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岩波書店「世界」2014年6月号 脳力のレッスン146 「国交なき交易」としての江戸期の日中関係 - 一七世紀オランダからの視界(その22)

  日本人として世界認識を自問する時、苦慮するのは歴史的位相の中で中国をどう認識するかである。多くの日本の知識人も「中国」を悩み抜いてきた。ユーラシア大陸の東に位置する島国という地理的宿命によって日本は中国に深く影響を受けてきた。進化生物学者ジャード・ダイアモンドは、近代史における「西欧の覇権」が民族の能力差によるものではなく、単なる地理的有利性の結果であることを論究したが(『銃・病原菌・鉄』、邦訳:草思社)、日本にとっては中国の隣に在る列島ということがこの国の運命を左右してきたのである。

 網野善彦は『日本論の視座』(小学館、二〇〇四年)において、日本という国号そのものが中国大陸に視座を置いており、「中国大陸の唐帝国を強く意識して用いられてきた」こと、日本人の心にある「太陽の昇るヒムガシ(東)をよしとする列島の根強い志向」が投影されたものだとの視座を提起している。
 二〇〇〇年を超す中国との交流史の中で、江戸時代における日中関係が如何なる意味を持ったのか、そしてそれが今日に至る日中関係にどう関わるのか、思索を深めておきたい。


中国との歴史的位相の確認―――中国観の深化の必要

 この連載では既に「日本の大航海時代――鎖国とは中国からの自立でもあった」(連載その8)という論稿で、江戸時代が中国においては「漢民族の明から満州族の清への混乱期」であったことを背景に、日本にとって影響を受け続けてきた中国からの「文化的・精神的自立の過程」でもあったことに言及した。寛永通宝の発行(一六三六年)など流通貨幣の国産化、大和暦の採用(一六八五年)などをその象徴として取り上げた。今回は一歩踏み込み、江戸期の日中関係が「国交なき交易」、つまり政治的な外交関係のないまま貿易は持続的になされていた「政経分離」の時代であったことを確認しておきたい。そのことは歴史における日中の位相を認識するために重要である。実は「四つの口」といわれた江戸期の海外との交易接点も、詰まる所、すべて対中国貿易の窓口であった。長崎口も出島におけるオランダとの交易の印象が強いが、後述するごとく主力は「唐人屋敷」に象徴される対中貿易であった。対馬口は朝鮮との交易口だが生糸など中国産品の流入口でもあった。薩摩口も琉球経由の中国産品の交易ルートであり、松前口も「山丹貿易」といわれた北方民族経由の北からの中国産品の輸入窓口で、「蝦夷錦」の名で中国原産の絹織物が流入し、北前船で江戸や上方にもたらされ愛好されたことは既に触れた。つまり相当量の中国との交易は継続していたのが「鎖国」といわれた時代の現実であった。
