寺島文庫通信 「寺島文庫オフィシャルウェブサイト」は、様々な志を持った人が集い、何かを共有するためのウェブサイトです。 その志を実現していくために、寺島実郎が世界の現場をフィールドワークして得た「世界を知る力」とネットワーク、そして産官学の仕事を通じて得たプロジェクト構想力のヒントを少しづつ伝えていきます。 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news.feed 2024-04-27T06:30:28+09:00 寺島文庫 webmaster@terashima-bunko.com 2019winter 2020-01-17T07:42:10+09:00 2020-01-17T07:42:10+09:00 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news/1514-2019winter.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2019 WINTER<br /></span></span></strong></span><span style="color: #ff6600;"><strong style="color: #0000ff; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;"><br /><br /></span></strong></span><span style="color: #0000ff; font-size: 14pt;"><strong>【 「ふたつのFORTUNE」を読む】</strong></span></p> <p><img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/doublefortune.jpg" alt="" /><span style="font-size: 10pt;"><br /></span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"> 寺島文庫二階の展示用のガラスケースの中に、やや日に焼けた本書は置かれている。傍らには、本号の表紙となった戦前に発刊されたFORTUNEが二冊。そのうちの一冊(手前の球形の地図に朱色で当時の日本の勢力圏が描かれているもの)が、一九三六年の九月に発刊された日本特集号であり、「ふたつのFORTUNE」のうちの一冊だ。この大判で手に持つとずしりと重い戦前の特集号と、戦争を挟んだ一九九一年に発刊されたFORTUNEの日本特集をそれぞれに読み込み、これからの日米関係への視座を構築するプロセスの中に生まれたのが本書であった。<br /><br /> 著者は本書の終わりにこう述べている。<br />「いうまでもなく「フォーチュン」とは、財産という意味のほかに「運命」を意味している。一九三六年九月号の『フォーチュン』から一〇年の日米関係にいかなる「運命」が待ちかまえていたのか。それは歴史が雄弁に物語っている。これから一〇年の日米関係にいかなる「運命」が待ちかまえているのか。それは、私たち自身が、創造・選択していくしかない。歴史を知らぬ者に、現代の風景の真の意味はわからない。民族の記憶に基づく英知ある選択へ、私たちは歩み出さなければならない。」<br />発刊から四半世紀を経ている本書の放つメッセージは重く、未だに色あせていない。</span></span></p> <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2019 WINTER<br /></span></span></strong></span><span style="color: #ff6600;"><strong style="color: #0000ff; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;"><br /><br /></span></strong></span><span style="color: #0000ff; font-size: 14pt;"><strong>【 「ふたつのFORTUNE」を読む】</strong></span></p> <p><img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/doublefortune.jpg" alt="" /><span style="font-size: 10pt;"><br /></span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"><span style="font-size: 10pt;"> 寺島文庫二階の展示用のガラスケースの中に、やや日に焼けた本書は置かれている。傍らには、本号の表紙となった戦前に発刊されたFORTUNEが二冊。そのうちの一冊(手前の球形の地図に朱色で当時の日本の勢力圏が描かれているもの)が、一九三六年の九月に発刊された日本特集号であり、「ふたつのFORTUNE」のうちの一冊だ。この大判で手に持つとずしりと重い戦前の特集号と、戦争を挟んだ一九九一年に発刊されたFORTUNEの日本特集をそれぞれに読み込み、これからの日米関係への視座を構築するプロセスの中に生まれたのが本書であった。<br /><br /> 著者は本書の終わりにこう述べている。<br />「いうまでもなく「フォーチュン」とは、財産という意味のほかに「運命」を意味している。一九三六年九月号の『フォーチュン』から一〇年の日米関係にいかなる「運命」が待ちかまえていたのか。それは歴史が雄弁に物語っている。これから一〇年の日米関係にいかなる「運命」が待ちかまえているのか。それは、私たち自身が、創造・選択していくしかない。歴史を知らぬ者に、現代の風景の真の意味はわからない。民族の記憶に基づく英知ある選択へ、私たちは歩み出さなければならない。」<br />発刊から四半世紀を経ている本書の放つメッセージは重く、未だに色あせていない。</span></span></p> 2018winter 2019-02-08T09:33:25+09:00 2019-02-08T09:33:25+09:00 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news/1458-2018winter.html terashimadmin_2010 takeshikojima555@yahoo.co.jp <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2018 WINTER<br /></span></span></strong></span><span style="color: #ff6600;"><strong style="color: #0000ff; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;"><br /><br /></span></strong></span><span style="font-size: 14pt; color: #800000;"><strong>【日総研会長室だより】</strong></span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">地方公共団体から(一財)日本総合研究所会長室にて研修中の2名が、</span><span style="color: #ff6600;"><span style="font-size: 10pt; color: #000000;">「地域の魅力」をキーワードに郷土の可能性について論じます。<br /></span><br /></span></p> <p><strong><br /><span style="font-size: 12pt;">◆幕末明治の福井藩士  </span></strong><span style="font-size: 12pt;"><strong> 藤原 毅</strong><strong>(福井県庁)</strong></span></p> <p> <img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/18winter_fukui.png" alt="" width="262" height="197" /><span style="font-size: 10pt;"><br /><span style="font-size: 10pt;"> 上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ―。五箇条の御誓文の第二条では、国民一体となって国家を治めることが明治維新の大方針のひとつとして掲げられています。御誓文の原案を作った福井藩士・由利公正は、その生涯を経綸に尽くしました。彼にとっての経綸とは、経済(経世済民)でもありました。</span></span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> 越前を代表する福井藩は、徳川家康の第二子である結城秀康を祖とし、幕末の頃には時代をリードする人材を輩出しました。幕末の四賢候と謳われた第十六代藩主・松平春嶽は由利公正や橋本左内らを登用、藩政改革を行うとともに、明治国家の基盤整備に尽力しました。由利は藩内で農工商の多くの人の話を聞いて歩いたことや江戸や黒船から受けた刺激をもとに、果敢に藩財政の建て直しに挑みました。失敗や不遇の日々もありましたが、オランダと生糸や醤油の取引をして利益を得るなど、財政の黒字化につなげました。彼の視点は領民をいかに働きやすくするか。その底流には、師である横井小楠の「民富めば国富む」という思想があり、領民からできるだけ安く産物を買い上げて藩の財政収入を得ようという従来の藩専売や倹約による財政再建とは発想が異なるものでした。当時の武士階級におけるその経理的才能は稀であり、交流のあった坂本竜馬もその才能を評価、新政府への参画のきっかけとなりました。明治政府においては、越前和紙を使用した太政官札を発行し、貨幣制度の基盤づくりに貢献。東京府知事時代には、銀座大火で罹災した地域を不燃の煉瓦造りの街にすることを計画・実行しました。銀座通りの一角には、現在も彼の功績を称える「煉瓦銀座之碑」[写真]が残っています。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> グローバル化やデジタル化が進み、少子高齢化という未曾有の事態に直面する現代において、いかにして新しい国や地方を切り拓いていくのか。明治百五十年という時代の節目において、先人の足跡を振り返り、地域の将来を考える契機としていきたいと思います。</span></p> <p>  <span style="font-size: 10pt;"><strong> </strong></span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"><strong>◆「さきたま」と「さいたま」の生まれたところ<span style="font-size: 12pt;"><strong>  安田 俊</strong><strong>一(埼玉県庁)</strong></span></strong></span></p> <p> <img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/18winter_saitama.jpg" alt="" width="254" height="168" /><span style="font-size: 10pt;"><br /> 2018年4月から埼玉県庁から日本総合研究所会長室に派遣されて参りました安田と申します。前任の猿田に引き続き、宜しくお願い申し上げます。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> 2018年は「明治維新150年」のキャンペーンが全国各地で行われており、明治時代が注目されています。「埼玉県」も明治4(1871)年に誕生しました。当時は、荒川以東の埼玉県と、荒川以西と熊谷以北の入間県がありました。その後、入間県は群馬県と合併するなどありましたが、明治9(1876)年に現在の埼玉県がほぼ確定しました。埼玉の名称の由来は、当初県庁が埼玉郡岩槻町に置かれる予定だったことにあります。しかし、岩槻町には県庁に適した建物がなく、足立郡浦和町に仮庁舎が置かれスタートし、明治23(1890)年に正式に北足立郡浦和町が県庁所在地となりました。埼玉とは何の由来もなかったはずの浦和市は、平成13(2001)年に大宮市、与野市と合併し、さいたま市となります。長い歴史の中でいつの間にか、埼玉県の南部東寄りの地域が「さいたま」と世間に浸透していきましたが、元々は県北部の行田市大字埼玉(さきたま)がその由来となっています。ワカタケル大王の名前が見られる鉄剣で有名な稲荷山古墳は埼玉(さきたま)古墳群にあり、古くから埼玉(さきたま)が歴史に登場してきました。「埼玉」の地域は、荒川とともにあった地域です。江戸時代の西遷事業の前の荒川は、現在の元荒川に名残がありますが、行田市や熊谷市も流れていました。県北の「さきたま」の地を潤した荒川が、県南部の平野部を形づくり、そして今の「さいたま」を生みました。荒川の水源は秩父地方です。母なる海という言葉がありますが、さいたまに生きる私にとっては、母なる秩父です。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> 秩父地域は、人口減少が続いていますが、観光を糧に地域を盛り上げようとしています。東京から近い自然豊かな地で、春は桜、夏は川遊び、秋は紅葉<span style="font-size: small;">[写真]</span>、冬はつらら。