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 英国における共和制への挑戦はあえなく終わる。クロムウェルの死からわずか二年で王政復古となったのだ。クロムウェルというカリスマが去れば彼の「護国卿体制」を支える基盤であった「ジェントリ・軍・ピューリタン」という構図は、英国を束ねる力を失い、旧体制の復活を望む声が高まった。

 一六六〇年四月にフランス亡命中のチャールズ(断頭台に消えたチャールズ一世の息子)は「ブレダ宣言」を出し、革命参加者への大赦、信仰の自由、軍隊への給与保障、革命期に移動した資産の所有権の承認などで国民を引き付けた。実はこの「信仰の自由」というのが曲球で、チャールズは亡命中にカソリックに改宗しており、このことがその後の英国史を混乱させ、名誉革命に至る伏線となるのだが、翌五月にはイングランド「仮議会(コンベンション)」が「英国の政体を国王・貴族院・庶民院の三位一体にもどすこと」を決議し、スコットランド、アイルランドの議会も呼応する形でチャールズ二世(在位一六六〇~八五年)による王政復古となったのである。



王政復古期の一七世紀英国と英蘭関係

  清教徒革命によって融かされ消失した王冠・王笏・宝珠すべてを新調して一六六一年四月、チャールズ二世の豪盛な戴冠式が挙行された。凄惨な復讐もなされ、「国王殺し」の裁判での判決に署名した五九人中、存命だった者を追訴し一四人を処刑した。しかし革命以前の国王専制体制への回帰は望むべくもなく、王室の歳出は年一二〇万ポンドに制約され議会の同意のない課税は認められなかった。清教徒革命による共和制は「民衆の政治参加」という近代民主主義の萌芽というより、あくまで反カソリック意識に立つ神の摂理を信じる清教徒による王政打倒という限界を見せたが、英国を成熟した立憲君主制に向かわせる過程となったことは否定できない。当時ロンドンの人口は五〇万人前後、居酒屋、コーヒーハウス、ギルド集会所など民衆の政治談議の舞台も賑いを見せていた。「怠惰王(レイジー・キング)」といわれ、表面的には享楽的で穏健という印象のチャールズ二世だが、一六七〇年には従弟でもあるフランスのルイ一四世との秘密会談で「ドーヴァーの密約」を結び英国をカソリックに戻す見返りに多額の裏金を提供させた。本音を隠した挙動不審の治世で、こうした時代を背景に王政を制限し議会の役割を重視する英国最初の政党とされる「ホイッグ」と国王と英国国教会を統治の上で重視する「トーリー」が生まれ、二大政党制の萌芽とされる。


 対蘭関係も動いた。本連載「米国に埋め込まれたオランダのDNA」において論じたがチャールズ二世の時代、英蘭関係は冷却し、一六六五年には第二次英蘭戦争が勃発する。前年に、オランダの北米大陸展開の拠点ニューアムステルダムを占拠して、ニューヨークと改名したことが引き金を引いた。父を清教徒革命によって殺され、オランダ亡命中に冷遇されたことへのチャールズの怨念もあったとされ、弟のヨーク公ジェームズに対してオランダの北米領地「ニューネーデルラント」を「領地下付」し、四隻の戦艦と三〇〇人の正規軍に加えて北米植民地からの二〇〇〇人の義勇軍を編成して、オランダ勢力の駆逐を試みニューヨークを手に入れたのである。

 一七世紀初頭、英蘭はほぼ同じタイミングでアメリカ大陸へ進出した。英国がバージニア植民地にジェームズタウン建設を始めたのが一六〇七年、ピルグリムファーザーズがメイフラワー号でボストン近くのケープコッドに着いたのが一六二〇年であった。一方、オランダが東インド会社の船によって大西洋を横断してハドソン川を発見、現在のマンハッタン島南端に上陸したのが一六〇九年、先住民から現在の米ドル価額で一〇〇ドル程度の酒と日用品でマンハッタン島を手に入れたのが一六一七年である。新大陸での支配権を巡る確執、さらに通商国家としての競合の中、英蘭関係は緊張を高め、王政復古後には英国の攻勢、前述の第二次英蘭戦争、第三次英蘭戦争(一六七二~七四年)という流れが形成されていく。

 さて、問題はこのニューヨークに名を残すヨーク公であった。チャールズ二世の弟で海軍総司令官として王立海軍を指揮してきた人物だが、カソリックであることを死の直前まで隠していた兄とは異なり確信的カソリックであった。彼の王位継承を議会が拒否するという問題が発生した。結局、ヨーク公爵はジェームズ二世として即位するが、これが尾を引き、「名誉革命」という名のクーデターに繋がっていくのである。
 王政復古期の英国には何故か物悲しい出来事が続く。一六六五年にはロンドンで疫病が蔓延、七万人が死亡する事態となった。また翌一六六六年九月一日には大火に襲われ、四日四晩燃え続け一七五ヘクタールが焼失するという大惨事で、現在「モニュメント」(大火記念塔)が立つロンドン橋の北にあったパン屋の釜が火元だといわれるが、カソリック教徒やオランダ人による放火説が流言として飛び交い世情は騒然とした。

