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岩波書店「世界」2014年7月号 脳力のレッスン147 強靭なリベラルの探求――閉塞感を超えて細川「脱原発」・集団的自衛権・アベノミクスを論ず

  異様な物憂さの中で二〇一四年の上半期が過ぎ去ろうとしている。この半年、何が動いたであろうか。アベノミクスなる金融政策に過剰に依存した景気浮揚策もそのシンボル指標ともいえる株価(日経平均)も、年初の一・六万円台から一・四万円前後を揺れ動くところに下落し、実体経済と乖離した株高幻想も構造的限界をみせ始めた感がある。また、猪瀬前知事の金銭疑惑から唐突に行われた東京都知事選において「脱原発」を掲げた細川元首相の無残な敗北は、この国の原子力のあり方という重い課題に何の方向付けも示さないまま、原発の再稼働と海外輸出への道を開く導線になった空虚感がある。さらに、「日本を取り戻す」のフレーズの下に進行する特定秘密保護法から集団的自衛権の行使容認まで、古い国家主義への回帰を思わせる政治状況、さらには近隣の国との寒々とした緊張とウクライナ危機が炙りだした世界の地政学的変化の中に迷走するこの国の姿に、閉塞感を覚えざるをえない。

 私にとってこの上半期は、連載「脳力のレッスン」の四冊目の単行本を『リベラル再生の基軸』(岩波書店)として出版してからの半年であった。連載読者の方々はお分かりのごとく、これは「アベノミクスなる株高に幻惑された一億総保守化」ともいうべき時代の空気の中で、疑似リベラルたる民主党の自壊を問い詰め、真のリベラル再生の基軸とは何かを模索する作品である。特に、東日本大震災の衝撃を受け、原子力問題という深刻な課題を突き付けられ、戦後日本の本質が問い返される中での私自身の知的格闘の軌跡でもあった。

 幸い様々な立場で日本の進路を考える人々の議論の叩き台となり、連合など労組や市民運動の研究会、中小企業経営者の経営塾、さらには自民党の国家戦略本部でもこの本を軸とする講演と議論の機会を得た。思えば、自民党も「リベラル・デモクラティック・パーティー」であり、「保守リベラル」という人達が主軸を形成した時代もあった。宮澤喜一が「リベラルとは一億一心とは真逆の考え方」と語っていた姿を思い出す。またこの半年、米国・欧州・アジアを動いて語り合った人たちの日本への目線も心に残る。多様なリベラルを柔らかく糾合し、この閉塞感を突き破っていかねばと考えている。

 かかる状況下で正気の知性を取り戻すために、もう一度思い出したいのが高村光太郎の「火星が出てゐる」という詩である。夜机に向かいながら私はこの詩を静かに心に言い聞かせている。「・・・ 要するにどうすればいいか、といふ問は 折角たどつた思索の道を初にかへす。 要するにどうでもいいのか。 否、否、無限大に否。待つがいい、さうして第一の力を以て、そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。 予約された結果を思ふのは卑しい。 正しい原因にのみ生きる事。 それのみが浄い。 お前の心を更にゆすぶり返す為には、もう一度頭を高く上げて、この寝静まった暗い駒込台の真上に光る あの大きなまつかな星を見るがいい。 火星が出てゐる。・・・ 」


細川元首相は何故惨敗したのか―――虚弱なリベラルの敗北

 

 ダブルスコアでの惨敗であった。三月の都知事選、当選した舛添要一の得票は二一一万票に対し、細川護煕の得票は九五・六万票で、次点の宇都宮健児(共産・社民推薦)の九八・三万票にさえ届かぬ第三位での敗北であった。小泉・細川という二人の元首相を配し、争点の単純化で民衆の心を駆り立てる「劇場型政治」の大団円を見るのかと捉えた人もいたが、結果は投票率四六・一%に象徴される「冷ややかな反応」で、都民は戸惑いの中で「消去法による選択」を余儀なくされた。