母なる秩父を一度感じてみてはいかがでしょうか。</span></p> <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2018 WINTER<br /></span></span></strong></span><span style="color: #ff6600;"><strong style="color: #0000ff; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;"><br /><br /></span></strong></span><span style="font-size: 14pt; color: #800000;"><strong>【日総研会長室だより】</strong></span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">地方公共団体から(一財)日本総合研究所会長室にて研修中の2名が、</span><span style="color: #ff6600;"><span style="font-size: 10pt; color: #000000;">「地域の魅力」をキーワードに郷土の可能性について論じます。<br /></span><br /></span></p> <p><strong><br /><span style="font-size: 12pt;">◆幕末明治の福井藩士  </span></strong><span style="font-size: 12pt;"><strong> 藤原 毅</strong><strong>(福井県庁)</strong></span></p> <p> <img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/18winter_fukui.png" alt="" width="262" height="197" /><span style="font-size: 10pt;"><br /><span style="font-size: 10pt;"> 上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ―。五箇条の御誓文の第二条では、国民一体となって国家を治めることが明治維新の大方針のひとつとして掲げられています。御誓文の原案を作った福井藩士・由利公正は、その生涯を経綸に尽くしました。彼にとっての経綸とは、経済(経世済民)でもありました。</span></span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> 越前を代表する福井藩は、徳川家康の第二子である結城秀康を祖とし、幕末の頃には時代をリードする人材を輩出しました。幕末の四賢候と謳われた第十六代藩主・松平春嶽は由利公正や橋本左内らを登用、藩政改革を行うとともに、明治国家の基盤整備に尽力しました。由利は藩内で農工商の多くの人の話を聞いて歩いたことや江戸や黒船から受けた刺激をもとに、果敢に藩財政の建て直しに挑みました。失敗や不遇の日々もありましたが、オランダと生糸や醤油の取引をして利益を得るなど、財政の黒字化につなげました。彼の視点は領民をいかに働きやすくするか。その底流には、師である横井小楠の「民富めば国富む」という思想があり、領民からできるだけ安く産物を買い上げて藩の財政収入を得ようという従来の藩専売や倹約による財政再建とは発想が異なるものでした。当時の武士階級におけるその経理的才能は稀であり、交流のあった坂本竜馬もその才能を評価、新政府への参画のきっかけとなりました。明治政府においては、越前和紙を使用した太政官札を発行し、貨幣制度の基盤づくりに貢献。東京府知事時代には、銀座大火で罹災した地域を不燃の煉瓦造りの街にすることを計画・実行しました。銀座通りの一角には、現在も彼の功績を称える「煉瓦銀座之碑」[写真]が残っています。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> グローバル化やデジタル化が進み、少子高齢化という未曾有の事態に直面する現代において、いかにして新しい国や地方を切り拓いていくのか。明治百五十年という時代の節目において、先人の足跡を振り返り、地域の将来を考える契機としていきたいと思います。</span></p> <p>  <span style="font-size: 10pt;"><strong> </strong></span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"><strong>◆「さきたま」と「さいたま」の生まれたところ<span style="font-size: 12pt;"><strong>  安田 俊</strong><strong>一(埼玉県庁)</strong></span></strong></span></p> <p> <img style="float: right; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/18winter_saitama.jpg" alt="" width="254" height="168" /><span style="font-size: 10pt;"><br /> 2018年4月から埼玉県庁から日本総合研究所会長室に派遣されて参りました安田と申します。前任の猿田に引き続き、宜しくお願い申し上げます。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> 2018年は「明治維新150年」のキャンペーンが全国各地で行われており、明治時代が注目されています。「埼玉県」も明治4(1871)年に誕生しました。当時は、荒川以東の埼玉県と、荒川以西と熊谷以北の入間県がありました。その後、入間県は群馬県と合併するなどありましたが、明治9(1876)年に現在の埼玉県がほぼ確定しました。埼玉の名称の由来は、当初県庁が埼玉郡岩槻町に置かれる予定だったことにあります。しかし、岩槻町には県庁に適した建物がなく、足立郡浦和町に仮庁舎が置かれスタートし、明治23(1890)年に正式に北足立郡浦和町が県庁所在地となりました。埼玉とは何の由来もなかったはずの浦和市は、平成13(2001)年に大宮市、与野市と合併し、さいたま市となります。長い歴史の中でいつの間にか、埼玉県の南部東寄りの地域が「さいたま」と世間に浸透していきましたが、元々は県北部の行田市大字埼玉(さきたま)がその由来となっています。ワカタケル大王の名前が見られる鉄剣で有名な稲荷山古墳は埼玉(さきたま)古墳群にあり、古くから埼玉(さきたま)が歴史に登場してきました。「埼玉」の地域は、荒川とともにあった地域です。江戸時代の西遷事業の前の荒川は、現在の元荒川に名残がありますが、行田市や熊谷市も流れていました。県北の「さきたま」の地を潤した荒川が、県南部の平野部を形づくり、そして今の「さいたま」を生みました。荒川の水源は秩父地方です。母なる海という言葉がありますが、さいたまに生きる私にとっては、母なる秩父です。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> 秩父地域は、人口減少が続いていますが、観光を糧に地域を盛り上げようとしています。東京から近い自然豊かな地で、春は桜、夏は川遊び、秋は紅葉<span style="font-size: small;">[写真]</span>、冬はつらら。母なる秩父を一度感じてみてはいかがでしょうか。</span></p> Vol.7-1 2017-05-09T04:36:50+09:00 2017-05-09T04:36:50+09:00 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news/1330-2017spring-01.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="color: #000000; font-size: small;">2017 SPRING  Vol.7<br /></span></span></strong></span><span style="color: #ff6600;"><strong style="color: #0000ff; line-height: 1.3em; font-size: 12.16px;"><span style="font-size: large;"><br /></span></strong></span></p> <p><span style="color: #339966; font-size: 14pt;"><strong>【寺島文庫客員研究員からの寄稿】</strong></span></p> <p><strong><span style="font-size: 12pt;">◆スリランカ・キャンディでの空手指導  </span></strong><span style="font-size: 12pt;"><strong> カルロヴァー・ペトラ</strong><strong>(寺島文庫客員研究員)</strong></span></p> <table style="width: 725px; height: 268px;"> <tbody> <tr style="height: 60px;"> <td style="width: 109.33px; height: 60px;"><img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/17springpetra01.JPG" alt="" width="234" height="156" /></td> <td style="width: 610.66px; height: 60px;"> <p><span style="font-size: small;"> <span style="font-size: 12pt;">2016年12月28日、スリランカ・キャンディのMahaweli National College of Educationという大学で子どもたちに空手を教えました。早稲田大学の博士号を取得後、何かの貢献を通じて深く学びたいと思っていたからです。この希望は、スリランカ和道国際空手連盟の会長・ルワン(Ruwan Mavekumbura)先生がかなえてくださいました。</span></span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"> 私は日本空手協会大志塾で中達也師範など優秀な先生方に伝統ある松濤館流空手を学び、2014年から稽古の様子をフェイスブックに載せています。そのおかげで、ルワン先生とフェイスブックで友達になりました。私の投稿に深い感謝の言葉を述べてくださり、今回、私がスリランカで稽古の指導ができるよう手配してくださったのです。</span></p> </td> </tr> <tr style="height: 15px;"> <td style="width: 720px; height: 15px;" colspan="2"> <p><span style="font-size: small;"> <span style="font-size: 12pt;">大学に行ってみると、キャンパスを道着姿の子どもたちが歩いているのを見て、ドキドキしました。道場では、ビートルの葉っぱやオイルランプの儀式、大学指導者のスピーチ、私の写真が載っている大きなポスターと、まるで大先生のように歓迎されました。また、子どもたちの一グループがこの稽古を受けるために早起きして、コロンボからバスで5時間もかけて来たと知りました。稽古の参加者は約70人で、ほとんどが下級の色帯でした。スリランカは2009年5月まで内戦(1983~2009年スリランカ政府とタミル・イーラム解放のトラとの戦争)のため、空手を学ぶ機会がありませんでした。現在も、経済は不安定で、諸外国で学ぶためのビザ取得も難しく、空手の高い技術レベルを達成するのが厳しい状況なのです。このような背の中で、大志塾で学んだ知識と指導方法、早稲田大学で得た教育スキルを活かして、私ならではの空手指導を行い、今回の指導がどれほど役に立ち、価値があったのか実感しました。</span></span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"> 稽古のあと、アンケートを取ったところ、72.5%が「多くを学びました」、74.2%が「とても良かった」と答えてくれたのです。また、私の指導を手伝ってくれたスリランカの指導員が今日学んだことを早速自分の指導に取り入れると言ってくださいました。現地の皆さんの今後の課題とそれを指導することでどのように解決するのかが分かったので、またスリランカに指導と研究に行きたいと思います。</span></p> </td> </tr> <tr style="height: 19.8px;"> <td style="width: 109.33px; height: 19.8px;"><img style="margin-right: auto; margin-left: auto; display: block;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/17springpetra02.JPG" alt="" /></td> <td style="width: 610.66px; height: 19.8px;"> <p>(筆者プロフィール)</p> <p> チェコ人。2015年早稲田大学アジア太平洋研究科国際研究専攻博士号。</p> <p> 現在、早稲田大学グローバルエデュケーションセンター教職員。