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岩波書店「世界」2015年12月号 脳力のレッスン164特別篇 戦後民主主義の新たな地平―与えられた民主主義を超えて


 
戦後民主主義の空洞化を再確認するような二〇一五年の夏であった。なにしろ、大多数の国民が理解も支持もしていない安保法案が、代議制民主主義のルールを満たしたとして成立し、一内閣の判断で、大多数の憲法学者・法曹関係者が「憲法違反」とする法案が成立する事態を目撃したのである。「民主主義は死んだ」という叫びさえ空しいほど、事態は深刻である。だが、日本における民主主義の空洞化など、今日に始まった話しともいえない。そもそも、この国が民主主義を真剣に希求したことなどあるのか。私自身、戦後生まれ日本人の先頭世代たる団塊の世代として、戦後民主主義を再考し、次なる進化を考察したい。

 

与えられた民主主義への当惑と馴化

 一九四五年の敗戦後、ためらいの中での民主主義のスタートであった。同年一〇月、連合国最高司令官マッカーサーが、幣原内閣に「民主化への五大改革」を指示、後の日本国憲法に凝縮される「戦後民主主義」が動き始めた。つまり、与えられた民主主義であった。これを受け止めた日本人の当惑は、雑誌『世界』の創刊号(一九四六年一月号)の安倍能成の巻頭論文「剛毅と真実と知恵とを」に象徴される。

 「民主主義的精神はその根底に真理と正義とによって受け容れられるべきではあるが、歴史と伝統とを異にせる日本に対しては、アメリカそのままの民主主義の模倣的再現を試みる積りのないことは、アメリカ人自身の言明せる所である」と安倍は述べ、同じ号に寄稿された美濃部達吉の「民主主義と我が議会制度」に至っては、「それ(日本のこれからの民主主義)は、国民主権という意味においての民主主義ではなく、君主主権主義は依然これを確保しながら、君主が民の心を以て心と為し、民意に従って国政を行う事が民主主義の要求するところに外ならぬ」という次元の認識だった。直前まで国家主義一色だった日本人の困惑は推して知るべしである。

 真剣に戦後民主主義に向き合った論者であった日高六郎は、一九七六年九月号の『世界』で「戦後思想を考える」と題し、次のように書いた。「軍国主義から民主主義への移動がこんなにも楽なものだと、だれが予想していただろう。……いま私たちは、民主主義から得体の知れない管理主義的全体主義へのなだらかな道を歩いているのかもしれない」

 一九七六年といえば、六〇年安保と七〇年全共闘運動という「政治の季節」が一巡し、日本が「高度経済成長」の時代の空気に包まれていた頃であった。一九六六年に日本の一人当たりGDPは一〇〇〇ドルを超し、一九八一年に一万ドルを超すのだが、一五年間で一人当たりGDPを一〇倍にした時代であった。民主主義的風潮が、なんとなく国民に浸透したかに見えて、何かが本質的に欠けている、そんな不安がよぎる時代だった。

 その約一〇年前の一九六七年、法社会学者渡辺洋三は『日本における民主主義の状態』(岩波新書)を書き、戦後二〇年が経過した時点での日本を分析し、「多数党が与党として政府を形成し、政府の政策を多数党の名でおしつけるという与党と政府のなれあいのため、議会がチェック・アンド・バランスの関係に立つという三権分立の民主的理念を放棄している」ことに危機意識を語っている。日本国憲法が施行されて二〇年、戦後民主主義が一応定着したかに思われた時点でも、民主主義の空洞化は常態であった。

