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You are here: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2015年 岩波書店「世界」2015年4月号 脳力のレッスン156特別篇   江戸期の琉球国と東アジア、そして沖縄の今―― 一七世紀オランダからの視界(その28)

岩波書店「世界」2015年4月号 脳力のレッスン156特別篇   江戸期の琉球国と東アジア、そして沖縄の今―― 一七世紀オランダからの視界(その28)

 

 二〇〇〇年の沖縄サミットの会場となった「万国津梁館」の名の由来にもなった首里城正殿の鐘銘には次の様に刻まれている。「琉球ハ南海ノ勝地ニシテ、三韓(朝鮮)ノ秀ヲ鍾メ、大明(中国)ヲ以テ輔車トナシ、日域(日本)ヲ以テ唇歯トナス、此ノ中間ニアリテ、湧出スル蓬?ノ嶋ナリ、舟揖ヲ以テ万国ノ津梁トナシ、異産至宝ハ十方刹ニ充満セリ」(原文は漢文)
 一四五八年に鋳造された鐘で、日本では足利義政の室町期、世界ではオスマン朝が東ローマ帝国を滅亡させた一四五三年の直後である。この頃の沖縄は、一四二九年の尚巴志による沖縄本島統一により「琉球王国」として光を放っていた。一八七九年の明治期日本による「琉球処分」までの約四五〇年間、東シナ海には独立国としての琉球国が存在した。このことへの理解が沖縄に関する議論の前提にならねばならない。
 特に、江戸期の琉球の位置付は微妙であり、「日中両属という形の独立国」であった。かのペリー提督も日本来航時に五回も沖縄に寄港しており、琉球の特殊性を理解した上で、独立国として「琉球・米国修好条約」を締結しているのである。


江戸期の琉球への正確な理解の重要性

  
 一六〇九年四月、琉球国は幕府の許可を得て琉球出兵に動いた樺山久高を総大将とする薩摩の約三〇〇〇人の軍勢に敗れ、尚寧王は降伏し、同年五月、国王と重臣である三司官など約一〇〇名が薩摩に連行され、さらに駿河で徳川家康、江戸で二代将軍秀忠との面談を強いられた。何故、簡単に琉球は薩摩の軍勢に敗れたのかは謎だが、調べて感じるのは、琉球は尚真王時代の刀狩で武器を捨てた「平和と守礼の国」で、戦国時代の余韻を残し、朝鮮出兵、関ヶ原と鍛えられ鉄砲で武装した薩摩軍には抗しえなかったということである。

 興味深いのは、敗北した琉球王朝の尚寧王の日本連行は、あくまで異国の王の江戸訪問という形をとったことである。待遇は朝鮮通信使並みで、将軍秀忠は琉球について「薩摩公附庸の国ながら、十万石以上の格とする」とした。尚寧王は二年間も鹿児島に拘留され、一六一一年に帰国が許された。帰国に当たり薩摩に盟約(奄美大島他五島の割譲と薩摩に負うべき貢租を定める)を提出、日本との微妙な関係が始まった。この時、盟約書への署名を拒否した謝名親方は処刑された。そして、琉球王朝としての未曾有の屈辱を味わった尚寧王は帰国九年後の一六二〇年に死去するが、歴代国王が眠る首里の玉陵ではなく、浦添の陵にひっそりと眠っている。

 何故薩摩の領地として日本に併合しなかったのか。幕府の明国への配慮と薩摩の思惑が絡み合った判断であった。徳川政権は秀吉の朝鮮出兵のダメージ・コントロールに苦慮していた。この間の事情は江戸期の日朝、日中関係の関する論稿(本連載21、22)で触れたが、琉球が明国の冊封体制下にあることを認識し刺激を避けたのである。また、薩摩は琉球を「附庸」という曖昧な形で実効支配することで琉球ルートでの中国交易の実利を確保する思惑を有していた。西国の雄藩として薩摩が討幕のエネルギーを蓄積した背景には、「薩摩口」といわれる琉球経由の中国貿易回廊を確保があった。琉球での黒砂糖の栽培を促して砂糖貿易を独占、抜け荷(密貿易)にさえ関与しながら力を蓄積した薩摩のしたたかさに驚かされる。
 薩摩の琉球支配は、一四四一年に将軍足利義教が叛乱の疑いのあった弟足利義昭を日向で切腹させた恩賞として島津忠国に琉球を与えたことから属領意識が芽生えたという。だが、当時の琉球は尚氏による統一の直後で、日本が実効支配していたわけではなく、あまりに勝手な恩賞であり、一五世紀後半の記録に琉球から薩摩への「随時紋船派遣」とある程度の関係であった。一五九一年、豊臣秀吉は朝鮮出兵に際し薩摩に対して琉球からの出兵も命ずるが、薩摩は琉球への「出兵要請」は控え、兵士七千人の兵糧十二ヵ月分の供出を要請した。琉球王朝は渋々要求の半分程度の兵糧を送ったという。