      
名誉革命―――何故、オランダから王が来たのか

 王を国外に追放するクーデターに「名誉」という言葉を冠するのは皮肉だが、清教徒革命の時とは異なり、「無血」での政権交代を実現したためである。しかも、直前の三〇年間で三次にわたる英蘭戦争を戦ってきた敵国オランダから新たな王を迎えるという、英蘭関係の複雑さを象徴する出来事であった。

 兄の死を受けて一六八五年に即位したジェームズ二世は、一六八七年にはカソリック擁護を狙った「信仰自由宣言」を出すなど議会が懸念していた親カソリック政策を展開した。しかも背後にはフランスのルイ一四世がいて、カソリックの守護神として「ナントの勅令」を廃止し新教徒ユグノー追放を強行していた。英国民と議会にとって「カソリックと絶対王政への回帰」という危機が現実のものとなった。決定的だったのは、一六八八年の世継ぎ(ジェームズ・フランシス)の誕生である。母親のジェームズ二世の二番目の妃もカソリックで、このままでは半永久的に英国はカソリックに回帰してしまうという不安が議会を行動に駆り立てた。白羽の矢が立ったのがジェームズ二世の娘婿(長女メアリの夫)、オランダ総督ウィレム三世であった。英議会が要請する形で彼は行動を起こし、一六八八年一一月、「プロテスタントの擁護者」として、蘭軍一・四万人を率い英南西部に上陸、英国民の圧倒的支持を受けてジェームズ二世をフランスへ追放し、英国はウィリアム三世となったウィレムとその妻メアリ二世との共同統治体制を迎えた。

 何故、オランダの総督ウィレム三世に要請がなされたのか。彼は、清教徒革命で断頭台の露と消えたチャールズ一世の娘とオラニエ公ウィレム二世の間に生まれ、彼自身が英国の王位継承権を有していたためであり、大陸でカソリック国スペインやフランスを相手に戦うプロテスタントの雄であった。また、彼の妻は問題のジェームズ二世の長女で、彼女も英国の王位継承権を有し、英国の危機を救う旗手として、この夫妻は好都合であった。つまり、ウィリアム三世は母と妻が英王室からオランダに来た存在であり、英蘭関係の複雑な絡み合いを背負った人物なのである。彼は英国の法と自由の保全を明記した「権利宣言」に署名して英国王に就任した。これこそ名誉革命体制を規定する「権利の章典」(一六八九年)につながるものであり、議会と王権の闘いに決着をつけ、立憲君主制の原則たる「議会の中の王」を確認するものであった。

 追放されたジェームズ二世も復権をめざして抵抗を続けた。一六八九年、フランスの援軍を得て人口の七五%がカソリックであるアイルランドを舞台に反撃の狼煙をあげたが、一六九〇年のボイン川の戦いで敗れ再びフランス亡命、失意の人生を送った。一六九四年にはメアリ二世が死去。ウィリアム三世は一七〇二年まで一人で英国を統治することになった。この間、オランダと手を組みフランスに対する九年戦争(一六八八~九七年)を戦い、一六九四年には戦費調達のため国債制度を導入し、その引き受けを主眼とするイングランド銀行の設立に踏み切った。興味深いのは新大陸政策で、英国に占拠されたニューネーデルランドのオランダへの返還を進めるどころか、むしろニューヨークの英国化を進める姿勢をとった。彼は狭い意味でのオランダの利害の代弁者ではなく、英国王としての自覚も高めていた。また彼が欧州遊学中のロシアのピョートル大帝と何度も面談し温かい配慮を見せたことは既に本連載で述べた。一六九七年にユトレヒトで、さらに翌一六九八年にはロンドンで、ウィリアム三世は英蘭の同君連合の盟主として大帝を引見、様々な助言をし大型のヨットを贈ってもいる。一七〇二年、ウィリアム三世は落馬事故で死去、メアリ二世の妹アンが女王(在位一七〇二~一四年)に就く。彼女の治世下の一七〇七年、スコットランドを統合して「連合王国」体制を固め、一七一三年フランスの強大化を抑え込むスペイン継承戦争に勝利し、「ユトレヒト講和条約」で海外領土を拡大して英国植民地支配の基礎を確立した。英国は産業革命に向け栄光の一八~一九世紀へと向かうのである。
 清教徒革命が吹き荒れた頃、オランダは独立戦争と三〇年戦争の終焉期であり、ウェストファリア条約が結ばれた時期(一六四八年)でもあった。クロムウェルにとってオランダはエリザベス統治以来共通の敵スペインと戦うプロテスタントの盟友であり戦端を開く意思はなかったが、商業国家としての競合に苛立つロンドン商人の圧力を背景に、一六五一年スコットランド遠征で彼が不在の時「航海法」によるオランダ排除(中継貿易の禁止)へと踏み込んでしまった。それが翌五二年の第一次英蘭戦争へとつながるが、クロムウェルは一六五四年には和平協定を実現した。こうした事情にもかかわらず当時のオランダにおける彼の不人気は際立ち銅版画に残る風刺を見ても「王殺しの過激な革命家」という扱いだ。それでも清教徒革命期には北米の植民地から四~五千人が、オランダからも亡命中の宗教指導者やピューリタンが数多く帰国したという。

