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岩波書店「世界」2015年3月号 脳力のレッスン155   『蘭学』の再考察と杉田玄白なる存在― 一七世紀オランダからの視界(その27)

 

  「鎖国」といわれた江戸期、長崎出島という細い回路からではあったが、世界の動きは日本にも伝わっていた。世界に向き合った江戸期の知性の原点というべき存在が、儒学者新井白石である。潜入宣教師シドッチと人間対人間として対峙し江戸参府のオランダ商館長や通詞の話に耳を傾け、『西洋紀聞』や『采覧異言』を書き上げ、朝鮮通信使をも驚嘆させるほどの世界認識を白石は示した。白石は洋学研究の草創期を支えた存在であり、中興の担い手は八代将軍吉宗期の医官野呂元丈と儒学者青木昆陽であった。吉宗のオランダからの情報への探求心は並々ならぬもので様々な御下問に商館長も根を上げたというが、野呂、青木の両名にオランダ語学習を命じたのが一七四〇年、研鑚を積んだ野呂は『阿蘭陀本草和解』を刊行、青木は『和蘭文字略考』をまとめ、蘭学の礎を築いた。その昆陽を前野良沢が訪問、オランダ語の教授を求めたのが一七六九年であり、この辺りから蘭学の学習は本格化した。

 ドナルド・キーンの『日本人の西洋発見』(中央公論社、一九六八)は、「長崎出島」なるものを考える上で示唆的である。彼は「出島のオランダ人で教養人・知性人は十指に満たない」と言い切るが、確かにオランダ東インド会社の極東の出先たる出島に配置されていた人間の多くは「利得への意思」を優先させるオランダ商人であり、「自らを卑しめ、キリスト教を捨てても」後進国の為政者に頭を下げ金儲けに執着する人間だったというべきであろう。
 それでもオランダ商館付の医官の中に、大きな役割を果たす知的レベルの高い人たちがいたことも確かである。『日本誌』を残したケンペルやツェンペリー、シーボルトなどだが、ケンペルとシーボルトはドイツ人、ツェンペリーはスウェーデン人である。背景には、極東にまで東インド会社を展開していたオランダのライデンに、一六世紀から一七世紀にかけ欧州の医学研究のセンターが形成されていたという事情がある。日本における「蘭学」がほぼ医学と重なることになった理由を認識しておかねばならない。


蘭学のオランダ側の事情――アカデミズムの隆盛期として

 江戸期の日本で「蘭学」といわれるオランダ由来の学問が花開いた史実については多くの研究がなされているが、それを伝えたオランダ側の事情についてはあまり掘り下げられていない。その意味で、岡山の臨床医師・石田純郎編著『蘭学の背景』(思文閣出版、一九八八)は、何度となくオランダに足を運んで積み上げられた研究成果であり、蘭学がもたらされた日蘭のつながりを考える上で示唆的である。
 一六四八年の独立に至る八〇年間、オランダがスペインからの独立戦争を戦い続けた事情はこの連載でも「なぜオランダは近代の揺籃器になったか」(連載その4)で述べた。オーストリア・ハプスブルク家とスペイン王家の婚姻関係から生まれたカール五世とその息子フェリペ二世が、現在のオランダを含むブルゴーニュ公国の支配者となり、カトリックのスペインによる宗教的抑圧がオランダの自立心を刺激したのである。