 なぜ、細川護煕は敗れたのか。その考察の中に、現状における「リベラル」の限界と、新しいリベラルの要件が見えてくる。細川・小泉の「脱・原発論」の虚弱さと限界は、一つの質問を投げかけることによって明確になる。それは野田民主党政権が「革新的エネルギー政策」として提示した「脱・原発」政策に対して、私が「総合資源エネルギー調査基本問題委員会」(経産省)のメンバーとして再三問いただした論点でもあるが、「米国との関係をどうするのか」という一点である。
 戦後日本が建設した五四基の商業用原子炉はすべて米国製であり、核燃料の供給も含め、一九五三年のアイゼンハワーの「原子力の平和利用宣言」以来、米国の原子力政策の川下に置かれてきた「受け身の受容者」という認識を日本人はとりがちである。しかしこの八年間で日米間の原子力における位相は大きく変化した。スリーマイル島の事故から三三年間、米国内には一基の原発も建設してこなかったという事情を背景に、二〇〇七年には東芝がウェスチングハウスの原子力事業を買収、日立とGEが原子力分野での合弁事業を設立、三菱重工はフランス・アレバ社と中型原子炉分野での合弁会社を設立するなど日本産業が世界の原子力産業の中核主体になった。日本製鋼所の室蘭工場はロシアを含め世界の原子炉圧力容器供給の八割のシェアを占め、日本の産業協力なしに世界の原子力産業は動かないという事態になっているのである。

 つまり、一九五五年の日米原子力研究協定、一九六八年の日米原子力協定と積み上げ、それに基づく「日米原子力共同体」というべき構造を構築してきており、日本が本気で「脱原発」を目指すならば、「日米原子力共同体をどうするのか」に明確な政策を示さなくてはならない。「米国の核の傘の外にでて脱原発を進める」というのであれば、論理的には一貫している。多くの日本人は「中国・北朝鮮の脅威を考えたならば、米国の核の傘には守られたいが、脱原発は進めたい」と考えがちであり、細川・小泉両元首相も「安全保障とエネルギーの議論は別だ」と思っているようで、一切踏み込もうとしない。核の議論は、軍事利用の原爆と平和利用の原発がコインの裏表のように絡みついているから悩ましいのである。

 「核廃棄物の最終処理のシステムが確立していない限り原発稼働は不条理」という局地的真理を突き、作家・音楽家・宗教家など文化人が主張する「原発は等身大の技術ではなく制御不能で非倫理的」というメッセージと連携して、細川・小泉両氏は「脱原発、反原発」を訴える。だがそれだけでは責任ある政策科学の議論ではない。まず、少なくとも米国と正面から向き合う覚悟がいるということだ。冷戦後のアジア太平洋の秩序構築に向け、日米同盟を根底から見直す問題意識もなく、「対米協力」を政策軸としていた細川・小泉両氏に「脱原発」に向けて米国と向き合う気迫も覚悟も私には期待できない。このお気楽な無責任さが、これまでのリベラルの虚弱さとなっているのである。私は『リベラル再生の基軸』において「リベラル必ずしも脱原発ではない」という主張を展開してきた。もちろん、私は原発推進派ではない。原発の経済効率が良いとも、CO2を出さないから環境にやさしいとも思わない。チェルノブイリや福島のような事態を起こせば、コストや環境における優位性など吹き飛んでしまう。私がこだわるのは「原子力の技術基盤の維持と進化」である。世界のエネルギー地政学を睨み、IEA(国際エネルギー機関)やIAEA(国際原子力機関)などに何回となく足を運び議論を通じた熟考の上、日本は単純に原子力に背を向けてはならず、原子力の技術基盤を大切にすべきだと思うからである。

