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岩波書店「世界」2015年10月号 脳力のレッスン162 英蘭関係の複雑な位相 清教徒革命まで― 一七世紀オランダからの視界(その32)

 

 一六〇三年三月エリザベス女王が死去した。子の無かった「処女王」の遺言により、スコットランド国王ジェームズ六世が後継者としてイングランド国王ジェームズ一世(在位一六〇三~二五年)となった。敵対し続けてきたイングランドとスコットランドが「同君連合」となったのである。スチュアート王朝の始まりであり、不思議な一七世紀のスタートであった。一七世紀の英国は「革命の時代」といわれ、清教徒革命と共和制の時代を経て王政復古から名誉革命の時代へと続き、欧州のはずれの島国が曲折の挙句立憲君主制に立つ連合王国となる礎を築きやがて世界史の中心に立つ時代を迎える。


チューダー朝の華・エリザベス一世―   一七世紀への導線

 一五五八年に二五歳で即位して以来四五年間の在位期に、スペインの無敵艦隊を破るなど英国の栄光を象徴する存在となるエリザベス一世だが、出生から即位までは呪われたような境遇に置かれた。全ては父の異常なまでの女狂いによるものであった。父ヘンリー八世(一四九一~一五四七年)には生涯に六人の王妃がいた。フランス育ちの美女アン・ブーリンに恋心を抱いてからは最初の王妃キャサリンと離婚したい一心で離婚を認めないカソリックのローマ教皇に反発、一五三三年に英国教会の設立を宣言した。何とも悲しい事情で英国教会は生まれたのである。思いを遂げてアンと再婚、エリザベスが生まれるが、気位の高いアンとの関係は冷却、次に侍女ジェーン・シーモアに魅かれていく。一五三六年には不貞を理由にアンを断頭台に送り、母を失ったエリザベスは王位継承権を剥奪されて「王女」から「庶子レディー・エリザベス」とされ冷遇、辛酸を舐めた。そのエリザベスが強運の星を背負って甦る。運命を変えたのは父の六番目の王妃キャサリン・パーであった。三番目のジェーンは後のエドワード六世を生むが産褥で早世、四番目のドイツの公爵令嬢アン・クレーヴはあまりの体臭と体型の醜悪さに幻滅して離婚、五番目の侍女キャサリン・ハワードはヘンリー好みの美女であったが、若い男と戯れたという噂に逆上して処刑してしまった。キャサリン・パーは慈愛に満ちた女性で王家の子供達の教育に心を配り、エリザベスの聡明さに気付いて王位継承権を復活させるよう王に働きかけた。一五四七年にヘンリー八世が病苦の中で死去すると、九歳の息子エドワードが王位に就いたが、一五五三年に悪性感冒に襲われあえなく死去、継いで女王となったのが、最初の妃キャサリンとの娘メアリーであった。

 「血まみれのメアリー(ブラディー・メアリー)」というカクテルにも名を残すメアリー一世は、母を追い詰めたアンの子エリザベスへの憎しみに苛まれ、不当な反逆罪に連座させて彼女をロンドン塔に幽閉した。メアリーは国教会をカソリックに戻し、神聖ローマ帝国皇帝カール五世の息子でスペイン皇太子フェリペ(後のフェリペ二世)と結婚、スペインの思惑に引き込まれてフランスに宣戦布告したものの惨敗、英国が大陸に領有していたカレーを失う。「血まみれ」の名にふさわしく、五年の在位に異端者狩りで三〇〇人近くを火刑に処した。
 一五五八年、メアリー一世が四二歳で悶死すると、忍耐を重ねたエリザベスが王冠を継ぐ。彼女は仏、伊語に加えてラテン語、ギリシャ語に習熟し、継母キャサリン・パーの配慮で当時の英国が与えうる最高の教師の指導を受けた教養人で、様々な文献からも深い思考力を身に着けた人物であったことがわかる。敗戦国英国の運命を担いエリザベスは動き始めた。