</p> </td> </tr> </tbody> </table> <p> <span style="font-size: 10pt;"> </span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"><br /> </span></p> <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="color: #000000; font-size: small;">2017 SPRING  Vol.7<br /></span></span></strong></span><span style="color: #ff6600;"><strong style="color: #0000ff; line-height: 1.3em; font-size: 12.16px;"><span style="font-size: large;"><br /></span></strong></span></p> <p><span style="color: #339966; font-size: 14pt;"><strong>【寺島文庫客員研究員からの寄稿】</strong></span></p> <p><strong><span style="font-size: 12pt;">◆スリランカ・キャンディでの空手指導  </span></strong><span style="font-size: 12pt;"><strong> カルロヴァー・ペトラ</strong><strong>(寺島文庫客員研究員)</strong></span></p> <table style="width: 725px; height: 268px;"> <tbody> <tr style="height: 60px;"> <td style="width: 109.33px; height: 60px;"><img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/17springpetra01.JPG" alt="" width="234" height="156" /></td> <td style="width: 610.66px; height: 60px;"> <p><span style="font-size: small;"> <span style="font-size: 12pt;">2016年12月28日、スリランカ・キャンディのMahaweli National College of Educationという大学で子どもたちに空手を教えました。早稲田大学の博士号を取得後、何かの貢献を通じて深く学びたいと思っていたからです。この希望は、スリランカ和道国際空手連盟の会長・ルワン(Ruwan Mavekumbura)先生がかなえてくださいました。</span></span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"> 私は日本空手協会大志塾で中達也師範など優秀な先生方に伝統ある松濤館流空手を学び、2014年から稽古の様子をフェイスブックに載せています。そのおかげで、ルワン先生とフェイスブックで友達になりました。私の投稿に深い感謝の言葉を述べてくださり、今回、私がスリランカで稽古の指導ができるよう手配してくださったのです。</span></p> </td> </tr> <tr style="height: 15px;"> <td style="width: 720px; height: 15px;" colspan="2"> <p><span style="font-size: small;"> <span style="font-size: 12pt;">大学に行ってみると、キャンパスを道着姿の子どもたちが歩いているのを見て、ドキドキしました。道場では、ビートルの葉っぱやオイルランプの儀式、大学指導者のスピーチ、私の写真が載っている大きなポスターと、まるで大先生のように歓迎されました。また、子どもたちの一グループがこの稽古を受けるために早起きして、コロンボからバスで5時間もかけて来たと知りました。稽古の参加者は約70人で、ほとんどが下級の色帯でした。スリランカは2009年5月まで内戦(1983~2009年スリランカ政府とタミル・イーラム解放のトラとの戦争)のため、空手を学ぶ機会がありませんでした。現在も、経済は不安定で、諸外国で学ぶためのビザ取得も難しく、空手の高い技術レベルを達成するのが厳しい状況なのです。このような背の中で、大志塾で学んだ知識と指導方法、早稲田大学で得た教育スキルを活かして、私ならではの空手指導を行い、今回の指導がどれほど役に立ち、価値があったのか実感しました。</span></span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"> 稽古のあと、アンケートを取ったところ、72.5%が「多くを学びました」、74.2%が「とても良かった」と答えてくれたのです。また、私の指導を手伝ってくれたスリランカの指導員が今日学んだことを早速自分の指導に取り入れると言ってくださいました。現地の皆さんの今後の課題とそれを指導することでどのように解決するのかが分かったので、またスリランカに指導と研究に行きたいと思います。</span></p> </td> </tr> <tr style="height: 19.8px;"> <td style="width: 109.33px; height: 19.8px;"><img style="margin-right: auto; margin-left: auto; display: block;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/17springpetra02.JPG" alt="" /></td> <td style="width: 610.66px; height: 19.8px;"> <p>(筆者プロフィール)</p> <p> チェコ人。2015年早稲田大学アジア太平洋研究科国際研究専攻博士号。</p> <p> 現在、早稲田大学グローバルエデュケーションセンター教職員。</p> </td> </tr> </tbody> </table> <p> <span style="font-size: 10pt;"> </span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"><br /> </span></p> Vol.6-1 2017-01-05T06:48:59+09:00 2017-01-05T06:48:59+09:00 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news/1304-2016winter1.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2016 WINTER  Vol.6<br /></span></span></strong></span><span style="color: #ff6600;"><strong style="color: #0000ff; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;"><br /><br /></span></strong></span><span style="font-size: 14pt; color: #800000;"><strong>【日総研会長室だより】</strong></span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">地方公共団体から(一財)日本総合研究所会長室にて研修中の3名が、</span><span style="color: #ff6600;"><span style="font-size: 10pt; color: #000000;">「地域の魅力」をキーワードに郷土の可能性について論じます。<br /></span><br /></span></p> <p><strong><br /><span style="font-size: 12pt;">◆まちなか登山と温泉  </span></strong><span style="font-size: 12pt;"><strong> 鶴見 </strong><strong>幸城(岐阜市役所)</strong></span></p> <p> <img style="float: left; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/gifu.jpg" width="257" height="173" /><span style="font-size: 10pt;"><br /> 岐阜市の中心部には気軽に登山が楽しめる「金華山」と「百々ヶ峰」があります。頂に岐阜城を冠し、眼下に長良川を見下ろす岐阜市のシンボル「金華山」。その名は、初夏に満開となるツブラジイが山を黄金色に染める様子に由来していると言われています。江戸時代以降、幕府や国に保護されていたたため9割以上が天然林で、今もリスやタヌキなど野生動物や野鳥が多く生息しています。<br /> 標高329mの山頂へはロープウェーより登山がおすすめ。四季を肌で感じながら約1時間で頂上へ。450年前に織田信長公も同じ景色を眺めたと思うと、感慨深い気持ちになります。</span></p> <p><br /><span style="font-size: 10pt;"> 長良川を挟んで位置する「百々ヶ峰」は、空気が澄んだ日にはJR名古屋駅のツインタワーが一望できます</span><span style="font-size: 10pt;">。登山のあとは、長良川温泉にゆったりと浸かれば、疲れも吹き飛びます。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p> <span style="font-size: 10pt;"><strong> </strong></span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"><strong>◆メディアアーツ都市、札幌の可能性  金田 </strong><strong>健一郎(札幌市役所)</strong></span></p> <p> <img style="float: left; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/nomaps.png" width="263" height="153" /><span style="font-size: 10pt;"><br /> 札幌市は、2013年にユネスコにより創設された創造都市ネットワークの「メディアアーツ都市」として認定され、札幌のクリエイティビティは世界中から注目されています</span><span style="font-size: 10pt;">。今年10月には、映画・音楽・IT(先端技術)の三分野及びその複合領域において、コンペティション、カンファレンス、ワークショップなど、産業、学術、文化がクロスする、最先端なクリエイティブビジネスの国際コンベンション「No Maps(ノーマップス)」が開催されました。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> 分野間の連携を通じて生み出される「新しい領域」「未知の領域」を真っ白な地図に見立て、その可能性をマッピングするというテーマのもと、コンテンツビジネスの活性化とグローバル展開の加速化を柱として、若手育成や文化創出も見据えた広がりのある事業となっています。今年はプレ開催、2017年に第1回目の本開催を予定しており、今後も札幌を「世界屈指のイノベーティブなまち」にすることを目指して、産学官一体で盛り上げていきます。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size: 12pt;"><strong>◆冬の夜空を焦がし彩る大輪の花  猿田 </strong><strong>達彦(埼玉県庁)</strong></span></p> <p><img style="float: left; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/chichibufest.jpg" width="261" height="174" /> </p> <p><span style="font-size: 10pt;"> 日本の「三大美祭り」に数えられる祭りが埼玉県にあります。京都の「祇園祭」、岐阜の「高山祭」と並ぶその祭りは、「秩父夜祭」です</span><span style="font-size: 10pt;">。毎年12月1日から6日まで開催されます。この祭りの醍醐味は、冬の夜の暗い冷気に、祭りの熱気が入り混じる、独特の雰囲気と高揚感です。夜6時半頃、秩父神社から屋台(山車)が次々と現れ、囃子の調べに乗って曳かれてゆきます。夕闇を万灯で照らしながら進む絢爛かつ荘厳な姿に、見る人々は自然と心が躍り、曳行の終盤、勾配のきつい「団子坂」を駆け上る時、祭りは最高潮を迎えます。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> そして山車の頭上には七千発もの花火が打ち上げられ、冬の夜空を彩ります。この感動的な風景は、12月3日の大祭に見ることができます。池袋駅から特急レッドアロー号で80分ほど、是非一度お越しください。