寺島文庫

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 海に囲まれた島国の宿命というべきか、海禁政策が採られていた江戸時代においても、驚くほどの数の日本人が「漂流」し海外に辿り着いている。『日本漂流漂着史料』(荒川秀俊編、気象研究所監修、一九六二年)や川合彦充『日本人漂流記』(社会思想社、一九六七年)などによれば、江戸期の日本人漂流者の漂着先(帰還できた者のみ)として八丈島二〇〇件、青ヶ島一二件、鳥島一一件、小笠原二件、パラオ七件、琉球五件、朝鮮三件、中国四〇件、台湾六件、バタン諸島四件、ルソン一三件、香港一件、マカオ二件、ミンダナオ一件、安南三件、沿海州五件、樺太・千島列島七件、カムチャツカ半島四件、アリューシャン列島四件、北アメリカ七件、ハワイ一件、南アメリカ一件など確認できるものだけでも三三九件と、海の藻屑と消えたり、洋上で外国船に救助された例を除き、どこかに漂着して帰還できた例だけでも毎年数件が発生した。

 日本にも「大航海時代」というべき時代があり、江戸期初期、一六〇四年に最初の朱印船二九隻が海を渡ってから、一六三五年の海外渡航禁止まで累計三五六隻が渡航し、この間に約七万人の日本人がアジア各地に展開したことは「朱印船貿易から鎖国へ」(連載その七)で述べた。だが、一六〇九年に五〇〇石以上の大型船の建造が禁止されて以降、和船の構造が内航のみを目的とするものとなり、暴風雨で帆や舵を失い、操舵能力を損なうと「神仏の加護」を祈って漂流するしかなかったという事情がある。『世界を見てしまった男たち』(春名徹、文藝春秋、一九八一年)や『ニッポン人異国漂流記』(小林茂文、小学館、二〇〇〇年)など漂流民研究に目を通すと、何故島国日本で「鬼が島伝説」が流布したかが分る。日本人にとって海の彼方は「夷蛮狄戎(いばんじゅうてき)」の世界であり、それ故にここにとりあげる三つの漂流と異国体験は、単に数奇な運命という理解を超えて時代を動かす意味を持ってしまった事例といえよう。


清国のスタートを目撃した越前人―――『韃靼漂流記』の驚き

 江戸前期の一六四四年、日本海を流されてユーラシア大陸に漂着し、北京、ソウルを経て帰国した越前人の体験は衝撃的である。この年四月、越前坂井郡新保村(現・福井県三国町新保)から松前に向かっていた船三隻が佐渡沖で遭難、半月以上漂流し、辿り着いたのが現在のロシア沿海州のポシェット湾とされる。ロシアの極東進出以前であり、明朝に朝貢してきた女真族の地域であった。乗員五八人のうち四三人が「朝鮮人参が採れる」と山に誘い込まれて殺戮され一五人が拘束された。そこから運命の悪戯ともいうべき展開に巻き込まれていく。


 女真の諸部族の中からヌルハチが部族を統一して後金を作り、さらに明軍を破って清と改称したのが一六三六年。そして、一六四四年三月、李自成率いる農民反乱によって北京は陥落、明朝は崩壊した。この機に乗じてヌルハチ率いる清軍は万里の長城を越えて進撃、中国の統一を果たした。まさにそのタイミングで越前人が漂着したのである。北京に雪崩を打って殺到する満州族(女真)の中に女真系の部族に拘束された漂流民は吸い込まれていった。北京到着は一六四四年(寛永二一年)一一月で、正に清朝支配が始まった直後の北京に滞在することになったのである。清朝の漂流日本人への待遇は極めて配慮の行き届いたもので一同何不足なく生活できたというが、清朝政府は日本人漂流民の処置に苦慮し、北京での生活が一年を迎える頃、強く帰国を希望する漂流民の意向を受け日本に帰すことを決めた。この時、清の世祖が日本人帰国の仲介を朝鮮国王に命じた『漂倭送還勅諭』には「今、中外は一統し、四海は家となる。各国人民は、皆朕が赤子なり。務めて所を得さしめ、以て広く同仁」とあり、新興政権たる清が中国を威信を持って統治する意思が強く滲み出ている。

