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岩波書店「世界」2015年6月号 脳力のレッスン158  蘭学の発展とシーボルト事件の背景―― 一七世紀オランダからの視界(その29)

 
 シーボルトが長崎にオランダ商館の医師として着任したのは一八二三(文政六)年八月、杉田玄白や前野良沢が『解体新書」を刊行した一七七四年から約半世紀後のことである。「鎖国」といわれた状況下ではあったが、長崎出島という回路から流れ込む西洋の科学技術への関心は高まり続けていた。正にその時シーボルトが登場したのである。「シーボルト事件」とは何だったか。少なくとも研究熱心な若い医師が勇み足で日本関連の資料を持ち帰ろうとして禁制に触れたなどというものではなく、背景にある構造を理解する必要がある。

 

シーボルト来日の背景――オランダ側の事情

 

 江戸期、長崎出島に「オランダ東インド会社」の商館が置かれ、商館長の江戸参府が一六〇九年から一八五〇年まで実に一六七回も行われた。その間、「オランダ風説書」なるものを通じて幕府も世界情勢を一定程度は把握していたが、オランダにとって不都合な情報は伝えられなかった。その典型が、一七九五年から一八一三年までオランダという国が事実上「消滅していた」という事実の隠蔽で、その事情は既に書いた。
 一七九五年、仏革命軍がオランダを制圧、一八〇六年にはナポレオン一世の弟ルイがオランダ国王となった。だが弟の治世に失望したナポレオンはルイを放逐、一八一〇年から一三年までオランダはフランスに併合され消滅していたわけで、この間オランダの旗が掲げられていたのは長崎出島の商館だけ、オランダの存続を信じていたのは日本だけであった。

 一八一三年、英国に亡命していたウィレム五世の息子が「オランダ国王ウィレム一世」となり王国としてオランダは復活。この時英国が王国オランダの形成を支援した意図は、ナポレオンに懲りて、その牽制のためにフランスの北に緩衝地帯を形成することにあった。ナポレオンの呪縛から解放され、しかも王国となった国家再建期を率いたウィレム一世は、アジアにおける復権を目指す戦略の中で、日本でのオランダの優位に注目、さらなる日本研究の必要を痛感して行動を起こした。シーボルトの活動はその使命を受けたものであった。

 この間のアジアでの動きを確認しておきたい。一七九五年、オランダがフランス革命軍支配下となり、オランダ東インド会社の財産・権益は「バタビア共和国」に継承され、一七九九年にはオランダ東インド会社も解散となった。オランダが消滅していた一八一一年、英国の影がアジアにも迫ってきた。かのシンガポール植民地化の立役者ラッフルズがバタビアを占領。一八一六年までジャワ副総督を務めたラッフルズは、日本貿易に注目して一八一三年に英国艦船シャロッテとマリアの二艦を長崎に派遣し、対応に苦慮したオランダ商館長ドゥーフは、一八〇八年のフェートン号事件(オランダ船を装った英艦の狼藉事件)を持ち出して巧みに英国の参入を阻止した。

 一八一八年英国は旧蘭領東インドをオランダに還付、東アジア戦略の立て直しの必要を痛感した新生王国オランダは、本格的な調査を決意、その一翼を担うべく白羽の矢が立ち派遣されたのが「ただの医師ではない」シーボルトであった。
 彼は一七九六年、南ドイツのバイエルンのヴュルツブルグに医学界の名門に生まれた。祖父も父も医者で大学教授、一族が医学者であった。二歳で父を失い母方の伯父に養育され、二〇歳でヴュルツブルグ大学に入学、父の友人で解剖学教授であったデリンガーの家に寄寓して薫陶を受けた。医学のみならず動植物学、人類学、博物学、化学、物理、薬学などを学ぶ中、未知の領域たる東洋研究に関心が向かい、一八二二年七月、二六歳の時オランダ・ハーグに赴き、父の門人でオランダ王国軍医総監J・ハルバウルの斡旋で「蘭領東インド陸軍一等外科医少佐」に任命され、二か月後には慌ただしくロッテルダムからバタビアに出発。翌年八月には長崎に上陸しているのだから、彼が「特別の存在」だったことが窺える。