</span> </p> <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2016 WINTER  Vol.6<br /></span></span></strong></span><span style="color: #ff6600;"><strong style="color: #0000ff; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;"><br /><br /></span></strong></span><span style="font-size: 14pt; color: #800000;"><strong>【日総研会長室だより】</strong></span></p> <p><span style="font-size: 10pt;">地方公共団体から(一財)日本総合研究所会長室にて研修中の3名が、</span><span style="color: #ff6600;"><span style="font-size: 10pt; color: #000000;">「地域の魅力」をキーワードに郷土の可能性について論じます。<br /></span><br /></span></p> <p><strong><br /><span style="font-size: 12pt;">◆まちなか登山と温泉  </span></strong><span style="font-size: 12pt;"><strong> 鶴見 </strong><strong>幸城(岐阜市役所)</strong></span></p> <p> <img style="float: left; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/gifu.jpg" width="257" height="173" /><span style="font-size: 10pt;"><br /> 岐阜市の中心部には気軽に登山が楽しめる「金華山」と「百々ヶ峰」があります。頂に岐阜城を冠し、眼下に長良川を見下ろす岐阜市のシンボル「金華山」。その名は、初夏に満開となるツブラジイが山を黄金色に染める様子に由来していると言われています。江戸時代以降、幕府や国に保護されていたたため9割以上が天然林で、今もリスやタヌキなど野生動物や野鳥が多く生息しています。<br /> 標高329mの山頂へはロープウェーより登山がおすすめ。四季を肌で感じながら約1時間で頂上へ。450年前に織田信長公も同じ景色を眺めたと思うと、感慨深い気持ちになります。</span></p> <p><br /><span style="font-size: 10pt;"> 長良川を挟んで位置する「百々ヶ峰」は、空気が澄んだ日にはJR名古屋駅のツインタワーが一望できます</span><span style="font-size: 10pt;">。登山のあとは、長良川温泉にゆったりと浸かれば、疲れも吹き飛びます。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p> <span style="font-size: 10pt;"><strong> </strong></span></p> <p><span style="font-size: 12pt;"><strong>◆メディアアーツ都市、札幌の可能性  金田 </strong><strong>健一郎(札幌市役所)</strong></span></p> <p> <img style="float: left; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/nomaps.png" width="263" height="153" /><span style="font-size: 10pt;"><br /> 札幌市は、2013年にユネスコにより創設された創造都市ネットワークの「メディアアーツ都市」として認定され、札幌のクリエイティビティは世界中から注目されています</span><span style="font-size: 10pt;">。今年10月には、映画・音楽・IT(先端技術)の三分野及びその複合領域において、コンペティション、カンファレンス、ワークショップなど、産業、学術、文化がクロスする、最先端なクリエイティブビジネスの国際コンベンション「No Maps(ノーマップス)」が開催されました。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> 分野間の連携を通じて生み出される「新しい領域」「未知の領域」を真っ白な地図に見立て、その可能性をマッピングするというテーマのもと、コンテンツビジネスの活性化とグローバル展開の加速化を柱として、若手育成や文化創出も見据えた広がりのある事業となっています。今年はプレ開催、2017年に第1回目の本開催を予定しており、今後も札幌を「世界屈指のイノベーティブなまち」にすることを目指して、産学官一体で盛り上げていきます。</span></p> <p> </p> <p> </p> <p><span style="font-size: 12pt;"><strong>◆冬の夜空を焦がし彩る大輪の花  猿田 </strong><strong>達彦(埼玉県庁)</strong></span></p> <p><img style="float: left; margin: 8px;" src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/chichibufest.jpg" width="261" height="174" /> </p> <p><span style="font-size: 10pt;"> 日本の「三大美祭り」に数えられる祭りが埼玉県にあります。京都の「祇園祭」、岐阜の「高山祭」と並ぶその祭りは、「秩父夜祭」です</span><span style="font-size: 10pt;">。毎年12月1日から6日まで開催されます。この祭りの醍醐味は、冬の夜の暗い冷気に、祭りの熱気が入り混じる、独特の雰囲気と高揚感です。夜6時半頃、秩父神社から屋台(山車)が次々と現れ、囃子の調べに乗って曳かれてゆきます。夕闇を万灯で照らしながら進む絢爛かつ荘厳な姿に、見る人々は自然と心が躍り、曳行の終盤、勾配のきつい「団子坂」を駆け上る時、祭りは最高潮を迎えます。</span></p> <p><span style="font-size: 10pt;"> そして山車の頭上には七千発もの花火が打ち上げられ、冬の夜空を彩ります。この感動的な風景は、12月3日の大祭に見ることができます。池袋駅から特急レッドアロー号で80分ほど、是非一度お越しください。</span> </p> Vol.4 2016-05-18T09:37:27+09:00 2016-05-18T09:37:27+09:00 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news/1274-2016spring.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2016 SPRING Vol.4<br /></span></span></strong></span><span style="color: #ff6600;"><strong style="color: #0000ff; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;"><br /><br /></span></strong><strong><span style="font-size: large;">三重県主催 「MIE戦略経営塾」<br /></span></strong><span style="color: #333333; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"> <br /></span><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/MIE20160222.JPG" border="0" width="298" height="199" style="float: left; margin: 8px;" /><span style="color: #000000;"><br /> 2016年2月22日(月)、三重県のNEMU HOTEL & RESORTにおいて、「第2期MIE戦略経営塾」の最終講義が開催されました。</span><br /></span></span><span style="font-size: small;"> 冒頭、鈴木英敬三重県知事のご挨拶と、副塾長を務める西村訓弘三重大学副学長から趣旨説明が行われました。そして、寺島塾長は「2016年への視座」をテーマに掲げ、時代認識の進化やプロジェクト・エンジニアリングの重要性等について講義を行いました。<br /><br /></span><span style="font-size: small;"> 今回の講義には、東京戦略経営塾の塾生12名が参画し、MIE戦略経営塾の塾生と大いに交流を深めました。さらに、翌23日(火)には三重県の産業の魅力を巡る寺島文庫主催の「三重インダストリアルツアー」にも参画しました。</span><span style="font-size: small;">三重インダストリアルツアーでは、松阪市内の国内最大級の植物工場、半導体メモリーを製造する大手企業の四日市工場や、四日市化学コンビナートを立地として化学製品の製造・研究開発を行う大手企業の四日市事業所を訪れました。</span><span style="font-size: small;">三重県の先端的なプロジェクトを巡り、その産業力を目の当たりにするとともに、経営者である塾生のお一人おひとりにとって多くの刺激を受ける機会となりました。</span></p> <p> </p> <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2016 SPRING Vol.4<br /></span></span></strong></span><span style="color: #ff6600;"><strong style="color: #0000ff; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;"><br /><br /></span></strong><strong><span style="font-size: large;">三重県主催 「MIE戦略経営塾」<br /></span></strong><span style="color: #333333; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"> <br /></span><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/MIE20160222.JPG" border="0" width="298" height="199" style="float: left; margin: 8px;" /><span style="color: #000000;"><br /> 2016年2月22日(月)、三重県のNEMU HOTEL & RESORTにおいて、「第2期MIE戦略経営塾」の最終講義が開催されました。</span><br /></span></span><span style="font-size: small;"> 冒頭、鈴木英敬三重県知事のご挨拶と、副塾長を務める西村訓弘三重大学副学長から趣旨説明が行われました。そして、寺島塾長は「2016年への視座」をテーマに掲げ、時代認識の進化やプロジェクト・エンジニアリングの重要性等について講義を行いました。<br /><br /></span><span style="font-size: small;"> 今回の講義には、東京戦略経営塾の塾生12名が参画し、MIE戦略経営塾の塾生と大いに交流を深めました。さらに、翌23日(火)には三重県の産業の魅力を巡る寺島文庫主催の「三重インダストリアルツアー」にも参画しました。</span><span style="font-size: small;">三重インダストリアルツアーでは、松阪市内の国内最大級の植物工場、半導体メモリーを製造する大手企業の四日市工場や、四日市化学コンビナートを立地として化学製品の製造・研究開発を行う大手企業の四日市事業所を訪れました。</span><span style="font-size: small;">三重県の先端的なプロジェクトを巡り、その産業力を目の当たりにするとともに、経営者である塾生のお一人おひとりにとって多くの刺激を受ける機会となりました。</span></p> <p> </p> Vol.3 2016-05-18T09:30:48+09:00 2016-05-18T09:30:48+09:00 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news/1273-2015winter.