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岩波書店「世界」2015年9月号 脳力のレッスン161 アメリカとの出会いとその意味― 一七世紀オランダからの視界(その31)

 

日米の出会いをもたらしたのは鯨であった。今日反捕鯨国の先頭を走る米国も一九世紀半ばには世界最大の捕鯨国家として多数の船を日本近海に進出させ、それが日米の邂逅をもたらしたのである。


捕鯨船マンハッタン号の浦賀来航

 一八四五年四月、アジア太平洋戦争における日本の敗北の一〇〇年前、一隻の米国捕鯨船が日本の漂流民二二人を救助して浦賀に送り届けた。船の名はマンハッタン号、船長はマーケーター・クーパー、この接触が日米交渉の始まりである。
 私は一九八七年から四年間NYで仕事をしていた頃よくゴルフに行ったロングアイランドで、地元の人の話から彼の存在を知りサウスハンプトンに残る家を訪ね、この興味深い史実を最初の著作『地球儀を手に考えるアメリカ』(東洋経済新報社、一九九一年)に書いた。その後NY時代に知遇を得た平尾信子氏が『黒船前夜の出会い 捕鯨船長クーパーの来航』(NHK出版、一九九四年)でクーパー船長とペリー提督の関係を追い、ペリーが日本の情報と地図をクーパーとの交流から得ていた事実を検証しペリー来航の伏線を焙り出している。

 クーパー船長は四四〇トンのマンハッタン号に乗り、乗員二七人と共に一八四三年一一月、ロングアイランドのサグハーバーを出港した。太平洋での捕鯨が目的で、大西洋から喜望峰を回りインド洋を経てグアム島、小笠原諸島に立ち寄り日本近海での漁の後、捕鯨基地ハワイに約三カ月逗留。そして一八四五年三月、鳥島に漂着していた日本人を救出することになる。助けられたのは阿波国撫養港(徳島県鳴門市)から江戸に向けて出港し遭難した幸宝丸の一一人であった。さらに洋上で漂流中の千寿丸と遭遇、南部釜石から江戸に向かう途上で遭難した一一名を収容し、計二二名の日本人を日本に送り届けることになった。クーパーは日本が「鎖国」(海禁政策)状態にあることも知っており通商を求める意思はなかったが、漂流民を送り届けて米国が友好的であることを伝えようという気持で捕鯨を中断してまで江戸を目指したのである。彼は慎重で、まず房総半島で漂流民四人を上陸させ来航の意図を伝えた。館山から浦賀に回航されたマンハッタン号は四日間浦賀に滞在するが、この時の幕府の対応は驚くほど柔軟であった。老中阿部正弘の英断というべきか、浦賀奉行土岐頼旨の進言を受け入れ、漂流民を送り届けてくれたことへの謝意と共に薪水や食料に加えて漆器などの礼の品が渡された。

 背景には阿片戦争の衝撃があった。清国が英国に敗れ、一八四二年に屈辱的な南京条約を結ばされたという経緯を受け、同年には異国船打払令を改め薪水給与令が出した。一八二五年の「無二念打払令」から一七年、強硬策の限界に気づき始めていた時にマンハッタン号が現れたといえる。この時クーパーが持ち帰った品物の一部(漆器など)は現在もニューベッドフォードの捕鯨博物館に残され、私も目にしたことがある。
 マンハッタン号の来航について当時の米国の捕鯨事情を視界に入れる必要がある。一八五九年に石油が発見されるまで、米国の夜の灯は鯨油によって燈されていた。メルヴィルの『白鯨』(一八五一年)の舞台は「油流るる地」として「不夜城」とまでいわれたマサチューセッツ州ニューベッドフォードであった。セミクジラを捕る沿岸捕鯨から、より良質の鯨油やコルセット用の骨を提供するマッコウクジラを求める外洋捕鯨の時代を迎え、遠く北太平洋へと出漁していた。記録に拠ればピークは一八四六年で東海岸から七三八隻の捕鯨船が太平洋へ向かった。ハワイ・マウイ島が捕鯨基地であった。一頭のマッコウクジラから約二五バレルの油が獲れ、ピーク時年間約七〇〇〇頭を捕らえていたという。