 シーボルトへの指令がいかに特別であったか、長年オランダのライデンに在住してオランダ側資料を掘り起こしシーボルト研究に打ち込んできた秦新二の労作『文政十一年のスパイ合戦―――検証・謎のシーボルト事件』が示唆的である。バタビアのフォン・デル・カペルレン蘭領東インド総督が特別調査費として、年俸と報奨金で四五〇〇グルデン(現在価額で約一億円)という破格の報酬とは別に、一八二七グルデン(同約四〇〇〇万円)も提供していることからも想像できる。彼の調査対象は「博物学的分野」にとどまらず、政治・軍事など地政学的調査にも踏み込んでいった。江戸参府の際も、関門海峡の測量、瀬戸内海の航路図、「大阪城之図」などの入手、大名船や軍用船などの精巧な模型作製、「天皇制」など政治体制の研究など、医師の関心領域を超えた意図が確かに存在した。最大の関心は当時の欧州では未知のゾーンであった蝦夷以北の北方地域で、江戸滞在中にこの分野の先駆者たる最上徳内へ接近、その部下間宮林蔵の樺太探検資料や蝦夷・樺太・千島などに関する地図・資料を入手している。欧州におけるシーボルトの貢献の一つは、「樺太がユーラシア大陸とは別の島である」との事実を伝えた人物ということなのである。

 我々が視界に入れておくべきは、彼の来日時には共和国オランダもオランダ東インド会社も存在せず、新たに王国となったオランダとその傘下の「貿易会社」が長崎出島に表向きは何事も無かったかのごとく存続し、江戸参府の時は「VOC」(東インド会社)の旗を掲げていたことである。商館長ステュルレルと不仲も頷ける話で、シーボルトは単なる「商館長付の医師」ではない。彼の大著『日本』(全九巻、雄松堂)を一読して驚くのは彼が収集した情報の広さと深さだ。ペリーが日本遠征に当たり参考にしたというのも頷ける体系的日本研究である。


      
シーボルト来日時の日本―――外圧への緊張と事件への導線

 

 一九世紀を迎える頃になると、出島というピンホールから流れ出た西欧の科学技術は日本全国に大きな流れを形成しつつあった。「蘭学」が医学の領域で浸透していった事情は「杉田玄白と『蘭学事始」」で触れた。一七九八年にジェンナーが発表した種痘も、バタビア経由で一八一七年に出島に着任した商館長ブロンホフによって早々と日本にもたらされていた(A・ジャネッタ『種痘伝来』、二〇一三年、岩波書店)。シーボルトも日本で種痘を試みている。医学だけではなく、蘭学は「江戸期日本の理系力」に影響を与え始めていた。例えば測量術では寛永期に出島のオランダ人カスハルによってコンパスと定規による測量法が紹介され、それを咀嚼する形で一七七三年には伊勢の村井昌弘が『量地指南」を刊行した。それが四万㎞を踏破したという伊能忠敬による一八二一年の『大日本沿海興地全図」につながるのである。天文暦学についても、八六二(貞観四)年に採用されて以来八〇〇年以上使われてきた中国の暦学による宣明暦を改め、「地球が丸い」ことを踏まえた西洋暦学を吸収しつつ一六八五年に渋川春海の考案した日本独自の貞享暦を採用していった。その中で望遠鏡やエレキテルについての知識や技術も確実に理解の輪を広げていた。

 「蘭癖」(オランダかぶれ)という言葉が使われるほど、諸大名の中には薩摩の島津重豪やその息子で中津藩の奥平昌高などの「オランダ贔屓」が現れ、江戸庶民が好んだ浮世絵にもオランダ銅版画の影響が現れ出ていたことは既に触れた。
 その一方で幕府は迫りくる外圧に苦慮し緊張を高めていた。何よりも北からのロシアの圧力であった。ペリー来航より六〇年も早く、一七九二年にラックスマンが根室に来航、老中松平定信らが対応に苦慮し松前に回航させて時間稼ぎのため改めて長崎に行くことを求めて「信牌」(入港許可証)を与えて退去させたこと、それを受け一八〇四年にレザノフが長崎に来航したが、ロシアとの通商を拒否したため緊張が高まったことなどは何度か言及した。一八〇一年に長崎の通詞志筑忠雄がケンペル『日本誌」の一部を『鎖国論」として翻訳したこと、八王子千人同心が遥か蝦夷地に「蝦夷地防衛と開拓」のために派遣されたのも背景には「ロシアの脅威」があった。