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2015 WINTER Vol.3<br /></span><br /></span></strong><strong style="color: #0000ff; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;"><br />「観光立国」から地方創生を考える</span></strong></span></p> <p><span style="color: #0000ff;"><strong><span style="font-size: large;">多様なツーリズムによる地域創生の実現(『<a href="http://www.terashima-bunko.com/terashima/book-info.html#shin-kankorikkokuron">新・観光立国論』</a>資料編より)<br /></span></strong></span><span style="color: #ff9900;"><strong><span style="font-size: large;">北海道におけるインダストリアルツーリズム</span></strong></span></p> <p> <br /><span style="font-size: small;"> 昨今の地方創生論議のなかでも、地域資源を活用して地域の活性化を図るためには、日本の魅力・地方の魅力を活かした観光が大きな飛躍の要素として位置づけられています。前頁でも言及し、本年三月に視察にも伺った苫小牧東部地域(以下、「苫東」)を例に、インダストリアルツーリズムの可能性について紹介します。</span></p> <p><span style="font-size: small;"> 苫東は東西九㎞、南北一二㎞、開発面積一〇七〇〇haに及ぶ日本最大級の大規模工業開発地区です。年間一九〇〇万人を超える旅客数を誇る新千歳空港、北海道の海の玄関口としての役割を果たす苫小牧港から近く、高速道路とも近接し、新千歳空港まで一五分、札幌まで六〇分と交通インフラも整備されています。このような広大な土地や恵まれた立地、敷地内に整備された強固なエネルギーインフラ基盤などを活かし、自動車関連産業や石油備蓄基地などが立地しているほか、最近では先端技術を活用した新たな産業立地が進められています。<br /><br /></span></p> <p><span style="font-size: medium;"><strong>●植物工場</strong></span> </p> <p><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/syokubutsu.JPG" border="0" width="267" height="200" style="float: left; margin: 8px;" /><br /><br /> 苫東では、ICT技術を活用し、光や温度、養分などの栽培環境をコンピューター制御で最適化する植物工場を誘致、いちごやトマト、ベビーリーフなどの栽培を行っています。季節や天候に左右されず、一年を通して高品質な作物の生産が可能であり、最先端の省エネ技術等と組み合わせることによって、最先端のスマートアグリシステムを推進するとともに、既に多くの視察を受け入れており、インダストリアルツーリズムを展開し始めています。<br /><br /></span></p> <p> <br /><br /><br /><br /><br /><br /><strong><span style="font-size: medium;">●メガソーラー</span></strong></p> <p><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/mega.JPG" border="0" width="261" height="196" style="float: left; margin: 8px;" /><br /> 冷涼小雪で豊富な日射量を有する気候条件と広大な土地を活用し、苫東ではメガソーラーの集積が進んでいます。シャープによる第1、第2太陽光発電所が稼働しているほか、12月1日にはソフトバンクグループのSBエナジーと三井物産の出資により、国内最大級のメガソーラー(出力規模:約111MW、年間予想発電量:一般家庭約3万世帯分)が運転を開始しました。かつて石炭によって日本のエネルギーを支えた北海道には、広大な土地や自然資源を背景に、太陽光、風力、地熱、小水力など、多様な再生可能エネルギーが賦存しています。このようなエネルギー分野においても先端技術を活用することによって、インダストリアルツーリズムの可能性がさらに広がります。 </span></p> <p> <span style="font-size: small;"> <br /><br /> 本書資料編では、各地域のポテンシャルに着目し、「真の統合型リゾート」の形成による地域創生に向けた多様なツーリズム構想を例示しています。観光戦略を考えるにあたり、地域の誇りに対して創造的に付加価値をつけていくという視点が極めて重要であり、私たちが暮らしている地域のポテンシャルを改めて見つめ直し、「真の統合型リゾート」を構想するきっかけとして『新・観光立国論』が活用されれば、この上ない喜びです。</span></p> <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2015 WINTER Vol.3<br /></span><br /></span></strong><strong style="color: #0000ff; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;"><br />「観光立国」から地方創生を考える</span></strong></span></p> <p><span style="color: #0000ff;"><strong><span style="font-size: large;">多様なツーリズムによる地域創生の実現(『<a href="http://www.terashima-bunko.com/terashima/book-info.html#shin-kankorikkokuron">新・観光立国論』</a>資料編より)<br /></span></strong></span><span style="color: #ff9900;"><strong><span style="font-size: large;">北海道におけるインダストリアルツーリズム</span></strong></span></p> <p> <br /><span style="font-size: small;"> 昨今の地方創生論議のなかでも、地域資源を活用して地域の活性化を図るためには、日本の魅力・地方の魅力を活かした観光が大きな飛躍の要素として位置づけられています。前頁でも言及し、本年三月に視察にも伺った苫小牧東部地域(以下、「苫東」)を例に、インダストリアルツーリズムの可能性について紹介します。</span></p> <p><span style="font-size: small;"> 苫東は東西九㎞、南北一二㎞、開発面積一〇七〇〇haに及ぶ日本最大級の大規模工業開発地区です。年間一九〇〇万人を超える旅客数を誇る新千歳空港、北海道の海の玄関口としての役割を果たす苫小牧港から近く、高速道路とも近接し、新千歳空港まで一五分、札幌まで六〇分と交通インフラも整備されています。このような広大な土地や恵まれた立地、敷地内に整備された強固なエネルギーインフラ基盤などを活かし、自動車関連産業や石油備蓄基地などが立地しているほか、最近では先端技術を活用した新たな産業立地が進められています。<br /><br /></span></p> <p><span style="font-size: medium;"><strong>●植物工場</strong></span> </p> <p><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/syokubutsu.JPG" border="0" width="267" height="200" style="float: left; margin: 8px;" /><br /><br /> 苫東では、ICT技術を活用し、光や温度、養分などの栽培環境をコンピューター制御で最適化する植物工場を誘致、いちごやトマト、ベビーリーフなどの栽培を行っています。季節や天候に左右されず、一年を通して高品質な作物の生産が可能であり、最先端の省エネ技術等と組み合わせることによって、最先端のスマートアグリシステムを推進するとともに、既に多くの視察を受け入れており、インダストリアルツーリズムを展開し始めています。<br /><br /></span></p> <p> <br /><br /><br /><br /><br /><br /><strong><span style="font-size: medium;">●メガソーラー</span></strong></p> <p><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/mega.JPG" border="0" width="261" height="196" style="float: left; margin: 8px;" /><br /> 冷涼小雪で豊富な日射量を有する気候条件と広大な土地を活用し、苫東ではメガソーラーの集積が進んでいます。シャープによる第1、第2太陽光発電所が稼働しているほか、12月1日にはソフトバンクグループのSBエナジーと三井物産の出資により、国内最大級のメガソーラー(出力規模:約111MW、年間予想発電量:一般家庭約3万世帯分)が運転を開始しました。かつて石炭によって日本のエネルギーを支えた北海道には、広大な土地や自然資源を背景に、太陽光、風力、地熱、小水力など、多様な再生可能エネルギーが賦存しています。このようなエネルギー分野においても先端技術を活用することによって、インダストリアルツーリズムの可能性がさらに広がります。 </span></p> <p> <span style="font-size: small;"> <br /><br /> 本書資料編では、各地域のポテンシャルに着目し、「真の統合型リゾート」の形成による地域創生に向けた多様なツーリズム構想を例示しています。観光戦略を考えるにあたり、地域の誇りに対して創造的に付加価値をつけていくという視点が極めて重要であり、私たちが暮らしている地域のポテンシャルを改めて見つめ直し、「真の統合型リゾート」を構想するきっかけとして『新・観光立国論』が活用されれば、この上ない喜びです。</span></p> Vol.2 2016-05-18T09:25:41+09:00 2016-05-18T09:25:41+09:00 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news/1272-2015autumn.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2015 AUTUMN Vol.2</span><br /></span></strong><span style="font-size: large; color: #008000;"><strong><br /><br />札幌遠友夜学校と</strong><strong>新渡戸博士の理念を現在に</strong></span></span></p> <p><strong style="font-size: small; line-height: 1.3em;"><br />一般社団法人 新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会<br /></strong><span style="font-size: small;"><strong>代表理事 秋山 孝二 氏</strong></span></p> <p><span style="font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/nitobe.JPG" border="0" width="284" height="213" style="float: left; margin: 8px;" /></span><span style="font-size: small;"><br /> 私どもの会は、新渡戸稲造博士生誕一五〇年を記念して、二〇一二年一二月に、札幌遠友夜学校跡地近くで行われた講演会を契機に設立されました。</span><span style="font-size: small;">その趣旨は、新渡戸博士の国際性に裏付けられた高邁な思想と教養、一八九四年に、博士ご夫妻によって設立され五〇年間活動した「札幌遠友夜学校」の教育理念を、多くの方々とともに幅広く顕彰し、この跡地の放つメッセージを国内外に発信し、札幌市民として一条の光を灯す責務を感じたからです。第一に無償のボランティア精神による実践、第二に国際平和の実現、第三に『BUSHIDO』に基づく国際人の育成とアントレプレナーシップの涵養です。このような活動の場・拠点として、私たちは「札幌遠友夜学校記念館」(仮称)を建設したいと考えています。</span></p> <p><br /><span style="font-size: small;"> 今現在検討されている記念館での展示以外の事業概要は以下の通りです。(1)市民向け教養講座(ランゲージ・スクール、『武士道』・『農業本論』・『修養』他の読書会等)、(2)教育プログラム(不登校児童・生徒の学びの場、障がい者・女性の会等)、(3)国際交流事業(国際平和、国際社会のリーダー育成、諸外国教育機関との連携)、(4)大学等のアウトリーチ活動、他です。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> 記念館に先立ち事業の担い手の軸として、寺島実郎さんに塾長をお引き受け頂いている「遠友・未来塾(仮称)」をこの秋に立ち上げ、さらに「事業推進チーム」を形成し、構成メンバーは「考える会」役員・運営委員、東地区町内会役員、北海道大学の教職員及び学生、市民ボランティアのほか幅広い人材の参画を促して、二一世紀的な課題解決プログラムを充実して参ります。 <br /></span><br /><span style="font-size: small;"> この跡地は札幌市により、二〇一四年一二月に「新渡戸稲造記念公園」として造成され、私どもはこの公園の北東部(現在は更地)に、記念館建設を計画しています。これには、諸内部設備及び機器類を含めおよそ一億七千万円の資金が必要と見込まれており、現在は幅広い市民・企業・団体からの寄付を募っています。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> 一方、この間私たちは、ここの園銘板、二つの格言板(メモリアルウォール)、この土地とブロンズ像に関する説明板の設置に際して、市担当部署と意見交換・助言を続けてきました。記念館を思い描きながら、現地で公園内ブロンズ像他をご覧頂けると幸いです。</span></p> <p><br /><span style="color: #008000;"><strong><span style="font-size: small;"><一般社団法人 新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会></span></strong></span><br /> <a href="http://nitobe-enyu.org/" target="_blank">http://nitobe-enyu.org/</a></p> <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2015 AUTUMN Vol.2</span><br /></span></strong><span style="font-size: large; color: #008000;"><strong><br /><br />札幌遠友夜学校と</strong><strong>新渡戸博士の理念を現在に</strong></span></span></p> <p><strong style="font-size: small; line-height: 1.3em;"><br />一般社団法人 新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会<br /></strong><span style="font-size: small;"><strong>代表理事 秋山 孝二 氏</strong></span></p> <p><span style="font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/nitobe.JPG" border="0" width="284" height="213" style="float: left; margin: 8px;" /></span><span style="font-size: small;"><br /> 私どもの会は、新渡戸稲造博士生誕一五〇年を記念して、二〇一二年一二月に、札幌遠友夜学校跡地近くで行われた講演会を契機に設立されました。</span><span style="font-size: small;">その趣旨は、新渡戸博士の国際性に裏付けられた高邁な思想と教養、一八九四年に、博士ご夫妻によって設立され五〇年間活動した「札幌遠友夜学校」の教育理念を、多くの方々とともに幅広く顕彰し、この跡地の放つメッセージを国内外に発信し、札幌市民として一条の光を灯す責務を感じたからです。第一に無償のボランティア精神による実践、第二に国際平和の実現、第三に『BUSHIDO』に基づく国際人の育成とアントレプレナーシップの涵養です。このような活動の場・拠点として、私たちは「札幌遠友夜学校記念館」(仮称)を建設したいと考えています。</span></p> <p><br /><span style="font-size: small;"> 今現在検討されている記念館での展示以外の事業概要は以下の通りです。(1)市民向け教養講座(ランゲージ・スクール、『武士道』・『農業本論』・『修養』他の読書会等)、(2)教育プログラム(不登校児童・生徒の学びの場、障がい者・女性の会等)、(3)国際交流事業(国際平和、国際社会のリーダー育成、諸外国教育機関との連携)、(4)大学等のアウトリーチ活動、他です。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> 記念館に先立ち事業の担い手の軸として、寺島実郎さんに塾長をお引き受け頂いている「遠友・未来塾(仮称)」をこの秋に立ち上げ、さらに「事業推進チーム」を形成し、構成メンバーは「考える会」役員・運営委員、東地区町内会役員、北海道大学の教職員及び学生、市民ボランティアのほか幅広い人材の参画を促して、二一世紀的な課題解決プログラムを充実して参ります。 <br /></span><br /><span style="font-size: small;"> この跡地は札幌市により、二〇一四年一二月に「新渡戸稲造記念公園」として造成され、私どもはこの公園の北東部(現在は更地)に、記念館建設を計画しています。これには、諸内部設備及び機器類を含めおよそ一億七千万円の資金が必要と見込まれており、現在は幅広い市民・企業・団体からの寄付を募っています。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> 一方、この間私たちは、ここの園銘板、二つの格言板(メモリアルウォール)、この土地とブロンズ像に関する説明板の設置に際して、市担当部署と意見交換・助言を続けてきました。記念館を思い描きながら、現地で公園内ブロンズ像他をご覧頂けると幸いです。</span></p> <p><br /><span style="color: #008000;"><strong><span style="font-size: small;"><一般社団法人 新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会></span></strong></span><br /> <a href="http://nitobe-enyu.org/" target="_blank">http://nitobe-enyu.org/</a></p> Vol.1 2016-05-18T09:01:35+09:00 2016-05-18T09:01:35+09:00 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news/1271-2015summer.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2015 SUMMER Vol.1</span><br /><br />地方公共団体から日総研理事長室にて研修中の3名が、</span></strong></span><br /><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;">「地域の観光」をキーワードに郷土の魅力と可能性について論じます。</span></strong></span></p> <p><span style="font-size: small;"><br /><span style="color: #008000; font-size: medium;"><strong>◆信長流ホスピタリティ (岐阜市役所より)</strong></span></span><br /><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/gifu.jpg" border="0" width="275" height="185" style="float: left; margin: 8px;" /> <br /></span><span style="font-size: small;"> 四月に岐阜市から参りました。初の東京勤務ですが、入庁二〇年目という節目の年でもあり、多くを吸収できるよう一生懸命勉強して参ります。<br /></span><span style="font-size: small;"> さて、岐阜城一帯が『「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜』として文化庁から日本遺産に認定されました。岐阜市の金華山の頂上には織田信長の天下統一拠点・岐阜城があります。麓には長良川が流れ、漆黒の闇の中でかがり火だけを頼りに行われる伝統漁法「長良川の鵜飼」が行われています。(毎年五月一一日~一〇月一五日)。信長は、天下取りに邁進する一方、城内に巨大な庭園や宮殿を造り、自然を活かした眺望や鵜飼により有力者や賓客を接待し、仲間を増やしました。景観や鵜飼文化に価値を見出し、軍事施設である城を中心に「魅せる」という独創性を加え、最高のおもてなし空間としてまとめ上げたのです。冷徹非道、戦上手等のイメージがある信長が、岐阜城や城下で行ったのは、意外にも手厚いおもてなしだったのは驚きです。そんな信長から受け継がれ、今も息づくおもてなし文化を味わいに、岐阜市に足を運びませんか。</span></p> <p><span style="font-size: small;"> </span></p> <p><span style="color: #008000; font-size: medium;"><strong><br />◆2026年冬季オリンピック・パラリンピックにむけて (札幌市役所より)</strong></span><br /><span style="font-size: small;"><img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/sapporo.jpg" border="0" width="279" height="220" style="float: left; margin: 8px;" /></span></p> <p><span style="font-size: small;"> 昨年から参画させていただいた研究テーマの一つが「観光」です。真の観光立国実現にはサービス産業の高度化が必要であるとの考えの下、世界各国の先進事例の調査研究等を通じて広い視野から知恵と構想力で施策展開を図る重要性を自治体職員として日々実感しています。</span><br /><span style="font-size: small;"> 札幌市は、今から四三年前の一九七二年がまちづくりの大きな転換点となりました。一つは政令指定都市への移行、そしてもう一つがアジア初の冬季オリンピック開催でした。オリンピックをきっかけに、地下鉄や高速道路など都市インフラが整備されました。また、札幌の名を世界中に広め、都市の国際化に貢献しました。</span><br /><span style="font-size: small;"> しかし、今まさに新たな転換点を迎えようとしています。一九四万人都市に成長した札幌も、人口減少・異次元の高齢化社会に突入しつつあります。このような中、市民が夢を共有して時代の転換期を乗り越え、札幌の未来を創り上げていくため、昨年一一月に「2026年冬季オリンピック・パラリンピック」の招致に取り組むことを表明しました。将来にわたり魅力的なまちづくりを進めるためにも、多くの方々のご指導を賜りながら日々研鑽を重ねてまいります。<br /><br /></span></p> <p> <br /> </p> <p><span style="color: #008000; font-size: medium;"><strong>◆四日市市―インダストリアル・ツーリズムの可能性 (三重県庁より)</strong></span><br /><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/yokkaichi.jpg" border="0" width="283" height="189" style="float: left; margin: 8px;" /><br /> 三年目の研修を迎えます。昨年にはシンガポールの統合型リゾートを視察するなど、骨太な観光立国形成にむけて研究を深めています。今回は、私の地元・三重県四日市市を事例に、新たなツーリズムのポテンシャルを紹介いたします。</span><br /><span style="font-size: small;"> 四日市市は、三重県北部に位置し、日本随一の工業地帯である中京工業地帯の中核を占めています。同市は、昭和三〇年代に形成された我が国初の石油化学コンビナートがあり、産業力によって日本経済を牽引しています。かつては、大気汚染や水質汚染等により「四日市ぜんそく」に直面しましたが、市民、企業や行政等の努力で都市環境が改善され、今や産学官民で環境やエネルギーに関する意欲的な取組みを推進するエコでクリーンな産業都市に変貌しつつあります。また、スマートフォンやデータセンターなどに用いる「NAND型フラッシュメモリ」を生産する東芝の拠点を擁しており、世界シェアが三割超と世界のトップ争いを繰り広げているなど、次世代ICT 分野において同市は重要な役割を果たすことが想定されます。</span><br /><span style="font-size: small;"> 四日市市が経験してきた公害の克服とエコでクリーンな産業都市の実現、先端的プロジェクト等のコンテンツは、環境課題の解決や経済成長を促すプロジェクトを求めるアジア新興国の行政関係者やビジネスパーソン等にとって価値あるモデルとなりえます。このため、四日市市は「インダストリアルツーリズム」という新たなツーリズムを本格的に展開することにより交流人口を増加させる大きなポテンシャルを有していると言えるでしょう。