 何故正式の国交がなかったのか。既に触れたように、江戸時代初期の一七世紀前半は明から清への混乱期であり、台湾を拠点に明朝の復興を掲げて活動していた鄭成功が四回にわたり幕府に支援要請したこともあり、明朝に同情する幕府の清朝に対する評価が定まらなかった。加えて国交に伴う儀礼や外交文書の作成の煩わしさも壁となった。「小中華」朝鮮の李王朝との国交さえ苦しみぬいていたわけで、後ろに控える「大中華」清とは「国交なき交易」関係が現実的だったといえる。
 長い歴史時間における日中の関係は微妙で、日本は深い文化的影響を受けたが政治的に支配されたことも軍事的に制圧されたこともない。二〇世紀日本を代表する東洋史家、宮崎市定(一九〇一~九五)は「東洋史の上の日本」(新潮社、一九五八年、『アジア史論考』所収)において、「日本は古来政治的に独立を保ってきたが、但し世界の見る目は必ずしもそうではなかった。中国史上の南朝・隋・唐にかけては日本は朝貢国の中に数えられ、宋・元時代は外国であったが、この外国という意味は、内に対して一段劣ったという語感をもつ外国である。明代に再び朝貢国となり、清代には互いに鎖国主義をとって国交を避けたが、西洋諸国の目には依然として日本は中国の衛星国の一つとしか映らなかったのである。日本が真に中国から独立した事実を感じさせたのは日清戦争に日本が勝利を得てからのことである」と述べる。この認識こそ、しっかり踏まえて議論を進める必要がある。
 我々は、遣隋使・遣唐使の派遣や小野妹子や最澄・空海の入唐などの事実、孔孟の教えや李白・杜甫・白楽天の漢詩、王羲之の書などを教養として埋め込まれる中で、「中国は漢民族の国」という認識を固定化させてきた傾向があるが、モンゴルによる大元ウルスの出現以来、漢民族主体の「小さな中国」は多民族が交錯する「大きな中国」へと変質した。そして今我々が向き合っている中国は、清朝によってさらに版図を拡大させた極端に「大きな中国」を継承する存在なのである。
 遣唐使の時代(六三〇~八九四)が終わり、日中関係は公式の使節派遣から私貿易の時代を迎える。九世紀半ばからは唐船による唐商の来日が始まり、元寇という緊張期を含めて、室町期まで公式の外交は途絶、東シナ海は海商の海となる。室町期、将軍足利義満は一三七四年以来、洪武帝に使者を二回送るが「人臣に外交なし」が明の基本方針で、「国王でもない陪臣」として無視されてしまう。一四〇一年、建文帝の代に日本国王源道義として認知され、一四〇三年に入貢して永楽帝より冊封の使者、金印を受けている。これが宮崎のいう「明代に再び朝貢国」の意味である。だが明代後半以降明治期に国交を樹立するまで四〇〇年以上も「国交なき交易」が日中関係の常態であった。江戸期だけが特別ではなかったのだ。
 杉山正明の視点(『ユーラシアの東西』、日経新聞社、二〇一〇年)、つまりモンゴル史とユーラシアの視界から中国を捉えることは重要である。大唐国史観に固まるのではなくユーラシア北方民族との相関の中で中国を認識し、「江戸期日本が並走した中国『清朝』は満州族とモンゴルの連合政権であった」とする杉山の指摘は中国観の再構築にとって示唆的だ。その清朝との「国交なき交易」が日本の自立への培養器となったのだ。

