事援助の用意あり」と伝え、参戦外交をスタートさせた。英国は中国沿岸における商戦保護の協力を要請したものの、中国の「中国国内での交戦禁止通告」や米国の「日本の領土的野心の肥大化懸念」を配慮したグレイ英外相は日本の全面参戦には消極的であった。しかし日本は内外の諸問題を解決し、国益を拡大する好機と捉え、日英同盟を理由に強引にドイツ攻撃に動いた。同盟責任など都合のいい方便であった。

   八月八日の元老を加えた閣議で、大隈重信首相は「山東鉄道利権を手に入れたい」と述べ元老の同意も得て参戦を決めた。加藤外相は日本の参戦を渋る英国の本音を隠して「膠州湾は最終的には中国に返還する方針」と説得して膠州湾攻略とドイツ領南太平洋諸島(サイパン、トラックなど)占領に動いた。翌一九一五年一月、日本は占領地返還どころか対華二一カ条要求を突きつけた。これは①山東省ドイツ権益の継承 ②日露戦争で得た旅順・大連の租借期限、満鉄鉄道利権期限の九九年延長 ③製鉄事業の共同経営 ④沿岸港湾・島の他国譲与禁止 ⑤政治・軍事・財政顧問への日本人採用など植民地主義むき出しの内容であった。中国政府の要求内容暴露による反日世論の醸成と米英の講義や国際世論での対日不信の高まりにもかかわらず日本が中国政府に要求を受諾させたのが五月九日で、この日が「国恥記念日」として反日運動の起点となった。

   目の見開かれた日本人はいなかったのか。民本主義の吉野作造でさえ二一カ条要求を「日本の最小限度の要求」と論ずる状況下、石橋湛山が『東洋経済』誌を舞台に「アジア大陸に領土を拡大すべきではない」という筋道の通った論陣を張った。要求直後の一九一五年二月五日号社説「第二の露独たる勿れ」において、日本の帝国主義化への警告を明言し、「転嫁は強い者勝だ。彼れ露独の所有せる所、我が日本が代わってこれを領有するに何の憚る所がある。と放言し、傍若無人の振舞を敢てすれば、是れ正に、我が国が、駆逐せられた露独の横道を行うものではないか。その結果は、やがて又た我が日本が、世界の感情から露独のように頭を叩かれ、放逐せられ、幾十億を投じた経営は悉く没収せらるることなるに相違ない」と述べた。

   一九一九年一月、第一次大戦を終結させ、その後の世界秩序を探るベルサイユ講和会議が行われた。日本は列強の一翼を占める戦勝国として会議に臨んだ。「一等国になった」という自負が滲み出て、西園寺公望首席全権以下一〇六人の代表団を送り込んだ。この会議には仏のクレマンソー、米のW・ウィルソン、英のロイド・ジョージという三人の主役が存在し、世界の運命を決める半年にわたる政治ショーであった。この会議における日本の姿勢については、「ベルサイユ講和会議と西園寺公望」(『若き日本の肖像 一九〇〇年、欧州への旅』、新潮文庫、二〇一四年所収)に書いたが、「人種差別反対決議」や「国際連盟構想」への参加を交渉材料に揺さぶり、山東権益確保を最優先させるというものであった。第一次大戦の戦死者は、連合国側が五二九万人、同盟国側が四八一万人とされ、日本は約四五〇人であった。日本海軍は地中海にドイツのUボート対策で駆逐艦を派遣しており、五七人が戦死したという記録もあるが、憔悴した会議参加国からみれば、日本は「焼け太りを狙うハイエナ」であった。中国は、一九一七年八月にドイツに宣戦布告し、戦勝国として会議に出席していたが、日本の中国への領土的野心に反発して激しい工作戦を展開し、米国の指示を受けて国際世論における日本に対する警戒心の醸成には成果を挙げた。結局、列強が辟易とする中日本の山東理研は認められる決着となったが、中国は講和条約に署名せず、これが「五・四運動」として反日の機運を決定づけた。      