 戦後民主主義を考える時、忘れてならないのが「六〇年安保」とそれを思想的に支えた丸山眞男であろう。岩波新書『日本の思想』(一九六一年)に所収されている「『である』ことと『する』こと」は一九五八年一〇月の岩波文化講座での講演に基づく論稿だが、戦後最大の政治の季節「六〇年安保」の市民運動を支える基盤となった。「政治を職業政治家の集団である『政界』の専有物として国会のなかにだけ封じ込めること」を拒否し、「民主主義とはもともと政治を特定身分の独占から広く市民にまで解放する運動として発展した」と語り、「~である」とご託宣を論ずることよりも「行動すること」の価値を示唆した議論は、六〇年安保に向き合った人たちの心に響いた。ピーク時、国会前に一七万人、全国で五八〇万の人が安保改定阻止のデモに参加した。だが、その丸山眞男も、七〇年安保における全共闘運動においては、「ブルジョア民主主義」の担い手として指弾され、研究室を追われた。六〇年安保における市民運動の敗北を引きずり、若者は角材とヘルメットで武装し、「ゲバルトの論理」に陶酔した。しかし、大学の中だけの嵐に過ぎなかった運動は孤立と挫折を迎え、七〇年代の高度成長期を背景に、ゲバ学生さえ企業戦士として産業の現場にあえなく吸収されていった。

 続いて登場したのが「無共闘世代」であり、キャンパスは立て看板も角材もない同好会とサークル活動の場となった。一九五六年生まれの田中康夫の『なんとなく、クリスタル』や泉麻人の『ナウのしくみ』に象徴される連帯も共闘もせず、自分の関心事に専心する徹底した私生活主義世代が時代の先頭を走り始めた。このころから、脱イデオロギー・非政治的人間の存在が重くなり、政治はほぼ親が政治家という種族の家業となり、まともな人間は経済の現場か自分の価値観の世界を生きるか、日本経済の世界展開の波に乗って海外へと動き、閉ざされた日本の政治に関心を向けることは少なくなった。

 改めて、日本国憲法九七条を読むと「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とあるが、結局、日本人が分らないまま今日に至っているのが、この「自由獲得の努力」である。

 私は今、本誌で「17世紀オランダからの視界」という連載を続け、「近代」の体系的総括を試みているが、つくづく思うのは民主主義のために格闘した先人の足跡である。デカルトの「われ思う故にわれあり」という近代的自我への気付き、英国の清教徒革命と共和制の挫折、そして王政復古時にオランダに亡命して名誉革命で英国に帰国したJ・ロックが『統治二論』を書き、王権神授を否定して人民の自己決定権を正当化した苦闘、さらにそれらが米国独立戦争やフランス革命に影響を与えた歴史の積み重ねを想起するならば、民主主義の上澄みを受容しただけの日本の浅薄さに気付かざるをえない。平和で安定した戦後日本を生きた日本人は、普遍的価値を重視することよりも自分が帰属する組織の「ウチの会社」の価値に埋没していった。伊東光晴は、『戦後思想の潮流』(新評論、一九七八年)において、「桃太郎主義を超えて」という論稿を寄せ、日本人が帰属意識を抱く集団の内には温かく、外には冷たく緊張感をもって構える傾向を「桃太郎主義」と指摘し、「利益共同体をこえる普遍の論理によるアソシエイトという行動」を促していた。そろそろ内輪のデモクラシーを脱し、「普遍の論理」を正視すべき時ではないのか。

 

団塊の世代として―――体験的戦後民主主義

 敗戦後の昭和二〇年から二五年に生まれた世代を「団塊の世代」という。この世代こそ戦後民主主義の申し子である。黒く塗りつぶした軍国教育の教科書を用いていた敗戦直後の混迷した教育現場が、一九五〇年代に入って少しずつ落ち着きを見せて「戦後民主教育」が姿を見せた頃、小学校に通い始め、日本人として初めて民主教育を受けて育った世代なのである。私自身、一九四七年(昭和二二年)生まれで、小中学校時代、教師たちが戦後民主主義への適応に格闘していた思い出がある。