 薩摩侵攻以降の江戸期の琉球王朝は、日本の幕藩体制の中で藩籍が与えられたわけではなく、あくまで独立国なのだが、「附庸」として薩摩に制御され、一方で中国に朝貢を続け、明から清への変化を受けながらも中国の冊封体制に組み入れられていたという「両属国家」だった。この両属性は「国交なき交易関係」を続ける江戸期の日中両国にとって都合のいい絶妙の関係だった。琉球と中国の冊封関係は一三七二年に遡る。当時はの琉球は「三山体制」といわれ、山北、中山、山南と三つの王国が分立していたが、明の洪武帝の使者が中山の王察度を訪問、返礼の入貢使節として王の弟泰期を派遣したことに始まる。この関係は一四七五年に「二年一貢」になるなどの変更もあったが、幕末の一八六六年の最後の冊封まで続いた。
 琉球を困惑させたのが、中国が一六四四年に明から満州族主導の清へ体制転換されたことであった。当初琉球は漢民族の明への共感が強く、南明政権(福王、唐王)との関係を重視していたが、一六四七年に清に帰順して招撫使を迎え清との朝貢関係を続けた。中国における交易基点は福州の琉球館で、釜山の倭館のごとく江戸期の日中交易の回廊となっていた。
 余談だが興味深い史実を知った。モンゴル元朝の遺子・地保奴が一三八八年に琉球に追放されたというのだ。『明実録」によれば、明朝の太祖の配慮で資財を与えられ一族と共に琉球に配流されたらしく、東アジアの鳴動の歴史が沖縄に埋め込まれているということであろう。江戸期琉球には「清の皇帝は父、朝鮮は兄、琉球は弟」という認識があったようで、東アジア史で独特の存在感を放つ琉球を理解する必要がある。そして、この二七〇年間にわたる「日中両属性」という時間がファジーな中を生き抜くという沖縄の性格を熟成し、歌舞音曲に象徴される逞しい文化を形成させたことを痛感する。



      

米国と沖縄の歴史的関係―――ペリーが結んだ米琉修好条約

 

 ペリー来航以前に、琉球には一八四四年のフランス船、一八四六年のイギリス船など五〇回以上も欧州列強の船が訪れていた。背景にはアヘン戦争(一八四〇年)など「西力東漸」の大きな動きがあり、食糧と薪炭、水などの供給のみならず通商やキリスト教伝道へと要求をエスカレートさせ、琉球政府も苦悩を深めた。基本的には要求拒否を貫いたが、薩摩を通じて幕府の意向を確認したが、「琉球は異国であり、薩摩に委ねるが、やむなき場合は通商容認」との反応(老中、阿部正弘の時代)であり、当惑している矢先のペリー来航であった。
 一八五三年五月二六日、ペリー艦隊は浦賀に向かう途中、上海から那覇に入港した。日本との和親条約の締結が不調の場合、琉球の占拠を意図しており、六月六日には強引に泊港に上陸、武装兵・軍楽隊など総勢二〇〇余人を引き連れて首里城に行進、「圧すれば制する」の威圧外交を強行した。この時、米国は琉球の持つ「日中両属性」という性格を見抜き、強烈な球を投げ込んだというべきであろう。
 ペリーの『日本遠征記」を確認すれば、ペリー一行は五回延べ八五日間も琉球に滞在している。浦賀を訪れる前の一八五三年六月九日に一旦那覇を出港、小笠原を周回して帰還している。小笠原を測量、父島に貯炭場確地確保することが目的だった。同年七月二日、浦賀に向けて出発、浦賀での開国を迫る交渉後、回答を1年待つことを約束して七月二五日、那覇に帰還、琉球政府に「①貯炭庫の設置、②乗務員への尾行禁止、③必需物資の自由購入」を承認させて、八月一日に一艦を残し香港へ発った。翌一八五四年一月一四日、香港から那覇へ再入港した後、浦賀に向かい、三月三一日、神奈川で日米和親条約を締結し、函館まで周回して七月一日に那覇に帰還、琉球との米琉修好条約を締結している。この条約は、米国でも一八五五年に大統領が正式の対外条約として布告、一八七二年、明治政府によって琉球藩が外務省出張所管下に置かれた際、日本外務省に引き継がれるまで存続している。