 

「運命の五年間」を見つめた眼―――周恩来、孫文、FDR

  この運命の五年間を主導した日本人を注視すると、幕末・維新を支えた世代が退場し、時代の空気が変化していたことに気付く。既にペリー来航から六〇年、明治維新から半世紀が経ち、当時の平均年齢からすれば維新に成人としてかかわった人の多くは死亡していた。元老のうち井上馨は一九一五年、大山巌は一六年に死去、ベルサイユ会議の時点で生きていたのは松方正義(84歳)と山県有朋(81歳)、「最後の元勲」といわれた西園寺公望(70歳)だけであった。大隈首相は参戦時七六歳であったが、参戦外交と対華二一カ条を主導した加藤外相は一八六〇年生まれで五四歳、英国留学組、日英同盟重視派で、ドイツや中国との意思疎通にこだわる山県、松方ら元老(井上馨は「天佑」として参戦指示)を「カヤの外」に置いて突き進んだ。明治期の辛酸を舐めた元老らとの溝は深まったが多くの新聞や国民世論は熱く参戦外交を支持した。

   この「運命の五年間」を静かに見つめる眼が存在した。その眼が日本の運命を決定づけたのである。一人は後に革命中国において二六年間も首相を務め「不倒翁」といわれた周恩来である。彼は一九歳だった一九一七年、東京で進学準備の生活を始めた。「周恩来『一九歳の東京日記』(小学館文庫)」からは自分の能力に向き合い苦闘する青年周恩来の呼吸が伝わってくる。結局一年七か月の日本留学は受験に失敗し挫折するが、神田の書店を歩き回り、中国新文化運動の旗手、陳独秀らの『新青年』を読み込み、河上肇『貧乏物語』、幸徳秋水『社会主義神髄』、ロシア革命に関する文献にも触れ、社会意識に目覚めた生活であった。皮肉にも社会主義者周恩来の原型を東京が造ったともいえ、進行する欧州での戦争と日本の動きを見つめながら、一九歳としては驚くほど透徹した時代認識を書き残している。「欧州の戦争が終結した後、ドイツの軍国主義はおそらく存続していくのが困難だろう。日本の軍国主義は、またどこかと戦わされるだろう。『軍国主義』は二〇世紀には絶対に存続できなくなると思う。私はこれまで『軍国』と『賢人政治』という二つの主義が中国を救うと考えてきたが、大きな誤りであった」。周は一九一九年四月に帰国し、日本の山東利権確保に抗議する五・四運動に飛び込んでいく。

   五・四運動は、辛亥革命後も袁世凱などの軍閥政権に翻弄されて挫折感を抱いていた孫文を蘇らせた。反軍閥の前衛という性格の中国革命党を中国国民党に改称、民衆を基盤とする革命運動へと照準を定め直し、「帝国主義からの民族の解放と統一」を主張するようになった。彼は、物心両面で支援を続けてくれた梅屋庄吉やアジア主義者・宮崎滔天のような友人を有し、心底から日中連携を模索し、日本こそ中国の理解者たることを期待していた。その彼も日本の変質に失望を深めた。一九二四年一一月、死の四か月前、孫文は神戸で日本人への遺言ともいうべき、「大アジア主義」についての演説をし、次のように問いかけた。「日本がこれから後、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかているのです」(孫文選集、第三巻)

   もう一人、冷ややかな目線を投げかける人物がいた。第二次世界大戦期の米大統領ルーズベルト(FDR)である。FDRは一九一三年から七年間海軍次官補を務め、一九一七年からの米国の参戦に関与、ベルサイユ会議には大統領の随員として同行した。この経験を通じて彼は、欧州の不幸に便乗し中国や南洋諸島に軍を進める日本の拡張主義に不快感を覚えたことに加え、ベルサイユでの日本が、ウィルソンの国際連盟構想への参加を交渉材料に山東権益を奪い取る姿を苦々しく見つめていた。「したたかで矮小な日本」という日本観が、その後の彼の日本への姿勢に影響を与えたことは間違いない。