 札幌の小学校五年生の時、炭坑街からの転校生だった私が、唐突に生徒会長選挙に立たされることになった。奇妙なほど本格的な選挙運動がなされ、タスキをかけて三年生以上のクラスを回って支持を訴え、全校集会での立会演説会が行われた。教師たちが当選を期待していた本命候補を破り、何故か私が当選、その後、札幌市こども議会の議長にもなり、市議会の会場で、模擬議会の議事運営を行い、当時の教師たちの本音に触れる機会となった。学校の委員、クラス委員になっても、委員バッジは付けさせない。「特権意識を持たせないため」との説明だった。さすがに、「運動会で一等・二等の順位をつけない」ということはなかったが、「平等主義」の徹底が民主教育だとする風潮は存在した。

 人口が塊になっていたため、団塊の世代が通過する時、軋みが社会問題として噴出した。「七〇年安保」を巡る「全共闘運動」も、この世代が学生として主導した運動であった。

 計算も展望もない未熟な「全否定」を叫ぶ学園内の運動にすぎなかったが、私は早稲田大学の一般学生として「全共闘運動」と正面から向き合い、一年間にわたる学園封鎖を体験した。社青同(社会党)、民青(共産党)など大人が指導する政治活動や小田実のベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)、ノンセクトラジカルなど、様々な活動家が入り乱れていた。

 「左翼黄金時代」のキャンパスでは、私は「右翼秩序派」とされたが、機動隊導入で先輩・友人たちが就職活動に去って行っても、少数の仲間で「大学変革・社会変革」の活動を続けた思い出がある。その後、様々な現場を生きてきた友人達も高齢者に差し掛かったわけだが、結局、あの全共闘運動の時、どうしていたのかが、それぞれの人生に投影されているという思いが強い。器用に逃げていた者はどこまでも逃げ続ける人生を辿り、逃げずに本質を見つめる者は、一隅を照らし自前の人生を持ち堪えている。

 今秋、早稲田大学のホームカミング・デーで話をする機会があり、その夜、学部卒業時のクラス会が行われた。久々に旧友の話を聞くと、二〇数人の内少なくとも四人がそれぞれの思いで、この夏の安保法制を巡るデモに参加したという。

 団塊の世代が就職し、社会参加し始めた一九七〇年前後は、高度成長期で、幸運にも就職の扉は開かれていた。つまり、右肩上がりの時代に企業戦士となったこの世代には「真っ赤なリンゴ」という言葉が囁かれた。「丸山眞男とマルクスの結婚で、表面はアカ(左翼)がかっているが一皮剝けば真っ白だ」というジョークである。その後、バブル期に中間管理職として組織を支える役割を演じ、「ウチの会社」意識の担い手に変質していった。

 このことは拙著『リベラル再生の基軸』(岩波書店、二〇一四年)で書いたが、実は、民主党政権の失敗は「団塊の世代の失敗」でもあった。鳩山由紀夫、菅直人、仙谷由人をはじめ、二〇〇九年から三年間の民主党政権には、一五人の団塊の世代が「大臣・副大臣・党三役」として参画した。団塊の世代の特色でもあり、この世代を戦闘する戦後日本人が身につけた、強靭な価値基軸を持たない者の危い変容性がこの政権の迷走の要因であった。

 タテマエとしての理想主義への傾斜、そして要領のより現実主義への反転、つまり、入口の議論では「故郷は地球村」「コンクリートからヒトへ」といった美しいキャッチコピーが好きで、複雑な厳しい現実に直面するとあえなく変容する。このことは、沖縄基地問題から原発問題まで、あきれるほど無責任な変容を我々は目撃することになった。

 残念なことに、団塊の世代は戦後日本人の先頭世代としての責任をまだ果たしていない。仮性成熟の世代というべきで、キレイごとの世界を脱して何を成し遂げるかの覚悟ができていない。戦後の残滓というべき課題、安全保障、原発、沖縄基地などの問題を突き詰めるならば、結局のところ米国との関係であり、「反米・嫌米」の次元を超えて、真剣に日米戦略対話を進める決意と構想が求められるわけで、対米関係の再設計なくしては日本の新しい時代は開かれないのである。