 沖縄と米国の関係を考えるとき、視界に入れるべきは沖縄からのハワイ移民という要素である。日本からの最初のハワイ移民は一八六八年、「元年者」といわれた一五三人が海を渡った。最初の沖縄からのハワイ移民は、ハワイが米国に併合された一八九八年以降の一九〇〇年の二六人であり、一九二四年の「排日移民法」で禁止されるまで続いた。移民一世の人たちの苦労は筆舌に尽くしがたいもので、私自身サトウキビ畑で働き続けて指が擦り切れて極端に短くなった高齢の一世と出会ったことがある。詳しくは鳥越晧之の『沖縄ハワイ移民一世の記録』(中公新書、一九八八年)『琉球国の滅亡とハワイ移民』(吉川弘文館、二〇一三年)の一読を勧めたい。
 第二次大戦前にハワイに移民した日本人は約二二万人、沖縄からは約四万人とされる。沖縄からの移民には他の地域からの移民とは異なる事情が存在した。「沖縄移民の父」とされる当山久三は、沖縄の民権思想家として『沖縄時論』を発行(明治三二年)した謝花昇と共鳴して奈良原官撰知事が主導する藩閥政治と戦い、「移民は時期尚早」とする知事の圧力を振り切ってハワイ移民を実現したのである。後述する明治政権による「琉球処分」以降の沖縄の鬱々とした空気が希望をハワイに託しての渡航へと若いウチナーンチュを駆り立てたといってよい。
 二〇一四年、ハワイ州知事に祖父が沖縄県西原町出身というデービッド・イゲ(伊芸)が当選した。沖縄県系初の州知事誕生で、彼の父は第二次大戦時に欧州戦線で活躍した四四二連隊の兵士として従軍、勲章を受けた。この四四二連隊こそハワイ日系人からなる部隊で、イタリア戦線で活躍し、「死傷率三一四%」(一人で何回も負傷したため)という伝説を残して日系人の評価を転換させた象徴的存在だ。これまでも県人会などを通じて交流の深い沖縄とハワイが新たな局面を迎えた。



      
琉球処分と近代史における沖縄の苦闘

 

 明治維新を迎えて一一年後の一八七九年、沖縄は本土の廃藩置県(一八七一年)に遅れること八年、「琉球処分」といわれる局面に立たされる。内務大臣の松田道之が警察官吏一〇〇人余、歩兵大隊四〇〇名余と共に首里城に入り、太政官令で「琉球藩を廃し、沖縄県を置く」と通告、王家の人々は首都東京に退去させられた。司馬遼太郎は「琉球処分」について、「日清両属という外交上の特殊関係もあって、琉球処分はより深刻であったかもしれないが、しかし事態を廃藩置県という行政措置に限って言えば、その深刻の度合は本土の諸藩にくらべ、途方もない差があったとはいえないように思える」(『街道をゆく六 沖縄・先島への道』)と述べるが、それは違う。曲りなりにも独立国であったものが、明治になって唐突に琉球藩とされ(一八七二年)、さらに琉球藩から沖縄県にされる経緯を考えれば、「琉球処分」が幕藩体制下の藩や士族制度を失うだけではなく、「国を失う」衝撃だったことに気付かされる。