</span></p> <p><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small; color: #000000;">2015 SUMMER Vol.1</span><br /><br />地方公共団体から日総研理事長室にて研修中の3名が、</span></strong></span><br /><span style="color: #ff6600;"><strong><span style="font-size: large;">「地域の観光」をキーワードに郷土の魅力と可能性について論じます。</span></strong></span></p> <p><span style="font-size: small;"><br /><span style="color: #008000; font-size: medium;"><strong>◆信長流ホスピタリティ (岐阜市役所より)</strong></span></span><br /><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/gifu.jpg" border="0" width="275" height="185" style="float: left; margin: 8px;" /> <br /></span><span style="font-size: small;"> 四月に岐阜市から参りました。初の東京勤務ですが、入庁二〇年目という節目の年でもあり、多くを吸収できるよう一生懸命勉強して参ります。<br /></span><span style="font-size: small;"> さて、岐阜城一帯が『「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜』として文化庁から日本遺産に認定されました。岐阜市の金華山の頂上には織田信長の天下統一拠点・岐阜城があります。麓には長良川が流れ、漆黒の闇の中でかがり火だけを頼りに行われる伝統漁法「長良川の鵜飼」が行われています。(毎年五月一一日~一〇月一五日)。信長は、天下取りに邁進する一方、城内に巨大な庭園や宮殿を造り、自然を活かした眺望や鵜飼により有力者や賓客を接待し、仲間を増やしました。景観や鵜飼文化に価値を見出し、軍事施設である城を中心に「魅せる」という独創性を加え、最高のおもてなし空間としてまとめ上げたのです。冷徹非道、戦上手等のイメージがある信長が、岐阜城や城下で行ったのは、意外にも手厚いおもてなしだったのは驚きです。そんな信長から受け継がれ、今も息づくおもてなし文化を味わいに、岐阜市に足を運びませんか。</span></p> <p><span style="font-size: small;"> </span></p> <p><span style="color: #008000; font-size: medium;"><strong><br />◆2026年冬季オリンピック・パラリンピックにむけて (札幌市役所より)</strong></span><br /><span style="font-size: small;"><img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/sapporo.jpg" border="0" width="279" height="220" style="float: left; margin: 8px;" /></span></p> <p><span style="font-size: small;"> 昨年から参画させていただいた研究テーマの一つが「観光」です。真の観光立国実現にはサービス産業の高度化が必要であるとの考えの下、世界各国の先進事例の調査研究等を通じて広い視野から知恵と構想力で施策展開を図る重要性を自治体職員として日々実感しています。</span><br /><span style="font-size: small;"> 札幌市は、今から四三年前の一九七二年がまちづくりの大きな転換点となりました。一つは政令指定都市への移行、そしてもう一つがアジア初の冬季オリンピック開催でした。オリンピックをきっかけに、地下鉄や高速道路など都市インフラが整備されました。また、札幌の名を世界中に広め、都市の国際化に貢献しました。</span><br /><span style="font-size: small;"> しかし、今まさに新たな転換点を迎えようとしています。一九四万人都市に成長した札幌も、人口減少・異次元の高齢化社会に突入しつつあります。このような中、市民が夢を共有して時代の転換期を乗り越え、札幌の未来を創り上げていくため、昨年一一月に「2026年冬季オリンピック・パラリンピック」の招致に取り組むことを表明しました。将来にわたり魅力的なまちづくりを進めるためにも、多くの方々のご指導を賜りながら日々研鑽を重ねてまいります。<br /><br /></span></p> <p> <br /> </p> <p><span style="color: #008000; font-size: medium;"><strong>◆四日市市―インダストリアル・ツーリズムの可能性 (三重県庁より)</strong></span><br /><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/yokkaichi.jpg" border="0" width="283" height="189" style="float: left; margin: 8px;" /><br /> 三年目の研修を迎えます。昨年にはシンガポールの統合型リゾートを視察するなど、骨太な観光立国形成にむけて研究を深めています。今回は、私の地元・三重県四日市市を事例に、新たなツーリズムのポテンシャルを紹介いたします。</span><br /><span style="font-size: small;"> 四日市市は、三重県北部に位置し、日本随一の工業地帯である中京工業地帯の中核を占めています。同市は、昭和三〇年代に形成された我が国初の石油化学コンビナートがあり、産業力によって日本経済を牽引しています。かつては、大気汚染や水質汚染等により「四日市ぜんそく」に直面しましたが、市民、企業や行政等の努力で都市環境が改善され、今や産学官民で環境やエネルギーに関する意欲的な取組みを推進するエコでクリーンな産業都市に変貌しつつあります。また、スマートフォンやデータセンターなどに用いる「NAND型フラッシュメモリ」を生産する東芝の拠点を擁しており、世界シェアが三割超と世界のトップ争いを繰り広げているなど、次世代ICT 分野において同市は重要な役割を果たすことが想定されます。</span><br /><span style="font-size: small;"> 四日市市が経験してきた公害の克服とエコでクリーンな産業都市の実現、先端的プロジェクト等のコンテンツは、環境課題の解決や経済成長を促すプロジェクトを求めるアジア新興国の行政関係者やビジネスパーソン等にとって価値あるモデルとなりえます。このため、四日市市は「インダストリアルツーリズム」という新たなツーリズムを本格的に展開することにより交流人口を増加させる大きなポテンシャルを有していると言えるでしょう。</span></p> 2015年 第50号より 2016-05-19T05:09:27+09:00 2016-05-19T05:09:27+09:00 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news/1280-2015-50.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p><strong><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="color: #00ccff;"><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: small;"><span style="color: #ffffff;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="color: #00ccff;"><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: small;"><span style="color: #000000;">2015年第50号より<br /></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></strong>2013年第32号より</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></strong></p> <p><strong><span style="font-size: large; color: #008000;">寺島文庫 近隣探訪記</span></strong><br /><strong><span style="font-size: large; color: #ff6600;">滝沢馬琴と深く結びついた築土神社</span></strong><br /><br /></p> <p><span style="font-size: small;"> 前号でご紹介した滝沢馬琴の足跡を辿り、改めて築土神社を訪ねてみました。寺島文庫から目白通りを横切り、「中坂」と呼ばれるやや急な坂を少し上ったところにある境内は、モダンなビルの一角に埋め込まれた感があり、狛犬と鳥居で初めて神社と分かります。</span><span style="font-size: small;">参道を歩み手水舎と拝殿が視界に入ると突然、厳かな神社の雰囲気が漂います。拝殿右には世継稲荷の祠が建っています。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> 馬琴が九段に住んでいた江戸末期、この地には世継稲荷のみが存在していました。馬琴は寺島文庫近くの自身の屋敷から5分もかからないこの世継稲荷に頻繁に参拝し、「世継稲荷参詣」と記した直筆の扁額を奉納しています。商家に婿入りして町人となった馬琴は、滝沢家の武家再興を長男に望んだのでしょう。しかし長男は40歳手前で亡くなります。すると馬琴は孫を御家人身分とすることに尽力しました。</span><span style="font-size: small;">世継稲荷の境内に平将門を祭神とする築土神社が移ってきたのは1954年のことです。神社創建は、将門の首を桶に納めて祀られた940年に遡ります。長い歴史の中で幾度も戦火や水害に逢い、改築と移転を繰り返し、馬琴の時代には現在の築土八幡神社(飯田橋駅北西部・徒歩3分)にありました。こちらにも九段の馬琴の屋敷からは徒歩で通えます。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> 後に馬琴は、将門が祀られている神田明神近くに息子を住まわせ、自身もそこへ転居しています。また将門の名が登場する『昔語質屋庫(むかしがたりしちやのくら)』や合巻(絵入り娯楽本)である『相馬内裡後雛棚(そうまだいりののちのひなだな)』を描いてもいます。寺島文庫の近隣を歩くと、馬琴の信仰心が蘇ってくるようです。</span></p> <table border="0"> <tbody> <tr> <td><img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-elise/elise2015chikudo.JPG" border="0" alt="" width="283" height="212" /></td> <td> </td> </tr> <tr> <td><span style="font-size: small;">◆築土神社にて笑顔のエリゼ</span></td> <td> </td> </tr> </tbody> </table> <p><strong><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="color: #00ccff;"><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: small;"><span style="color: #ffffff;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="color: #00ccff;"><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: small;"><span style="color: #000000;">2015年第50号より<br /></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></strong>2013年第32号より</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></strong></p> <p><strong><span style="font-size: large; color: #008000;">寺島文庫 近隣探訪記</span></strong><br /><strong><span style="font-size: large; color: #ff6600;">滝沢馬琴と深く結びついた築土神社</span></strong><br /><br /></p> <p><span style="font-size: small;"> 前号でご紹介した滝沢馬琴の足跡を辿り、改めて築土神社を訪ねてみました。寺島文庫から目白通りを横切り、「中坂」と呼ばれるやや急な坂を少し上ったところにある境内は、モダンなビルの一角に埋め込まれた感があり、狛犬と鳥居で初めて神社と分かります。