 安全神話から目覚め、福島の現実を直視して原発に依存しない社会を目指すことには共感する。同時に日本が置かれた国際的位置を冷静に認識すべきだと思う。日本が「脱原発」に踏み込んだとしても、二〇三〇年までに八〇基・八千万kWの原発を目指す中国をはじめ韓国・台湾、ロシアの動きを視界に入れるならば、少なくとも一〇〇基以上の原発が日本を取り巻いているであろう。また、我々は福島を凝視して議論するために五〇年前の第一世代原発に焦点を当ててしまうが、既に第三世代以降の安全性能が根底から異なる原発、さらにはトリウム原発や小型原発の開発の段階を迎えつつある。
 順次原発を廃炉にするためにも人材と技術基盤は不可欠である。今日までに戦後日本は三・八万人の「原子力工学科」の卒業生を世に出し、また、五四基の原発を建設・稼働させるために、官民合わせて一〇〇兆円を超す国富を費やしてきた。全ての議論に「安全」が優先すべきことは論をまたないが、日本が採るべき原子力政策に関する私見は『リベラル再生の基軸』でも論じたごとく、簡明にいえば「非核のための原子力技術基盤の維持・蓄積」である。つまり、IAEAを舞台に「核無き世界」を主導するためにも、日本自身が平和利用に徹した原子力技術基盤を維持・蓄積すべきであり、技術と人材を失ったならば、国際社会に貢献も発言もできなくなるということだ。日本の協力なしには米国も原子力発電プロジェクトを進められないという現実を交渉力として真摯に米国に向き合い、日米協力で核の廃絶と原子力平和利用での安全性の進化に向けて世界をリードすべきである。そのためにも民間電力会社がオペレーションし規制庁が監視するという現在の原子力推進体制を見直し、「国家がより一層責任を持つ体制」が必要なことはこれまでも主張してきたとおりである。

 リベラルの虚弱さは、ともするとキレイゴトの言葉に酔いしれ政策科学的構想力に欠けることに由来する。観念論を超えて、経済の現場に生きる大多数の国民の理解と共感をえられる政策論にならなければ、やがて「脱原発」はかつて夢想した「非武装中立論」の運命を辿るであろう。リベラルは敗北の美学であってはならない。「原発は等身大の技術ではなく、原子核の制御は可能という人類の思い上がりがもたらした危険で非倫理的なエネルギー源」という文明論的問題提起には真摯に向き合う必要がある。しかし、遺伝子工学にも通じる危険を内在させるとしても近代とは科学技術とデモクラシーを両輪とする挑戦であり、その探求は善悪双方のポテンシャルを高め続ける。ここで怖れ萎縮してはならないと思う。ハンス・ベーテなど宇宙科学の成果を受け止めるならば、太陽エネルギーの源泉は核融合であり、太陽とは「重力で閉じ込められた巨大な水素プラズマ」であり、巨大な核融合炉である。巨大すぎて人知の及ばぬ制御不能の世界と考えられがちだが、現在は制御不能でもイカロスのごとき失敗を積み上げても、科学的挑戦は人類の未来にとって必要である。
      
集団的自衛権再考―――求められるのは対米関係総体の再設計

 

 虚弱なリベラルを脱却する思考の基軸を見つめるならば、実は戦後七〇年近く敗北を抱きしめ、あまりも影響を受けてきた米国といかに向き合うかが根幹に横たわるテーマであることに気付く。現在、喫緊の課題とされる集団的自衛権の行使容認問題も、米国との関係を本質的に再考しない限り、日本人が奇妙なトラウマに埋没したまま、世界的には「周回遅れの議論」に時間を費やしていることになるであろう。
 ソ連崩壊後、冷戦を前提とした安全保障体制の見直しが世界潮流となった。同じ敗戦国だったドイツは一九九三年に在独米軍基地の縮小と地位協定改定に踏み込んだ。それを横目で見ながら日米双方の「日米安保で飯を食う一群の利害関係者(安保マフィア)」が、日本側の同盟負担を維持するために強調し始めたのが「集団的自衛権」である。「日米安保は片務条約であり米国が日本を防衛する義務を負うが日本は米国を守る義務はない」との論点を浮上させ、基地縮小や負担軽減の流れを抑え込む心理的圧力として日本側が容易には踏み込めない集団的自衛権というハードルを提示してみせたのである。