 それまで見下してきた満州族に服従を余儀なくされ、皇子三人を瀋陽に人質として差し出す屈辱を味わい、屈折した思いで清の国家形成を見つめていた朝鮮李王朝の受け止め方は微妙であった。ソウルでは一行を丁重にもてなしたが、清国冊封使節が直接日本側に皇帝の勅意を伝えようとする問題が生じ、秀吉の朝鮮出兵後の日本側との関係修復に苦闘していた李王朝は、清国の「徳意」の伝達と将軍(日本国大君)の謝意という形で漂流民送還をまとめるという決着を図り、対馬藩経由で福井松平藩に引き渡した。結局幕府からの将軍の謝意はなく、曖昧なまま時間が経過することになったが、帰国した国田兵右衛門、宇野與三郎の二名が江戸に呼び出され尋問を受けそれが『韃靼漂流記』となった。この頃幕府は滅び行く明朝からの救援要請に苦慮しており、大陸への出兵を断念するに当たり、大陸の実情を目撃した情報は貴重であった。

 この『韃靼漂流記』がにわかに注目された時期がある。園田一亀の『韃靼漂流記の研究』が一九三九(昭和一四)年に奉天(現在の瀋陽)の南満州鉄道から出版されて話題となった。日本と満州の歴史的関係を辿り、当時の日本の国策であった「満州(中国東北部)と朝鮮半島の一体支配」の正当性を探る上で、満州族による中国の支配と朝鮮李王朝の関係を炙り出す一七世紀の日本人漂流秘話は好都合な素材だった。歴史というものは、時代背景によって巧みに利用されることもある。それにしても、現在の極東ロシア、朝鮮半島、中国を一七世紀に歩いた越前人がいたことは心躍る史実である。ちなみに、韃靼とはタタールのことでモンゴルを意味するが、この頃の日本人の視界では日本海の向こうに広がる世界は韃靼だった。

      
ロシアへの漂流者たち―――「北の黒船」の伏線として

 江戸期日本にとっての脅威がロシアの接近であり、ペリー来航の六一年も前のラックスマン根室来航(一七九二年)、四九年前のレザノフの長崎来航(一八〇四年)については再三触れた。また二つの来航に際し送り届けられてきた日本人漂流者による報告は鎖国日本にとって大きな衝撃であった。

 一七八三年一月、伊勢の千石船神昌丸は白子(現在は鈴鹿市)を出港して江戸へ向かう途上、駿河灘で暴風雨に遭遇、七カ月も太平洋を漂流してアリューシャン列島アムチトカ島に漂着。出港時一七名が乗船、船頭が三二歳の大黒屋光太夫であった。この島で四年生活した後ロシア人に連れられカムチャツカへ。一年半を過ごし、ロシア行政長官の判断でオホーツクを経てシベリアを西に、シベリア総督の駐在地イルクーツクへ。さらにサンクトペテルブルクに送られエカテリーナ二世と面会。再三の帰国嘆願を受け入れられ、一七九二年一〇月、日本との通商を求める使節ラックスマンとともに根室に帰国。この時の老中松平定信の対応とそれが一八〇四年のレザノフの長崎来航の導線になった事情は「その20」で言及した。

  一〇年ぶりに帰国した光太夫は、一七九三年六月松前で引き渡しを受け、九月には将軍家斉、老中松平らに「漂民御覧」として直接尋問を受けた。「金三〇枚」を拝領し、番町薬園(現在の千鳥ヶ淵付近)に収容、以後三五年をここで過ごした。桂川甫周による聞き取りをまとめたのが『北嵯聞略』である。外国情報が漏れぬようにとの箝口令を受けて「幽閉軟禁」されたというが、比較的自由に行動できたようで、一八〇二年には故郷伊勢若松村に帰郷、約二カ月滞在の間伊勢神宮参拝の機会を得ている。また大槻玄沢ら蘭学者の芝蘭新元会などにも出席、四四歳で一八歳の妻を娶り一男一女を得、一八二八年七八歳で死去した。シーボルト事件の年であった。