 本音ではフランス、スペインという大陸の強国との緊張を避けたかったエリザベスだが、一五六八年以来スペインとの独立戦争を戦っていたオランダを支援し、一五八五年以降在位中に述べ十万人もの援軍を送っている。そして一五八八年、一三〇隻のスペイン「無敵艦隊」と英仏海峡で激突し勝利する。この頃の英蘭の交流は深く、一六〇〇年に豊後臼杵に漂着した蘭船リーフデ号(本連載その2)に乗っていたW・アダムス(三浦按針)がオランダ人であったごとく海洋帝国として先行するオランダに惹き付けられた英国人も少なくなかった。

 エリザベス自身の宗教観は、メアリー一世がカソリック回帰してプロテスタント弾圧に出たのとは異なり宗教対立には超然としていたが、一五七〇年に教皇ピウス五世が彼女を英国内のカソリック勢力から孤立させる思惑で「破門」すると、英国民はむしろカソリックとの決別を強めた。ただし英国の宗教史は複雑である。英国における宗教改革(プロテスタント化)が、前述のごとくヘンリー八世の身勝手な離婚問題に端を発していたため、教義や教会制度はカソリックの影をひきずり、改革の徹底さを欠き、純粋なプロテスタントとしての改革を求める人々(ピューリタン)との軋轢を生んだ。それにより英国史は、プロテスタント内部の対立・分裂とそれに乗じるカソリックという要因によって複雑に揺れ動くのである。

 父によって母を殺され、異母姉の虐待に耐えたエリザベスは「英国と結婚した女」とまでいわれ、その強い意志と思慮深さで大陸から隔絶した小さな島国を神聖ローマ皇帝やスペイン、フランスをも恐れさせる存在に持上げた。エリザベス期の英国ルネサンスを象徴するのがシェイクスピアである。「英国らしさ」が輪郭を見せ始めた時期で、シェイクスピア劇に素材を提供する上でW・キャムデンの『ブリタニア』など英国史研究が大きな意味を持ちE・スペンサーの叙事詩『神仙女王』のごとく詩人たちはエリザベスを栄光の女神と讃えた。


      
清教徒革命への道―   王殺しのイギリス

 エリザベス一世の死により一四八五年以来ヘンリー七世から一一八年間続いたチューダー朝が終った。ヘンリー七世の玄孫(やしゃご)のスコットランド王ジェームズ六世がイングランド王を兼ねるジェームズ一世となった。ヘンリー七世の娘がスコットランド王(ジェームズ四世)に嫁ぎ、その孫であり美貌で名高いメアリー・スチュアートの息子だったが、何故か容貌魁偉で粗野、英国民の失望は深かった。哲人王といわれ知性は高かったと思われるが、王権は神の権威に由来し神にのみ責任を持つという「王権神授説」を固く信じ、次第に議会との対立を深めていく。その治世下の一六二〇年、メイフラワー号が新大陸を目指して大西洋を渡る。背景には宗教改革を渋るジェームズ一世への清教徒の失望があった。既に「米国に埋め込まれたオランダのDNA」(本連載その3)で書いたごとく、メイフラワー号に乗っていた「ピルグリム・ファーザーズ」は、英国教会の分離派がオランダ亡命して一二年間生活した後、デルフトの外港デルフスファーフェンから米国を目指したのである。

 英米蘭の歴史的位相を象徴するのが二人のルーズベルト米大統領、セオドアとフランクリンの先祖の新大陸移民である。一六四四年フランクリンから七代前、オランダ人Claes van Rosenveltが大西洋を渡った。その子ニコラスがvanを取り英語風のRooseveltに改名、その長男ヨハネの子孫がセオドアで次男ヤコブの子孫がフランクリンである。フランクリンはセオドアを尊敬しセオドアの兄の娘エレノアと結婚、一族の血脈へのこだわりをみせた。思えば日本近代史の命運に関わる二人のルーズベルトの淵源も一七世紀オランダにあった。

 ジェームズ一世の子チャールズ一世(在位一六二五~四九年)はカソリック国フランスの王女ヘンリエッタ・マリアを妻に迎え、宮殿にカソリックの礼拝堂を建設し議会との対立を深めていった。一六二八年に議会は王室の御用金を認める代わりに王権を制限する「権利の請願」を提出、王も渋々署名したものの一一年間も議会開催を拒み続けた。絶対王政を信じて王軍を組織し議会派と戦うが、庶民院議員クロムウェル率いる鉄騎兵に敗れた。執拗に反撃を試みたが、結局は議会と軍による特別法廷で「専制君主、反逆者、殺人者」として有罪とされ、一六四九年ホワイトホール宮殿の断頭台で処刑された。英国史上初の公衆の面前での王の処刑であった。