 「生真面目な愚かさ」で日本側はこれを受け止め、「アジアで冷戦は終わっていない」「日米安保はアジア安定の公共財」などと正当化し、九六年「安保再定義」、九七年「新ガイドライン」と、本来なすべき日本側負担の軽減ではなく「軍事同盟の深化」を図っていった。二一世紀に入っては9・11後のブッシュ大統領が叫ぶ「テロとの戦い」(米国の力で米国の正義を実現する戦争)に呼応し、インド洋、イラクへと自衛隊を送り、さらに「普天間基地―辺野古移設問題」を抱え込んできた。
 駐留米軍経費の七割を日本側が負担し、しかも占領軍時代の地位協定に近い専有権を与える軍事基地という米国が海外に展開する基地の中でも例外的な基地を提供している日本がさらなる負担にコミットする必要はないのだが、常にトラウマのごとく持ち出されたのが集団的自衛権である。今回、「集団的自衛権の行使容認」を提案した「安保法制懇」なる有識者会議のメンバーを注視すれば、ほとんどがイラク戦争への自衛隊派遣を支持し、「イラクの失敗」につながる戦争の本質を見抜くことなく「カネだけでなく人的貢献を」と語り、今米国自身さえ省察している戦争に拍手を送った人たちである。
 しかも、この数年、集団的自衛権に対する米国の本音は大きく変わっている。日本人は「米国の戦争」に巻き込まれると議論しがちだが、米国側からすれば「日本の戦争」に巻き込まれる可能性が出てきたのだ。尖閣を巡る日中対立が軍事衝突になれば米国としては願い下げの「米中戦争」に引き込まれる懸念が現実となり、日本は「迷惑な同盟国」となる。

 四月末に来日したオバマ大統領も、日本側の同盟負担の増大という文脈では「集団的自衛権見直しに理解」を示したが、「東アジアでの緊張を引き起こさないでくれ」という本音を何度も強調していた。日本側は「尖閣は日米安保の対象」とのオバマ発言を本領安堵された御家人のように有り難く受け止めているが、「尖閣の領有権にはコミットしない。施政権は日本にある。同盟責任を果たす」というのは一貫して米国が示してきたスタンスであり何も新しいものはない。米国の意図は日中双方に配慮し双方の期待をつなぎとめることである。
 日本は「日米で連携して中国の脅威を抑え込む」戦略を展開しているつもりで、「沖縄米軍もそのために存在する」と期待する。だが、米国のアジア戦略の基軸は「アジアにおける米国の影響力の最大化」である。単純に「米中覇権争いの時代」と認識するのは間違いで、米中間に懸案事項は山積しているが、習近平就任以来の「米中首脳会談」「米中戦略経済対話」の内容を見ると、「新しい大国関係」として意思疎通を深めている点に注目すべきであり、「間違っても米中戦争だけは回避したい」という明確な共通意思が存在している。

 集団的自衛権に踏み込むことが、仮想敵国の攻撃をためらわせて戦争を回避する「抑止力」になるという説明は軍事オタクの空論で、核装備すれば相手は攻撃をためらうという「核抑止論」にそのままエスカレートしていく論理である。軍事の論理ばかりが先行し、外交が後退している。最も賢い安全保障は脅威を作らないことであり、集団的自衛権だと大騒ぎして近隣との緊張を高めては大局的国益を損なう。
 世界潮流を見ると、NATOも集団的自衛権の下に統一した軍事行動をとる時代ではなく、シリアやウクライナ問題に対しても個々の加盟国が主体的意思で行動する傾向を強めている。来年、ASEAN共同体に踏み込む東南アジアも、南沙・西沙問題を抱えながらも「集団的自衛権で中国と向き合う」などとはいわない。主体性が求められる時代なのだ。日本も米国への過剰依存と過剰期待を前提にアジアと向き合う時代を超えていかねばならない。常識に還ること、「独立国に外国の軍隊が駐留し続けるのは不自然だ」という基本的常識を取り戻すことが二一世紀日本の基軸でなければならない。
 我々が何を忘れているのかを確認するために、明治以降の時代を生きた日本人ならば教養の前提として一度は読み、何らかの影響を受けたであろう福沢諭吉の根幹の思想を引用する。