 フォークソング、グループサウンズ、ニューミュージックに滲み出る世界観、つまり「優しさの世代」として身につけたものが、私生活主義の独り言で終わるのか。

 「シルバー・デモクラシー」という言葉が重みを増している今、投票人口の六割を高齢者が占めると予想される時代に向けて、戦後民主主義の責任世代として、どう折り合いをつけるのか。団塊の世代は自ら解答を出さねばならない。

 

戦後民主主義の進化―――代議制の錬磨と首相専制の拒否

 「戦前」と言われた日本にも、それなりの民主化への前進が見られた。明治期の自由民権運動や大正デモクラシーも一定の意義を持ちえたが、国権主義的な枠組みの中での限定的国民参加であった。一九二五年三月の第五〇回帝国議会で、男子の普通選挙が実現することになり、それまでの選挙権における納税要件が撤廃され、二五歳以上の男子には選挙権が与えられたが、婦人、植民地住民、生活困窮者には与えられなかった。注目すべきは、同じ第五〇回帝国議会で、「治安維持法」が成立していることである。「国権主義的な枠組みの中で民主化」がその後の日本の進路を決めていくのである。

 確かに、一九二五年の「普通選挙」により、有権者はそれまでの三二八万人から一二四〇万人へと四倍近く増え、国民の政治参加への道は拡大された。しかし、選挙権の拡大は戦争を抑制するどころか増幅する装置となったことは、その後の「大政翼賛会」の形成過程を想起すれば明らかである。デモクラシーと総力戦(国民戦争)は、戦争への自発的協力を促す仕組みとして相関していくのである。

 我々は、日本における民主主義の歴史の中で、戦後民主主義の意味を踏み固め、その進化を図るべき局面にある。まず、戦後民主主義は「与えられた民主主義」という限界を内包しながらも、「婦人参政権」の実現、二〇歳からの若者への投票権の拡大を柱とする民主化への前進という意味があることを確認すべきである。

 戦後民主主義に疑問を抱く人たちの本音に、戦後民主主義は悪平等をもたらしたという論点があることに気付く。そして、「女子供」が衆愚政治を増幅させているという蔑民意識が見え隠れする。つまり、より多くの国民の意思決定への参画を快く思っていないのである。それ故に、常に多数派を偽装した選民による意思決定への誘惑が生じる。いうまでもなく、民主主義とは「多数派の支配と少数派の擁護」である。問題はその「多数派」の正当性であり、民主主義を志向する者にとって、現下の日本の政治は正当性を喪失しつつある。

 考えてみよう。二〇一四年一二月の総選挙は、野党の準備不足を衝いた抜き打ち解散で、争点は「アベノミクスへの信任」とされ、決して安保法制や憲法改正を争う選挙ではなかった。結果は、自民四議席減、公明四議席増で、大勝を目論んだ政権の意図は空振りであった。

 何より投票率は五二・七%という低調さで、比例区での自民党の得票率は三三・一%であった。つまり有権者のわずかに一七・四%の得票にすぎない政党が総議席の六一・三%たる二九一議席を得るという「仕組み」が、国民の意思と乖離した安保法制を成立させる議会を作ったのである。

 それも現在の代議制のルールにかなった意思決定だと主張する人もいる。だが、戦後民主主義が行き着いた代議制の在り方に、根源的な不信が生じていると言わざるをえない。その背後にある大きな要因が、ICT革命の進行に伴う「直接民主主義は技術的に可能かもしれない」という変化である。これまでの政治学の常識は、「ギリシャ・ローマの都市政治ならば、直接民主主義は可能かもしれないが、大衆が政治参加する現代政治においては、代議者が国民と意思決定を繋ぐ導管の役割を果たさざるをえない」というものであった。