 英国史において最も有名な人物の一人であり、ピューリタン革命の主導者であるオリバー・クロムウェルは、一五九九年に英東部のハンティンドンのジェントリ(貴族よりは下位だが自営農民より上位の階層)の家に生まれた。一六二八年に改革派プロテスタント(ピューリタン)として、ハンティンドン選出の庶民院議員になったものの、チャールズ一世の議会軽視と対立、次第に急進的な政治指導者としての存在感を高める。転機は一六四一年のアイルランド反乱であった。この時、アイルランドはイングランドにおけるプロテスタント改革派の台頭とカソリック抑圧に反発して反乱を起こし、一万人近くのプロテスタントが虐殺されたという。このことへのクロムウェルの怒りがアイルランドへの激しい憎悪となり、後のアイルランド制圧にまで尾を引くのである。「王殺し」の主役とされるクロムウェルだが、「人民協定」など「より多くの国民参加」を掲げた軍急進派とは異なり、共和主義者として「王政の打倒」や「民主化」を考えていたわけではない。清教徒革命の過程を追うと、「神の摂理」を信じる宗教心の強い庶民院の議員だったクロムウェルが、ジェームズ一世の専制的権謀術数と対峙し、国王軍と戦う軍を率いる立場になって、軍事的指導者としての能力を開花させ、気が付けば王の処刑と王政を廃止する時流の先頭に立っていたということであろう。王の死刑も彼にとっては「人民」ではなく「神」の意思であった。

 父を処刑された子のチャールズ二世はオランダ、フランスと亡命先を生き延び、執拗に共和制への反撃を試みた。フランス亡命中にカソリックに改宗し、スコットランドやアイルランドの反クロムウェル勢力と結託し揺さぶりをかけたがクロムウェルは「鉄騎兵」を率いてことごとく撃破。彼によってアイルランド、スコットランドは英国に統合されたといえる。
 清教徒革命が吹き荒れた頃、オランダは独立戦争と三〇年戦争の終焉期であり、ウェストファリア条約が結ばれた時期(一六四八年)でもあった。クロムウェルにとってオランダはエリザベス統治以来共通の敵スペインと戦うプロテスタントの盟友であり戦端を開く意思はなかったが、商業国家としての競合に苛立つロンドン商人の圧力を背景に、一六五一年スコットランド遠征で彼が不在の時「航海法」によるオランダ排除(中継貿易の禁止)へと踏み込んでしまった。それが翌五二年の第一次英蘭戦争へとつながるが、クロムウェルは一六五四年には和平協定を実現した。こうした事情にもかかわらず当時のオランダにおける彼の不人気は際立ち銅版画に残る風刺を見ても「王殺しの過激な革命家」という扱いだ。それでも清教徒革命期には北米の植民地から四~五千人が、オランダからも亡命中の宗教指導者やピューリタンが数多く帰国したという。

 一六五七年、クロムウェルは議会から「請願と勧告」という形で王位を提示されたがこれを拒絶。共和制を実現した者としての筋を通したともいえるが、実際には王侯としての生活をしており、ホワイトホール宮殿に住み「無いのは王冠だけ」といわれる華麗な護国卿就任式を二度も行った。「統治章典」による統治制度に基づく「護国卿」であり、独裁ではなかったが統治にはクロムウェルのカリスマが必要だった。一六五八年クロムウェルは突然病死した。遺体はウェストミンスター寺院に埋葬され三男が後継に就任したが、議会と軍を制御できる統括力はなく翌年自ら職を辞した。王政復古への流れが見えてきていた。埋葬から二年後、一六六〇年に王政復古を迎えると彼の遺体は掘り返され、チャールズ一世処刑の一二年目の記念日に首をはねられその後二〇年も晒しものとなった。何とも凄惨な話で英国において共和制は根付かなかったのである。

     

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