 米国の運命を変えたのが一八五九年八月のE・ドレイク大佐によるペンシルバニア州タイタスビルでの油田発見であった。「石油の時代」の到来である。一八六〇年にバレル二〇ドルした油価は六一年には二〇セントに下落、七五年には一ドル水準であった。一八七〇年にJ・ロックフェラーがスタンダード・オイルを設立、南北戦争後の産業発展期の米国を背景に躍進を続けた。「石油の時代」を決定付けたのはモータリゼーションとの結合であった。一九〇〇年の時点で、米国を走る車(馬なしの馬車)の大部分は蒸気自動車と電気自動車であったが、一九〇八年にH・フォードがT型フォードを内燃機関車として開発、瞬く間に自動車市場を席巻し、一五〇〇万台を販売する時代を迎えた。その背後には「安定した石油需要を創る」という石油業界の期待と支援が存在した。
      

浦賀に込められたDNA――なぜ浦賀なのか

 日米邂逅の場となった浦賀に込められた歴史を確認しておきたい。この「一七世紀オランダからの視界」連載の二回目「日蘭関係の原 リーフデ号の漂着とは何か」(二〇一〇年一二月号)において、家康の深慮遠謀に触れた。家康は関ヶ原の五か月前という緊迫した情勢の中で、蘭船リーフデ号を浦賀に回航させ、三浦按針(W・アダムス)やヤン・ヨーステンを登用し、浦賀を関東の御朱印船貿易の拠点とする意思を抱いていたのみならず、小田原の北条氏が浦賀に配備していた水軍を引き継いで向井将監を走水奉行として徳川水軍を配し、江戸往来の船の検査に当たらせた。一六〇四年商船誘致によりマニラのスペイン船が初めて入港、御朱印船貿易時代には交易拠点になっていた。須崎に下田奉行として仮番所が置かれたのは一六一六年、その後「鎖国」状況を迎え外国船は来なくなったが、都市化する江戸への物流回路として江戸湾が重きをなすにつれて、一七二〇年に浦賀奉行が設置され、江戸湾に出入りする「船改め」による物流の管理がなされた。当初千石格だった浦賀奉行は一八二〇年には五千石格になっている。

 「鎖国」を破る形で最初に浦賀に現れた外国船は一八一八年五月の英国船ブラザーズ号で、一八二二年には英国捕鯨船サラセン号が食料・水を求めて現れ、さらに一八二四年には英国捕鯨船員が常陸大津浜に上陸、漁師たちと沖合の捕鯨船との交易や洋式捕鯨の見学がなされる事態が発生、関係者が三〇〇人も逮捕された。幕府の緊張は高まり、一八二五年外国船への「無二念打払令」が出される契機となった。ここから一八四二年の「薪水給与令」までが「鎖国政策」が厳しく展開された時期であり、一八二八年にシーボルト事件、一八三七年にはモリソン号事件が起こる。マカオを拠点に活動する米国人貿易商C・W・キングなどが乗ったモリソン号が浦賀に来航、漂流民七人を連れて通商を要求、江戸湾に進入を試みたが砲撃を受けて去った。この漂流民が尾張知多半島の廻船「宝順丸」(一五〇〇石積)の乗員で、一八三二年一一月に鳥羽を出て遠州灘で遭難、実に一四ヵ月も太平洋を漂流して米西海岸オレゴン州に漂着。その一人がニッポン音吉である。彼はマカオで聖書の最初の日本語訳に携わり、上海に居住後妻の故郷シンガポールに骨を埋めた数奇な運命を辿った。

 モリソン号事件に驚愕した幕府は、一八三九年「蛮社の獄」で開明派の弾圧に踏み込み、渡辺崋山、高野長英らが処罰を受ける。水野忠邦の「天保の改革」の一環で、一八四二年には三浦半島を親藩の川越藩、房総半島を同じく親藩の忍藩(埼玉県)に飛び地として与え警備を強化するが、阿片戦争の情報を受けて強硬路線を見直し始めた時マンハッタン号が訪れた。翌一八四六年、米清通商条約の批准のため中国を訪れた帰路、米東インド艦隊司令長官J・ビッドルが二隻の軍艦(旗艦コロンバス号、大砲六八門、乗員七八〇人)を率い浦賀に来航。通商を求める来訪だったが一〇日逗留した後幕府からの薪、卵、小麦、梨などの提供を受けて、退去要求を受け入れ去った。主眼は中国との条約批准で日本の開国を探るのは副次的目的であった。後のペリー来航に関し、「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四盃で夜も寝られず」と幕府の狼狽を印象付ける狂歌が残るが、実は唐突な来航ではなく伏線があり幕府も極めて組織的で冷静な対応をしていたと分かる。
      