 しかし、ICT革命が進行し、ネットワーク情報技術が浸透して「ビックデータ」「IoT」といわれる時代を迎え、「もし、ある争点に関して、正確に国民の意思を問うのであれば、本人認証を厳密化したインターネット投票によって、技術的には確認可能かもしれない」という時代が到来しているのである。直接民主主義への限りない誘惑であり、その技術可能性への予感が、国民の意思を反映していない代議制の現実と政治を弄ぶ自堕落な代議者の実態に憤り、「政治不信」を加速させているのである。二〇一五年夏、安保法制を巡って国会前に集まった人々が、これまでの市民運動、労組、団体と異なり、「ネットで呼びかけ、呼応する人たち」という性格をもっていたのは偶然ではない。

 私は必ずしも直接民主主義を支持しているわけではない。民主主義こそ指導者を必要としており、移ろいやすい民意に乗った劇場型政治が良いとは思わない。「大衆の反逆」に過敏に振り回される政治は危険でさえある。

 だからこそ代議者の役割が大切であり、単に民意を意思決定にストレートにつなぐだけの役割ではなく、識見を持ったオピニオン・リーダーとして意思決定の質を高める役割を担わねばならない。だが、現状の多くの議員は政党内での数合わせの陣笠にすぎず、代議制での議論を通じて意思決定の質が高まっているとは思えない。

 もし、代議制民主主義の価値を認め、生かすのならば、代議制の錬磨に取り組まねばならない。具体的には、政治で飯を食う人の極小化であり、代議者の定数削減であり、任期の制限である。日本は、人口比で米国の三倍の国会議員を抱え、一人当たり二億円の国家予算を代議制のコストとしている。人口が今後四〇年間で三割減ると予想されている区にて、国会議員の数を半減することは合理性があり、人気を何年かに制限することは、孫子の代まで政治家を継承する世襲議員や、政党を渡り歩くゾンビ議員を消去するために必要な筋道であろう。「定数削減」が二〇一二年の政権交代時の約束だったはずであり、その後の経過を注視すれば、いかに政治で飯を食う人たちが与野党ともに互助会的に現状にしがみ付いているかがわかる。選挙時の「風」と小選挙区制の魔術で当選した劣悪な議員ではなく、尊敬される優れた代議者を選び育てる仕組みが実現されねばならない。

 もう一つ、「首相専制政治の牽制」に工夫を要する局面にきている。「縦割り行政の排除」という意図もあり、官邸主導がこのところの流行である。「日本版NSC」などの統括組織の新設、やたらに増える「担当大臣」の登場で、本来の主務省庁との役割分担が不明なまま奇妙な首相専制政治が繰り広げられている。

 議会のチェックも与党内の牽制も効かぬ首相主導では危険である。代議制下で大統領制に近い権限を首相に行使させるのであれば、現行憲法通りに議会が首相を選ぶにせよ、国民投票で信任を問うなどの方式が付加されるべきであろう。

 戦後七〇年を経て、戦後民主主義と並走してきた日本人の本音は、普遍的価値としての「民主主義」など存在するのかという冷ややかな真理である。代議制民主主義が機能せず、空疎な職業政治家の巣窟となっているという現実、さらに、「プロレタルア独裁」を正当化する社会主義体制は冷戦の終焉とともに色褪せ、共産党一党支配の下での中国の「人民共和国」体制にも共感のできない中で、我々はどのような民主主義を目指すべきなのか。

 戦後民主主義は確かに与えられた民主主義かもしれないが、今その真価が根付くか否かの試練の時を迎えている。安保法制から憲法改正に至る「国権主義的国家再編」と「軍事力優位の国家への回帰」を試みる勢力という明確な敵に対峙しているからである。「民主主義への不断の努力」が求められるその時なのである。戦後日本という過程を生きた者が、校正に何を引き継ぐのかが問われている。二一世紀の日本は、中国と対抗できる軍事力と経済力を持った専制国家ではなく、アジアの安定軸としての敬愛される成熟した民主国家でなければならない。

 

     

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