   こうして「運命の五年間」を振り返ると、今日に通じる課題に気付く。それは中国認識であり、中国に対する平常心を失うと日本は迷走するということだ。百年前の日本は、中国に対する積年の劣等感を優越感に反転させた時代であった。日本はその地理的環境から中国の文明・文化の影響を受けて歴史を歩み、漢字を使い、遣隋使・遣唐使を経て仏教や儒教まで多くを中国から受け入れてきた。「鎖国」とされる江戸期はからごころ(儒学)に対するやまとごころを模索する国学を生み出すなど、中国からの自立の過程でもあったが、日本が幕末・維新を経て蘭学・洋学を取り入れた近代化に先行して富国強兵で力をつけ、日清戦争(一八九五年)に勝利した辺りから、一部の日本人は中国を「チャンコロ」と見下すようになった。尊敬と羨望の対象であった中国が停滞と退嬰の象徴となったのである。阿片戦争を横目に見て、自らが欧米列強の植民地にされるかもしれないとの恐怖心と緊張感の中で開国・維新を迎え、経済力・軍事力を高めるうちに、本来日本が立つべき「親亜」を「侵亜」に反転させ、列強の植民地主義模倣の路線へ入っていく。「運命の五年間」は日本が「遅れて来た植民地帝国」の路線をあからさまにした時代であり、満州国の夢、国際的孤立の中で真珠湾へという未知の起点であった。

   戦後七〇年の現在、日本の中国認識は百年前とは対照的な文脈で平常心を失いつつある。戦後日本人の精神の支えは敗戦国から立ち直りGDP世界第二位の経済大国を作り上げ、中国を始めとする近隣アジアの繁栄は日本の技術基盤の上に成り立っているという自負であった。その誇りと優越感が揺らぎ警戒心と不安に苛まれている。二〇一〇年、中国のGDPは日本を上回り、二〇一四年には二倍、二〇一七年には三倍になると予想される。豊かさの指標とされる国民一人当たりGDPも、二〇一四年の日本は三・六万ドルとシンガポールの五・六万ドルに水をあけられたのみならず、香港の四・〇万ドルにも抜かれ、アジアで最も豊かな国という自己イメージは虚構と化した。優越感は不安と脅威に反転し、輸出先中国経済の失速に脅え、来訪中国人の爆買いに期待する一方、中国を抑え込む手はないかという複雑な精神構造に陥っている。

   その心理が滲み出たのが首相戦後七〇年談話であり、拙速に安保法制を急ぐ意識にも投影されている。談話はアジア太平洋戦争に至る第一次大戦後の歴史認識に触れ、「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました」と述べる。結局、「植民地支配」「侵略」「反省」「謝罪」という村山談話の四点セットを踏襲しているかにみえて、「世界恐慌と欧米のブロック化が戦争の原因」という認識で、真剣に近代史を省察しているとは思えない浅薄さである。中国の爆食的成長と拡張主義の圧力を受けて、日本外交が発信していることは「中国の危険性を世界にアピールし、封じ込める」という点に凝縮される。そこには、成熟した民主国家、平和主義に徹した技術力ある産業国家として敬愛される存在として、二一世紀のユーラシアを包み込む構想力はない。違和感の源泉は何か。民主主義を重んじることなく、戦後民主主義の象徴である憲法を否定し、国家主義的憲法に変えねばと思っている人が、他方で「自由と民主主義」の価値を共有できないとして中国を封じ込めようとする矛盾である。また軍事力を重視し安保法制を推進しながら、他方で南沙問題に関し「武力を以て紛争解決の手段とすべきでない」と主張する矛盾である。日本は民主主義と平和に関して自信をもって一次元高い日本モデルに立ち、「運命の五年間」の教訓をかみしめるべきである。

 
     

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