      
長崎唐人屋敷なるもの―――日中交流の拠点

 清朝が「遷界令」を停止して、「海禁」を解除する「展海令」を出したのは一六八四年、台湾を占拠して、二〇年もの間「明の再興」を目指して三代にわたり抵抗を続けた鄭成功一族が降伏したのが前年の一六八三年であった。以来、唐船が大挙して来航という事態を迎えた。一六八四年には二四隻、一六八五年は九七隻(一二隻は商売不許可で追い返される)と増え続け、ピークは一六八八年の二七一隻(不許可七七隻)であった。一六八九年~一七一四年は平均七〇隻前後で推移し、一七一五年に新井白石の進言を容れて「海舶互市新令」(正徳新令)を発して貿易手続きに「信牌」の供与を義務付けて以降平均三〇隻前後に減少したが、唐船は次第に大型化していった。多くは全長一六~一七間(四〇m前後)だが、南京船や寧波船といわれた唐船の中には全長三〇~三八間(五五~七五m)という一〇〇名以上の乗員と大量の積荷を運ぶ大船まで登場した。
 対応に苦慮した幕府は、一六八五年(貞享二年)に貿易額の上限設定、入港船数の制限の動きを見せ、一六八九年(元禄二年)には長崎に唐人屋敷の設置を決める。山脇悌二郎『長崎の唐人貿易』(吉川弘文館、一九六四年)、山本紀綱『長崎唐人屋敷』(謙光社、一九八三年)など、研究も深まっている。オランダ人を出島に閉じ込めた後も長崎市中に散宿を許されていた中国人を一所に収容しようとした理由は必ずしも明確ではないが、増大する密貿易(抜け荷)の制御、唐船が持ち込む禁制のキリスト教関連の書物の排除、唐商の勢力拡大による秩序紊乱の危険(大邸宅に日本人妻妾)などを配慮したと考えられる。唐人屋敷の総坪数は九三七三坪というからほぼ一万坪、二階建て家屋が二〇棟、市店一〇七のほか観音堂・天后堂・土神堂、土蔵、表総長屋までを配した。管理責任者は長崎奉行で、この空間に閉じ込められた唐商は「唐寺」に参拝するための外出にも許可が必要となった。ところで、中国大陸ではとっくに「唐」の時代も終わっていたにもかかわらず「唐人」「唐船」「唐寺」という語が何故使い続けられたのか。諸説あるが、江戸初期に来航していた中国船の多くが「滅清復明」を掲げる鄭成功のグループで、満州族主導の清の民ではないという意思で「唐」にこだわったという。日本側も「中国は漢民族の国」との固定観念に引きずられ「唐」の語が定着していた。日本における対中観が象徴されている。
 改めて痛感するのは、徳川吉宗(一六八四~一七五一)という人物の指導者としての奥行の深さである。吉宗は一七二〇年、唐船打払令を出したが、これは間違いなく江戸期日本の対中国政策の転機であった。だが、同時に「聖祖」といわれ英君とされた清の康熙帝(在位一六六一~一七二二)を強く意識し、明清の法制度や政治に並々ならぬ関心を払い、学習していたことも確かなのである。彼が紀州藩五代藩主から将軍職を継いだことの意味が大きい。初代藩主頼宣は李一恕など文禄の役で捕虜となった朝鮮出身者や明からの亡命学者・呉仁顕などを召し抱え明律(明の法制度)の研究をさせるなど開かれた藩風を築いた。吉宗は二代藩主光貞の四男で家康の曽孫となる。吉宗は「長崎奉行など、あしく心得れば唐のみ尊く思うことあり」と冷静に突き放す反面、漢籍の輸入を指示、『大明会典』『大清会典』『六諭衍義』などを入手、和訳を命じ、自らも手元に置き儒学者らの説明を聞くなど明から清へと中国の統治が動いていく様に強い関心を払っていた。
 「唐人」経由の情報は入港してきた唐船の船頭から通詞が航海途上の様子や中国国内事情、さらにはその他の国の動向などを聴取して長崎奉行に提出し、江戸表に報告した。「唐人風説書」である。「オランダ風説書」(本連載143参照)とともに、重要な海外事情の情報源であり、すべての入港船について作成され、一六四四~一七二八年のものが現存し、『華夷変態』として東洋文庫に収録されている。明から清への政変など中国情勢の変化は日本側に強い関心で受け止められた。また、小田切文洋の『唐話用例辞典』(笠間書院、二〇〇八年)を見ると、江戸期の日本人は中国文化に強い関心を持ち続けたようで、一八世紀に南京の俗曲が流行したり明風の煎茶文化が浸透するなど、長崎を拠点に中国文化の流入は深く静かに続いた。大庭脩『江戸時代における中国文化受容の研究』(同朋舎、一九八四年)『徳川吉宗と康熙帝―――鎖国下での日中交流』(大修館書店、一九九九年)を読むと、名もない唐船の船員たちが「鎖国」の江戸時代に中国文化を運び込んでいた事情が分る。
 ところで、江戸期の日中貿易は制約の中で何を輸入、また輸出していたのであろうか。まず輸入品については、生糸・絹・綿布、薬材、砂糖、鉱物、書籍などを主としていたことが確認できる。とくに生糸の中でも白糸は名産地浙江省湖州にちなんで湖糸といわれ京都西陣の織物を支え、輸入商として越後屋(今日の三井の原点)が力を蓄えていった。輸出の主力品目は、銀(一七六三年まで)、原銅であった。銅銭の素となる棹銅を生産・輸出したのが泉屋(住友)であり、後に財閥といわれた企業グループの原点が窺える。また、俵物といわれた煎海鼠(いりこ)、干鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかのひれ)などの干海産物が一七世紀末から次第に輸出品として重視されるようになった。それらが中国料理の食材として「中国料理を変えた」という説もある。
 「国交なき交易」という微妙な間合いの中で形成された中国との関係、それは深い影響を潜在させながら日本人の中に「自覚と自立」を醸成し、明治近代化の助走路となっていった。そして、それは漢民族の中国という「大唐国史観」を超えて中国を視界に入れざるをえない転機でもあったのだ。



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