 現在オランダ領となっている地域には、一五七五年にライデン大学が創設されるまで大学はなかった。正確に言えばネーデルランドに大学ができたのは一四二五年であるが、ルーベンとドラエであり現在はベルギー領である。北部のホランド州のライデンに大学が創設されることになった背景には対スペイン独立戦争の曲折がある。一五六八年に始まったその独立戦争を支えた指導者が総督オラニエ公ウィレム(英語名オレンジ公ウィリアム)であった。彼は、一五三三年にドイツで生まれた領主の子であったが、一五五九年にフェリペ二世によって北部オランダ地域のホランド・ゼーランドおよびユトレヒトの総督に任命された人物で、あくまでもスペイン支配下の管理官にすぎなかった。ウィレムは過激な反スペイン運動には距離をとる穏健派だったが、フェリペ二世の過酷なプロテスタント弾圧に対して次第に反発を強め、一五六八年に武装反乱の指揮をとり、独立戦争の先頭に立った。大きな転機が一五七四年一〇月の「ライデン解放」であり、ライデンを包囲していたスペイン軍を撤退させ、これを機に「プロテスタント牧師の養成と指導者の育成」を狙いとする大学の創設が計画されたのである。不思議なことに、スペイン王の名の下に大学創設が発布されており、この時点での独立戦争の微妙な性格が映し出されている。ライデンは解放されても独立戦争は続いていた。北部七州による「ユトレヒト同盟」の結成は一五七九年、一五八一年にはフェリペ二世への「臣従拒否宣言」という展開となり、ライデン大学創立の時点では、建前上はスペイン王の権威を持ち上げて大学設立を実行したのである。スペインとの一二年間の休戦協定が成立して実質的独立を確保したのは一六〇九年、つまり日本では関ヶ原を経て、江戸幕府がスタート(一六〇三)して六年、二代秀忠の時代であった。

 ライデン大学創立以降、オランダでは七〇年間で六つの高等教育機関が設立された。オランダ・アカデミズムの黎明期であり、通商国家オランダの台頭と相関していることはいうまでもない。その中で、欧州における医学研究の中心がイタリアからライデンへ移ったといわれる。そして、ライデン大学からシルビウス、ブールハーヴェなどの優れた医学者を輩出する。つまり、一七世紀の日本に伝わった蘭学は、興隆するオランダ・アカデミズム、とりわけ医学の熱気だったのである。
 石田氏の著作に触れ、日本の医大には「医史学」の講座がほとんどないという事実を知った。調べてみると、そもそも「医学の歴史」の研究者がいないのである。これが日本の医学教育の現実で、明治期に軍医育成を急ぐためにオランダやプロシアの軍医学校のプログラム導入に傾斜したからだという。

      
『蘭学事始』の時代――― 蛮学が蘭学に変わった瞬間

 江戸期前半の日本では、人体の内部構造は「五臓六腑」という中国伝来の医学(中医)による概念図が常識とされていた。その常識を西洋医学の成果を導入して覆す先達となったのが杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢であった。その間の経緯を書き記したのが『蘭学事始』であり、一八一五年、八三歳になった杉田玄白が下書きした回想録に弟子の大槻玄沢が手を加えまとめたものだ。実は、『蘭学事始』が刊行されたのは明治になってからである。大槻玄沢が校正した玄白の所蔵本は、安政の大火で玄白宅とともに焼失してしまった。弟子筋が保有していた写本の一冊が偶然にも本郷の夜店で見つかり、その写しを手に入れた福沢諭吉が支援する形で、一八六八(明治二)年に出版された。この書物への福沢の感慨「我々は之を読む毎に、先人の苦心を察し、其剛勇に驚き、其誠意誠心に感じ、感極まりて泣かざるはなし」(明治二三年再版の序)が残っている。

 江戸期には蘭学興隆以前から、栗崎流、カスパル流などと言われる西欧由来の医術である「オランダ外科」は存在した。栗崎流とは、栗崎道喜(一五六八~一六六一)を開祖とする医術で、天正年間の一五九〇年頃フィリッピンのルソン島に渡り南蛮医学を学び帰国、長崎で栗崎流の西洋医術を伝えた。また、カスパル流とは一六四九年のオランダ特使に随行していた医師カスパルに由来する。『蘭学事始』には彼について、一六四三年に南部山田浦にオランダ船ブレスケン号が漂着し、狼藉に及んだ乗組員が江戸に送られるという事件が起り、この船に乗っていた医師カスパルが江戸でオランダ流医学を教えたとあるがこれは明らかに誤りである。事実はこの事件などを巡る日蘭関係の緊張を打開するべくオランダが送った特使に同行したのがカスパルで、一六五〇年、江戸に半年以上滞在して医術を伝習、通詞猪股伝兵衛他が師事、カスパル流外科という足跡を残した。ただし、「オランダ外科」は文献研究や実証に基づくものではなく、あくまで「技・術」伝承の域を出ず、南蛮・紅毛渡来の魔法の医術であった。『解体新書』の翻訳は文献と実証による臨床医学への地平を拓くものだった。