 「・・・国の文明は形を以て評す可らず。学校と云ひ、工業と云ひ、陸軍と云ひ、海軍と云ふも、皆是れ文明の形のみ。この形を作るは難きに非ず、唯銭を以て買ふ可しと雖ども、こゝに又無形の一物あり、この物たるや、目見る可らず、耳聞く可らず、売買す可らず、貸借す可らず、普く国人の間に位して其作用甚だ強く、この物あらざれば彼の学校以下の諸件も実の用を為さず、真にこれを文明の精神と云ふ可き至大至重のものなり。蓋し其物とは何ぞや。云く、人民独立の気力、即是なり」(『学問のすゝめ』第五編)。
 様々な評価のある福沢だが、日本近代史の劈頭に屹立するその神髄を受け止めるならば、文明の中核を「独立の精神」とし、「独立とは自分にて自分の身を支配し他に依りすがる心なきを云ふ」という点に凝縮できるであろう。今新たなる文脈でこの一点を思い起すべきである。日本人は中国・韓国との緊張の中で「近隣の国にはなめられたくない」という次元のナショナリズムに吸い寄せられている。しかし、この国が「人民独立の気力」をもって向き合うべきは戦後なる七〇年間に依存と期待と甘えの構造に浸ってきた米国との関係である。
     
アベノミクスの臨界点―――取り戻すべき「健全な資本主義」

 

 私は二月号の本連載「二〇一四年、日本の死角―――覚醒の年への思い」において、「異次元の金融緩和と財政出動を誘発剤として外国人の投資を誘い込んで形成してきた株高は危うい臨界点に差し掛かってきた」と述べた。事実、年初に一・六万円水準にあった日経平均株価は二千円近く沈みつつある。理由は日本株高騰を支えてきたヘッジファンドを主体とする外国人投資家の日本株への買い越しが、一昨年一一月一六日の解散総選挙以来の累計で昨年末に一六・九兆円に達していたが、五月一六日現在は一五・六兆円となり、今年に入って一・三兆円の売り越しとなったためである。
 海外でよく質問されるのは「何故日本人は日本株を買わないのか」という点であるが、前記の五月一六日までの一年半の期間、日本の機関投資家(法人)の売り越しは五・四兆円、個人投資家の売り越しは八・六兆円で、日本人は合計一四兆円売り越してきた。つまり、「アベノミクス礼賛」と表向き評価しているようだが心底は冷たく、外国人が買ってくれるのを受けて売りぬいてきたのである。理由は明確で、八九年末の日経平均が三・九万円台だったのをピークに二四年間も低迷を続け、二〇一二年平均の九一〇八円から一・四万円台に上がったといってもようやくピークの三分の一に戻ったという心理で、簡単に株に信頼が戻るというものではないのだ。

 外国人投資家の主力であるヘッジファンドは、株・債券・不動産・為替、あらゆる金融商品の動きから「利鞘を掬い取ること」をビジネスモデルとするマネーゲーマーであり日本産業の復活を願って投資しているわけではない。投資行動の本質は「売り抜く資本主義」だ。三月末から四月にかけて米東海岸を動き、ヘッジファンドのキーマン幾人かと会う機会があった。今春話題となった映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の登場人物のような粗野なカネの亡者とは異なり、高学歴の怜悧なエリートであった。彼らはアベノミクスを驚くほど冷静に捉えていた。その本音を私なりに集約すれば、「日本の超金融緩和と財政支出拡大は我々にとっての好機で、この草刈り場的環境は享受する。だが長期的に考えて日本人にとって適切な政策とも思わない。日本が本当にやるべきは財政の健全化と減税、それも法人税減税ではなく国民を豊かにする減税だ。為替を安く誘導するだけの政策で長期的に産業と国民生活を豊かにすることはできない。我々は世界の金融構造の変化を見極めて行動するだけだ」というものだ。

 その世界の金融構造は、超金融緩和の先頭を走ってきた米国が金融引き締め基調に転じ始めている。FRB(米連銀)はQE3といわれた量的金融緩和を昨年末から圧縮してきており、バーナンキに代わり二月に議長に就任したイェレンも「一五年には金利引き上げ」を模索すると発言し始めている。〇八年末以来、「ZERO金利」を続けてきた米国が金利の引き上げと金融引き締めを本格化させれば、世界の資金が米国に還流することが予想され潮の目の変化の入口にあるといえる。
 本格的金融引き締めに米国が動くのは、米国の実体経済が回復基調を強めているからである。シリアやウクライナ情勢を注視して分かるごとく、米国の世界を制御する力は失われており、「一極支配」などといわれた面影はない。だが、皮肉なことに米国自身の経済は追い風の中にある。理由は二つで、「シェールガス・シェールオイル革命」といわれる化石燃料要素と「次世代ICT革命」といわれるIT革命の新しい局面である。安価な化石燃料が大量に国内生産されることにより、「双子の赤字」といわれた経常赤字と財政赤字も四~五年前に比べ二〇一三年度は半減した。一〇%台だった失業率は六・六%(三月)まで下がり、今年の実質GDP成長率も三%を超すと思われる。加えて、「ビッグデータ」「クラウド」といわれる情報ネットワーク技術革命の進化が米国の産業競争力を高め、新たな活力を生み出しつつある。実体経済が好転すれば金融引き締めに動くのは当然の流れで、新興国から米国への資金還流が予想され、日本に資金を流入していた外国人投資家も新たな判断を要する局面が近づいている。