 日本を取り巻く環境は慌ただしさを増す。一八〇八年にはフェートン号事件が起こり長崎奉行が引責自刃する事態が発生、一八一四年の長崎への英艦シャーロット号来航と、アジアへの台頭を背景に英国も日本近海に動き始めていた。一八一四、一八二二年には江戸湾の入口たる浦賀に英国艦が現れ、通商を求めてきた。こうした中シーボルトが来日し、そして事件が起こったのである。つまりシーボルト事件とは、国家再建中のオランダの極東に対する戦略の模索という意図と迫りくる外圧に対する江戸幕府の緊張がぶつかり合った痙攣であったといえる。一八二八年、八九個のシーボルトの荷物を積んだオランダ船ハウトマン号が暴風雨で座礁、シーボルトの荷物から地図などの禁制品が発見されたことが事件の発端とされてきたが、実際はシーボルトと親交のあった幕府天文方高橋景保への小包に同封されていた間宮林蔵宛の手紙と贈物を、受け取った間宮が開封せずに勘定奉行村垣定行に告発したことが「外国人との私的文通」として高橋への疑念を招き、高橋捕縛につながったのが事件の起点であった。高橋と間宮の不仲と間宮の妬みが事件の発端という皮肉な話である。

 シーボルトにも厳しい尋問が繰り返され、蒐集した品の没収と「国禁」(国外追放と再渡航の禁止)が申し渡された。関係者は厳しく処罰され、江戸では獄死した高橋の息子二人の遠島を始めオランダ宿長崎屋主人など十数人が「手鎖、追放、叱り」、長崎でも地図受け渡しの仲介者となった通詞吉雄忠次郎や門人の医師など二十数人が「永牢」などの処罰を受けた。連座した人々をみると、シーボルトが日本で情報収集できた背景が窺える。シーボルトは出島の外に『鳴滝塾』と名付けた診療と教育の場を持ち門人の育成に当たり、美馬順三や高野長英など向学心旺盛な青年が集まった。また江戸参府に際しては、天文方高橋景保や将軍侍医などの役人、さらに杉田玄白の弟子大槻玄沢などが龍に群がる雲のごとく日本橋長崎屋に集まり、そのネットワークが情報収集を支えたといえる。


      
それからのシーボルト――日本人妻と娘

 

 一八二九年に日本から「追放」され翌年七月にオランダに帰国して以来再来日までの三〇年間、シーボルトは何をしていたのであろうか。日本研究の情熱は衰えることなく、一八三二年に“NIPPON””の第一分冊を出版、一八五四年に出版を完了させた。また、生誕地のバイエルン国王に民俗学博物館設立提案(一八三五年)、オランダ国王にも民俗学博物館設立を提案(一八三六年)、結局、オランダ政府がそのコレクションを買い上げ、彼の自宅での管理を委託することとなり、今日のライデン民俗学博物館収蔵品の核となっている。

 大政奉還八年前の一八五九年八月、シーボルトは一三歳の長男を連れ開国後の日本にオランダ貿易会社顧問として再来日した。一八六二年五月まで約三年滞在し幕府の顧問として外交への助言と学術教授を行った。この時日本人妻楠本滝、娘いね、門人の二宮敬作に再会している。滝は丸山遊郭の引田屋の遊女であったが、賢い女性で事件の時もシーボルトを守り抜き一切口を割らなかった。一八二七年に生まれたいねは父の帰国後二宮に託されて成人、備前岡山の町医者石井宗軒に嫁ぎ、母方の楠本姓を名乗り、明治三年から一〇年まで東京築地で産科医開業。女医の先駆けとして生き明治三六年七七歳で死去した。晩年のシーボルトは一八六三年に故国に帰りヘレーネ夫人と共に隠退、一八六六年一〇月ミュンヘンで死亡、七〇歳であった。何かを突き動かし遺した生涯であった。

 

   


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