 一六五七年、クロムウェルは議会から「請願と勧告」という形で王位を提示されたがこれを拒絶。共和制を実現した者としての筋を通したともいえるが、実際には王侯としての生活をしており、ホワイトホール宮殿に住み「無いのは王冠だけ」といわれる華麗な護国卿就任式を二度も行った。「統治章典」による統治制度に基づく「護国卿」であり、独裁ではなかったが統治にはクロムウェルのカリスマが必要だった。一六五八年クロムウェルは突然病死した。遺体はウェストミンスター寺院に埋葬され三男が後継に就任したが、議会と軍を制御できる統括力はなく翌年自ら職を辞した。王政復古への流れが見えてきていた。埋葬から二年後、一六六〇年に王政復古を迎えると彼の遺体は掘り返され、チャールズ一世処刑の一二年目の記念日に首をはねられその後二〇年も晒しものとなった。何とも凄惨な話で英国において共和制は根付かなかったのである。


      
ロンドン塔に立って―――二つの革命から英国が学んだこと

 二〇一五年夏、久々にロンドン塔を訪れた。これまでにも何度も訪ねてきたが、このところ英王室にまつわるこの塔の歴史を調べ見えるものが変わった。特にエリザベス一世の母アン・ブーリンが処刑された場に立ち、息を呑んだ。ヘンリー八世が彼女と再婚したい一心でカソリックを捨て英国教会を設立したことから、英国史は血塗られた展開を見せる。それほど熱愛したアンを、嫉妬に苛まれてあまりにも不当で残酷な形で斬首、後のビクトリア女王が心を動かされ慰霊碑を建てたといわれる。ところがこの血塗られた歴史の元凶たるヘンリー八世が英国では人気者である。ロンドン塔の土産店では王冠とガウンを纏ったヘンリー八世ベアのぬいぐるみが、ストランドの切手ショップでは彼と六人の王妃の肖像画が並ぶ記念切手が売られていた。こんな切手など他の国ではありえないものだ。そこが英国史の懐の深さというべきか、滅茶苦茶な人だが人間味があって面白いと受け止める価値観が確かに英国には存在する。歴史学者A・トインビーが『歴史の教訓」(岩波書店、一九五七年)で、英国人が歴史の中で身に付けた基本的態度として「節度を重んじる穏健な態度」(A Considerable Sense of Moderation)と表現するものなのかもしれない。今日、英国は立憲君主制のモデルとして、王の権威と民主的意思決定を調和させた安定した政治運営を見せているが、一七世紀における王制と共和制の葛藤の中から成熟した立憲君主制に辿り着いたことは間違いない。また、英国教会がカソリックの圧力と清教徒の突き上げに挟撃されながら次第に宗教的寛容に落ち着いていく過程が見えてくる。

 一七世紀英国の二つの革命体験を集約し、英国の市民社会の原理にまで高めた思想家がジョン・ロック(一六三二~一七〇四年)であった。王政復古期にオランダに亡命し、名誉革命で帰国したロックは、『統治二論」(一六九〇年、邦訳岩波文庫)において、諸個人が自然権として「生命・自由・財産」を保有し、相互に社会的契約を結び国家を形成しているという考えに立ち、「統治の源泉は人民の同意」であり、「国家によって国民の信託が裏切られるならば、国民は国家に抵抗し、統治者を交替させる権利を有する」ことを主張した。この人民の自己決定権を正当化する議論は、米国独立戦争やフランス革命にも大きな影響を与えた。また、宗教的厳格さが妥協なき殺戮を繰り返す虚しさを指摘し、宗教的寛容に至る経験知を説き、英国的経験論の地平を拓いたのである。

 

     

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