</span><span style="font-size: small;">参道を歩み手水舎と拝殿が視界に入ると突然、厳かな神社の雰囲気が漂います。拝殿右には世継稲荷の祠が建っています。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> 馬琴が九段に住んでいた江戸末期、この地には世継稲荷のみが存在していました。馬琴は寺島文庫近くの自身の屋敷から5分もかからないこの世継稲荷に頻繁に参拝し、「世継稲荷参詣」と記した直筆の扁額を奉納しています。商家に婿入りして町人となった馬琴は、滝沢家の武家再興を長男に望んだのでしょう。しかし長男は40歳手前で亡くなります。すると馬琴は孫を御家人身分とすることに尽力しました。</span><span style="font-size: small;">世継稲荷の境内に平将門を祭神とする築土神社が移ってきたのは1954年のことです。神社創建は、将門の首を桶に納めて祀られた940年に遡ります。長い歴史の中で幾度も戦火や水害に逢い、改築と移転を繰り返し、馬琴の時代には現在の築土八幡神社(飯田橋駅北西部・徒歩3分)にありました。こちらにも九段の馬琴の屋敷からは徒歩で通えます。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> 後に馬琴は、将門が祀られている神田明神近くに息子を住まわせ、自身もそこへ転居しています。また将門の名が登場する『昔語質屋庫(むかしがたりしちやのくら)』や合巻(絵入り娯楽本)である『相馬内裡後雛棚(そうまだいりののちのひなだな)』を描いてもいます。寺島文庫の近隣を歩くと、馬琴の信仰心が蘇ってくるようです。</span></p> <table border="0"> <tbody> <tr> <td><img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-elise/elise2015chikudo.JPG" border="0" alt="" width="283" height="212" /></td> <td> </td> </tr> <tr> <td><span style="font-size: small;">◆築土神社にて笑顔のエリゼ</span></td> <td> </td> </tr> </tbody> </table> 2015年 第49号より 2016-05-19T04:53:34+09:00 2016-05-19T04:53:34+09:00 https://terashima-bunko.com/bunko-project/bunko-news/1279-2015-49.html yamashitadmin2010 takeshikojima555@gmail.com <p><strong><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="color: #00ccff;"><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: small;"><span style="color: #ffffff;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="color: #00ccff;"><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: small;"><span style="color: #000000;">2015年第49号より<br /></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></strong>2013年第32号より</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></strong></p> <p><strong style="color: #008000; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;">寺島文庫 近隣探訪記<br /></span></strong><span style="color: #0000ff;"><strong><span style="font-size: large;">滝沢馬琴の硯の井戸</span></strong></span></p> <p><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/takkizawabakin.JPG" border="0" width="262" height="203" style="float: left; margin: 8px;" /><br /> 寺島文庫のほど近く、徒歩で3分余りの現在はマンションが建つ地に「滝沢馬琴の硯の井戸」があります。原稿料のみで生計を立てた日本初の作家として知られる滝沢馬琴(1767~1848年)は、 1793(寛政5)年、27歳で雑貨商を営み家主でもあった会田家に婿入りし、その後30年余りを九段北(当時の呼称は元飯田町中坂下)の地で過ごしました。48歳のとき、馬琴は代表作となる『南総里見八犬伝』を書き始め、転居後の期間を含め28年を費やして完成させました。「硯の井戸」の呼称は、馬琴が硯に水を汲み、筆を洗っていたことに因みます。</span><br /><span style="font-size: small;"> 馬琴は、1767(明和4)年6月5日、旗本松平鍋五郎家に仕えた滝沢興義の三男として深川の松平邸で生まれました。主家の孫のお守り役を務めた馬琴は、この孫の暴力に耐えかねて14歳で生家を離れます。この後、会田家に婿入りするまで生活は安定せず、職を転々として放蕩を尽くした時期もありました。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> 生計を立てるため当初は黄表紙(絵入りの娯楽本)を著した馬琴は、会田家に婿入りした後、武士出身であることのプライドを持ちながら経世済民を説く読本(文章中心の読み物)を創作し続けます。この過程で書かれたのが、「孝」「仁」「信」「義」「礼」「悌」「智」「忠」の儒教的価値観を盛り込んだ『八犬伝』(1814年刊行開始)であり、文武と質素倹約を重んじる寛政の改革(1787~1793年)の後の時代風潮の中で、多くの人々に読まれました。『八犬伝』執筆途中に馬琴が失明したため、長男の妻・路の口述筆記によって完成させたエピソ ードは広く知られています。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> ところで、馬琴は大変な読書好きで蔵書家でした。馬琴は、役に立たない本を書いて原稿料を稼ぐのは役に立つ本を購入するためである、と言い切っています。武士としての滝沢家の再興を願い、自分の孫を士分とするため、御家人株購入の費用に充てるべく馬琴が売却した蔵書は数千冊に及びました。この時の馬琴の思いは、苦渋に満ちていたことでしょう。</span><br /><span style="font-size: small;"> 寺島の執筆活動の基点であり約4万冊の蔵書を有する寺島文庫が九段の地に創設されたのは、この地で執筆と学問に真摯に向き合った滝沢馬琴の磁力に引かれたからに違いありません。<br /><br /></span></p> <p><span style="font-size: small;"><主要参考文献>『八犬伝・馬琴研究』</span><br /><span style="font-size: small;">橋本眞一</span><br /><span style="font-size: small;">新典社 2012年</span></p> <p><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: large;"><strong><span style="color: #008000;"> </span></strong></span></span></p> <p><strong><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="color: #00ccff;"><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: small;"><span style="color: #ffffff;"><strong><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #008000;"><span style="color: #00ccff;"><span style="font-size: large;"><span style="font-size: small;"><span style="font-size: large;"><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: small;"><span style="color: #000000;">2015年第49号より<br /></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></strong>2013年第32号より</span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></span></strong></p> <p><strong style="color: #008000; font-size: 12.16px; line-height: 1.3em;"><span style="font-size: large;">寺島文庫 近隣探訪記<br /></span></strong><span style="color: #0000ff;"><strong><span style="font-size: large;">滝沢馬琴の硯の井戸</span></strong></span></p> <p><span style="font-size: small;"> <img src="https://terashima-bunko.com/images/stories/bunko-letter/takkizawabakin.JPG" border="0" width="262" height="203" style="float: left; margin: 8px;" /><br /> 寺島文庫のほど近く、徒歩で3分余りの現在はマンションが建つ地に「滝沢馬琴の硯の井戸」があります。原稿料のみで生計を立てた日本初の作家として知られる滝沢馬琴(1767~1848年)は、 1793(寛政5)年、27歳で雑貨商を営み家主でもあった会田家に婿入りし、その後30年余りを九段北(当時の呼称は元飯田町中坂下)の地で過ごしました。48歳のとき、馬琴は代表作となる『南総里見八犬伝』を書き始め、転居後の期間を含め28年を費やして完成させました。「硯の井戸」の呼称は、馬琴が硯に水を汲み、筆を洗っていたことに因みます。</span><br /><span style="font-size: small;"> 馬琴は、1767(明和4)年6月5日、旗本松平鍋五郎家に仕えた滝沢興義の三男として深川の松平邸で生まれました。主家の孫のお守り役を務めた馬琴は、この孫の暴力に耐えかねて14歳で生家を離れます。この後、会田家に婿入りするまで生活は安定せず、職を転々として放蕩を尽くした時期もありました。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> 生計を立てるため当初は黄表紙(絵入りの娯楽本)を著した馬琴は、会田家に婿入りした後、武士出身であることのプライドを持ちながら経世済民を説く読本(文章中心の読み物)を創作し続けます。この過程で書かれたのが、「孝」「仁」「信」「義」「礼」「悌」「智」「忠」の儒教的価値観を盛り込んだ『八犬伝』(1814年刊行開始)であり、文武と質素倹約を重んじる寛政の改革(1787~1793年)の後の時代風潮の中で、多くの人々に読まれました。『八犬伝』執筆途中に馬琴が失明したため、長男の妻・路の口述筆記によって完成させたエピソ ードは広く知られています。<br /></span><br /><span style="font-size: small;"> ところで、馬琴は大変な読書好きで蔵書家でした。馬琴は、役に立たない本を書いて原稿料を稼ぐのは役に立つ本を購入するためである、と言い切っています。武士としての滝沢家の再興を願い、自分の孫を士分とするため、御家人株購入の費用に充てるべく馬琴が売却した蔵書は数千冊に及びました。この時の馬琴の思いは、苦渋に満ちていたことでしょう。</span><br /><span style="font-size: small;"> 寺島の執筆活動の基点であり約4万冊の蔵書を有する寺島文庫が九段の地に創設されたのは、この地で執筆と学問に真摯に向き合った滝沢馬琴の磁力に引かれたからに違いありません。<br /><br /></span></p> <p><span style="font-size: small;"><主要参考文献>『八犬伝・馬琴研究』</span><br /><span style="font-size: small;">橋本眞一</span><br /><span style="font-size: small;">新典社 2012年</span></p> <p><span style="color: #0000ff;"><span style="font-size: large;"><strong><span style="color: #008000;"> </span></strong></span></span></p>