 株価が景況感を支えるアベノミクスにとって「何としてでも株価は維持しなければ」との思いがその推進者の心を覆うのは当然である。その株高もヘッジファンド依存の危うい構造であるため「外資が売っても株価維持のために日本人のカネを株式市場へ」という思いが凝縮されたのが少額投資を促すNISAのキャンペーンであり、年金基金を株式市場に投入する模索である。年金は安定運用されねばならないはずだが、既に運用委員まで積極運用論者に入れ替え、GPIF一二八兆円の基金のうち二二兆円が株式市場に投入され始めた。なりふり構わぬ株高誘導のリスクはやがて国民に回ってくる。

 マネーゲームはともかく、実体経済はどう動いているのか。これだけ金融緩和をすれば、GDP、鉱工業生産、設備投資も若干は上向いたが、株価が一昨年比七割も上がったほどではない。企業業績も円安の恩恵や保有株式の洗い替えで表面業績が好転している企業もあるが、基盤経営力が強化されてはいない。気になるのは、円安反転による「輸入インフレ」で、原材料資材が一昨年に比べ二割以上も高騰している一方、所得が伸びていない現状で価格を上げれば益々売れなくなるため、最終製品は上げたくても上げられぬ状況で、「原材料インフレ、最終製品デフレ」の構造が極端になっていることだ。重要なのは国民の所得は伸びるのかだが、三月までの統計では「前年同月比で賃金指数は0・六%増、現金給与総額は0・七%増、勤労者家計可処分所得は一・三%減」と所得は微増で、税・年金・保険などを払って実際に使えるカネはむしろ減っているのである。一部の企業の「ベースアップ」が華々しく報じられるが、四月の消費増税もあり現実に日本で進行しているのは分配における「格差と貧困」である。昨年の生活保護の給付基準を六・五%切り下げ、それにより住民税の課税最低限が上がったこと、年金もわずかだが切り下げられたことなどで、低所得層には一段と息苦しい時代になっており、株を売って懐が厚くなっている人との格差は拡大している。

 「第三の矢」といわれた成長戦略はどうなったのか。結局、ビジョン計画が語られるだけで実行計画・プロジェクト企画には至っていない。円安に反転させても輸出は伸びず、三年連続で貿易収支赤字が拡大している現状を受け止めれば、従来の「工業生産力モデル」だけで国を豊かにする戦略は限界に達しており、付加価値の創出について新しい構想力が問われている。マネーゲームに翻弄されることなく、かつ「ものつくり国家」への頑なな陶酔でもない、柔らかい知恵が必要だ。昨年の日本の一人当たりGDPは三・九万ドル、シンガポールは五・三万ドル、デンマークは五・八万ドルで、日本は世界二三位であった。先進国モデルに拘泥せず、工業生産力を持たない中堅国が「目に見えない財」(技術・システム・ソフトウェア・サービス)で付加価値を生み出し成長につなげていることこそ参考になる。「工業生産力で外貨を稼ぎ、食料などは海外に依存した方が効率的」という時代を作ってきた戦後日本だが、「健全な経済社会と国民の豊かさ」という原点に還って次の時代を構想しなくてはならない。世界GDPの四倍を超す金融市場(株式市場の時価総額と債券市場総額)という現実が突き付けるマネーゲームの肥大化に対し、強靭なリベラルは「公正な分配」を求め柔らかい問題意識で対峙するべきだ。

 



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