 そうした挑戦の中心に立った杉田玄白は、三代にわたる越前小浜藩の藩医の子として、一七三三年、江戸牛込の小浜藩邸で生まれた。父の赴任に伴い八歳から一三歳の少年期を小浜で過ごし、一七歳から漢学と医学を学び二一歳で自らも小浜藩医となった。玄白を調べる中、思いがけぬ名に出くわした。「沢野忠庵」である。祖父の初代杉田元伯甫仙が小浜藩主酒井家の藩医になったことが玄白が医者としての人生を歩む契機だったが、その甫仙が医術を学んだのが長崎出島の通詞でもあった西玄甫であった。その西が「蕃人沢野忠庵なる者に従って業を受ける」という記述に出くわしたのである。ドキリとした。沢野忠庵こそ、「転び神父」として残酷なキリシタン弾圧の手先となったイエズス会宣教師クリストファン・フェレイラ(一五八〇~一六五〇)なのである。この連載でも沢野忠庵については言及したが、イエズス会の日本管区の代理管区長でありながら、長崎で「穴吊り」の拷問を受けて「背教者」となり日本人女性と結婚、長崎奉行御用人となって潜入宣教師らの尋問に当たったという人物である。 沢野忠庵と医学の関係については、長崎大学医学部教授だった中西啓の『長崎のオランダ医たち(岩波新書、一九七五)という著作がある。フェレイラは宣教師としてイエズス会の教会医学を学び、棄教して日本人となった後、「オランダ商館に出入りして新しいライデン大学の医学、それも薬物学の体系を理解しようと努力した」。そして、西玄甫などの弟子を育てそれが杉田玄白に繋がっていくのである。想像の中でこの過酷な人生を送った沢野忠庵に光が灯ったような気持になった。「フェレイラ神父も沢野忠庵となって、歴史に揉み消されながら何か役立っていたんだな」という思いが込み上げてきた。仏教徒になったといわれる沢野忠庵だが、背教者と蔑まれながら国境や宗教を超えて人間として生き抜き必死に歴史に爪痕を残そうとしたのかもしれない。

 一七七一(明和八)年、玄白三九歳の年が蘭学にとって大きな意味を持った。同じく小浜藩医で後輩の友人中川淳庵の仲介で、江戸参府中のオランダ商館長一行(商館長はダニエル・アルメノー)から『解体新書』の原典となる『ターヘル・アナトミア』を購入する。「我が家も従来和蘭流の外科を唱ふる身なれば、せめて書筐(しょきょう)の中にも備え置きたきもの」(『蘭学事始』)と思い、小浜藩に購入を打診して買ってもらったという。前年良沢も長崎で入手しており、この本を手にした二人は、この年三月江戸小塚原で女性の刑死体の解剖に立ち会い、図の正確さに驚き翻訳を決意した二人が入手した『ターヘル・アナトミア』とは、ドイツ人クルムスの『解剖学表』オランダ語訳の一七三四年版で、高度な専門書ではなく下級医者のための簡易人体手引書であった。それでも当時の日本人にとって驚天動地の人間観の転換ともいえる文献であり、鉄砲洲の豊前中津藩の中屋敷内の良沢宅で翻訳作業が始まった。それが現在の中央区明石町の聖路加病院の隣接地で、「蘭学・洋学発祥の地」の記念碑が立っている。『蘭学事始』を読み、玄白に関する諸研究、片桐一男『杉田玄白』(吉川弘文館、一九八六)、杉本つとむ『知の冒険者たち―――「蘭学事始」を読む』(八坂書房、一九九四)などに目を通すと彼の人物像が見えてくる。際立った研究者というよりも、教養豊かな懐の深いまとめ役で、江戸における藩医のネットワークの中心で、全国から百名を超す門弟が集まり「天真楼塾」を構えていた。つまらぬことだが、彼は清貧の医者ではなく懐豊かな知識人だった。六九歳(一八〇三)が年収のピークで何と六四三両との記録がある。同じく医者であった本居宣長のそれは九六両(一七八一)、同時代の作家滝沢馬琴が四〇両前後というから驚きである。

 


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