 彼が果たした役割はラックスマンとレザノフへの幕府の対応の差に投影されている。迫りくる「ロシアの脅威」は認識するが、極東に大きな軍事力を展開できる状況ではないという光太夫のロシアを内側から見た情報が、ロシアとの一定の交易も覚悟して長崎入港の許可書(信牌)をラックスマンに発行した松平の方針を転換させ、一二年後に来航したレザノフへの通商を拒否する厳しい対応に影響したといえよう。一八〇一年、ケンペルの『日本誌』の一部が通詞志筑忠雄によって『鎖国論』と訳されたことから「鎖国」という言葉が生まれ、鎖国の明文化がなされたことは既に書いた(連載その15)が、正にロシアの接近への緊張がもたらしたのである。

 もうひとつ注目すべきは奥州・若宮丸の漂流である。一七九三年石巻から江戸に向かう途中で遭難した若宮丸は五カ月後にアリューシャン列島に漂着、アラスカにまで張り出していた「ロシア・アメリカ会社」のロシア人に引き渡されてシベリアを西進、イルクーツク滞在を経て一八〇三年五月サンクトペテルブルクで皇帝アレクサンドル一世に謁見した。帰国を希望した津太夫ら四人は、日本との通商を求めて派遣されるレザノフとともに、同年八月クロンシュタット軍港を出発、デンマーク、英国ファルマス、カナリア諸島、ブラジルを経てホーン岬を廻航、サンドイッチ諸島、カムチャツカから一八〇四年一〇月九日に長崎に帰着した。この四人が日本人として初めて世界一周をしたのである。

  帰国後、仙台藩が大槻玄沢に指示して事情を聴取、それが『環海異聞』である。当代一流の蘭学者玄沢は、所有する様々な資料を提示して粘り強く聞き出そうと試みるが、漂流民たちは教養と知見のない悲しさで自分が目撃した世界一周の意味が分からず、「愚陋無識の雑民」として切り捨てている。玄沢の苛立ちも分かるが、『環海異聞』から漂流民の心の動きを想像すれば、キリスト教に改宗した者は帰国できないという葛藤、帰国組とロシア残留組の漂流民同士の対立、ロシア人との人間同士の交流などに過酷な運命に耐える江戸期の民衆の逞しさも見てとれる。

      
ロシアの対日戦略の息の長さ

 ロシアの東方への関心、とりわけ対日戦略の歴史的蓄積には舌を巻く。ロシアは毛皮を求めて一七世紀から東シベリアに動いていたが、本格化したのはピョートル大帝の治世下で、一七〇六年カムチャツカ半島に進出、大帝の命を受けたデンマーク人ベーリングがベーリング海峡を発見したのは一七二六年である。日本に現れたのは一七三九年、太平洋・アメリカ探検隊のスパンベルグ中佐の分遣隊が奥州牡鹿・安房・伊豆で日本人と接触。その後千島・東蝦夷方面に現れ、赤いラシャの服から「赤蝦夷」「オロシヤ」と呼ばれ、安永年間(一七七〇年代)には日本人が北からの脅威を意識し始め、一七九一年に林子平『海国兵談』が「世間を惑わす」と処罰を受けた直後ラックスマンが訪れた。いかにロシアが用意周到であったかはロシアにおける日本語研究の歴史が物語る。


 一七〇五年、大阪谷町出身の漂流民伝兵衛がピョートル大帝に拝謁。この時大帝三三歳。オランダで船大工の見習いまで経験した欧州歴訪から帰国後七年であった。国家建設と東方展開に意気揚がる大帝は伝兵衛にロシア語習得と日本語の教授を命じ、帝都に日本語学校が設立された。ロシアの日本語学校の起源、今日のサンクトペテルブルク大学日本語学科の原点である。

 一七一〇年には紀州の材木船が漂着。生存者サニア(三右衛門)はサンクトペテルブルクで伝兵衛とともに日本語学校教師となり、さらに一七二九年、薩摩の若潮丸がカムチャツカに漂着、乗員一七名中ソーザとゴンザの二人が生き延び、一七三四年に女帝アンナ・ヨアノヴナと謁見、ゴンザは後に世界最初の露日辞典『新スラブ・日本語辞典』(一七三八年)を編纂する。一七五四年にイルクーツクに移転するまで、九人の日本人漂流民が日本語学校を支え、ロシアに骨を埋めた。驚くべきことに江戸期のロシアにおいてピョートル大帝、アンナ女帝、エカテリーナ女帝、アレクサンドル一世と実に四人の皇帝が日本人漂流民を引見した。正に日本近代史がロシアの接近、そして脅威と向き合った時代だと気付く。

    


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