アメリカの西進とジョン万次郎

 東海岸に始まった米国が太平洋に到達したのは一七九八年である。一七九八年に東部一三州の独立を達成し、一八〇三年にナポレオンの気まぐれに乗じてルイジアナを一五〇〇万ドルで買収、一八四五年にはテキサスを併合し、一八四八年に米墨戦争に勝利してカリフォルニア、ユタとニューメキシコ、アリゾナの大半、ワイオミング、コロラド、ネバダの一部を割譲させ、大西洋と太平洋を繋ぐ大陸国家へと踏み込んだ。
 正にこのタイミングでゴールドラッシュが起こった。一八四八年、シエラネバダ山麓で金が発見されたニュースは世界を駆け巡り、黄金熱に憑りつかれた人々がサンフランシスコを目指した。彼らは一八四九年に因んで「49年組(フォーティーナイナーズ)」と呼ばれ、今日でもサンフランシスコを拠点とするアメフトチームの名前になっている。一八四八年から五二年にかけてカリフォルニアの人口は一・五万人から二五万人に膨れ上がり、一八四七年には人口わずか四五九人の田舎町だったサンフランシスコは二万人を超す都市へと変貌した。驚くのは中国人の流入で一八四九年二月には五十数人にすぎなかったのが一年後には五千人を超しチャイナタウンの原型を作り始めている。

 「49年組」の一人がジョン万次郎であった。彼は一八四一年一四歳の時土佐沖から漂流して鳥島に漂着、米捕鯨船のホイットフィールド船長に救出された。マンハッタン号の漂流民救出の四年前である。米東海岸に連れ帰られた万次郎は一八四三年からニューベッドフォードで高校に通いつつ樽作りを学んだ。クーパー船長が浦賀を訪れた頃、ジョン万次郎はボストン近くの捕鯨基地で学んでいたのである。その後彼は一八四六年から捕鯨船に乗り、南太平洋からハワイへと動き一八四九年に帰港後、ゴールドラッシュに加わることを決断する。二二歳であった。日本への帰郷の思いは強く、その資金を得るため一八四九年一〇月に南米のホーン岬を超えて海路サンフランシスコに向かった。金脈を掘り当てたわけではないが、金鉱での労働で六〇〇ドルを貯め、一八五〇年に帰国のため二五ドルの船代を払ってホノルルへ、ここで中国に向かう商船に船員として働く条件で便乗、琉球に上陸するための捕鯨用ボートを一二五ドルで購入、琉球沖から現在の糸満市摩文仁に上陸(一八五一年二月)した。

 その後、薩摩、長崎での取り調べを経て、一八五二年七月に一一年ぶりに土佐に帰着、土佐藩召抱えの後五三年ペリー来航を機に幕府直参となり中浜姓を名乗った。時代が彼を必要としたのである。箱館奉行所付で捕鯨技術伝授に従事した後、一八六〇年咸臨丸でサンフランシスコに同行、一八七〇年(明治三年)には東大の前身の開成学校教授として普仏戦争の観戦団の一員で欧州出張の途中米国を訪れ、故郷ニューベッドフォードでホイットフィールド船長と再会した。「アメリカを発見した男」万次郎は日清戦争後まで生き一八九八年七一歳で生涯を閉じた。

 一八七〇年代には米国の捕鯨船は太平洋から消えた。「燃える水」石油の時代の到来で、鯨油の価格が下落したためである。また、一八五三年のペリー来航で日本という国の扉は開いたものの米国のアジア進出は遅れた。一八六一年から四年間の南北戦争に憔悴し、アジアに動く余裕がなかったのである。遅れてきた植民地帝国として、米国が本格的にアジアに動いたのは一八九八年の米西戦争に勝利してフィリピンを領有してからである。このタイミングこそ日本が日清戦争に勝利して新興帝国主義国としてアジアに動き始めたのと同時化した。このことが二〇世紀の日米衝突という悲劇の淵源であった。

     

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