 沖縄は日本近代史に巻き込まれていく。その行き着いた悲劇がアジア太平洋戦争における沖縄戦であった。沖縄戦は日本での唯一の地上戦で、一九四五年四月一日に米軍が沖縄に上陸し六月二三日の第三二軍司令官牛島満陸軍中将の自決まで三ヵ月近く、少年から婦女子まで動員した悲惨な戦いであった。沖縄は本土決戦のための「捨石」とされ、集団自決を含む日本人の二四・四万人(正規軍六・六万人、防衛隊二・八万人、戦闘協力者五・五万人、住民九・五万人)が犠牲になった。県民の四人に一人、米軍も一・三万人の屍を積み上げた。海軍陸戦隊を率いた大田實海軍中将の海軍次官への最後の打電「沖縄県民斯ク戦へり、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」を読んで、目頭が熱くならない日本人などいないであろう。
 敗戦後の沖縄は、一九七二年の沖縄返還まで米国による占領・統治の時代を迎える。実体的には今もその中にあると言えるかもしれない。一九四三年のカイロ会談での戦後の領土問題に関し、ルーズベルトは蒋介石に琉球領有を欲しているか打診したという、興味深い史実がある。これに対する中国側(蒋介石)の沖縄問題への姿勢は微妙で、台湾を中国に返還させることは明確に主張したが、沖縄については「琉球は国際機関の中美共管に委託」することを主張(『蒋介石日記』した。理由は米国に対する配慮で、米国が戦後のアジア展開の基点として沖縄に関心を抱いているとの判断と日清戦争以前に日本に帰属していたという認識に基づいていた。

 宮里政玄の『アメリカの沖縄政策』(ニライ社、一九八六年)など戦後の米国の沖縄政策研究に目を配れば、終戦直後から「施政権の日本への返還」を主張する国務省と「米国による排他的統治」を主張する軍部の対立という構図が存在し、結局は軍政の継続という判断に傾いたことが分る。一九五〇年には民政府設立(琉球列島米国民政府)、五一年のSF講和条約後も暫定措置として「軍政」継続となっていく。「琉球は日本本土とは別次元の存在」という米国の潜在意識が透けて見える。
 沖縄問題を考えるとき、米国において「沖縄は海兵隊の島」という認識が潜在していることを知る必要がある。現実に在沖米軍基地面積の七六%、駐留する米軍の六割は海兵隊である。あの「沖縄戦」を戦った主力が海兵隊で、海兵隊にとって硫黄島と沖縄は血で勝ち取った戦果であり、旧日本陸軍にとっての「二〇三高地」である。海兵隊は戦後、一度解散された後一九五三年に朝鮮戦争を背景に第三海兵団として再結成されて日本本土に配置され、一九五七年に沖縄に移転した。理由はコスト面で沖縄が優位だったことと、日本国民の反米軍基地感情に配慮したためであったという。より本質的には、在日米軍が冷戦下の仮想敵国ソ連への「抑止力」であるならば、ソ連侵攻の可能性の高い北海道にこそ配置されるべきと考えるところだが、米国にとって御しやすい琉球に基点を置き、緊迫した対ソ連リスクから距離をとり、アジアへの影響力を最大化させる本音を内在させていたということであろう。


      
沖縄の今―――自立自尊の基盤

  沖縄の基地問題のような複雑な歴史を内包し、利害が錯綜した課題の解決には大きな構想力と胆力が必要である。二〇〇九年の日本における民主党への政権交代が失敗に終わったのも普天間移設を巡る迷走が主因であった。鳩山政権の挫折の本質は、この問題を「沖縄の負担軽減」としか捉えきれなかったことである。「最低でも県外移転」という鳩山の真情が本気だったとしても、米国の既得権益確保へのこだわりと「現状維持こそが国益」との固定観念に凝り固まった日本側の外務・防衛官僚の羽交い絞めによって政権内の結束が崩れ、「米軍は東アジア安定の抑止力」という建前論での「辺野古移転容認」という腰砕けに終わったことの責任は重い。真に踏み込むべきは、在日米軍基地の在り方を再点検し基地の段階的縮小と地位協定の改定を進める日米戦略対話の実現であった。

 どこかに普天間の移転先を求めて迷走する次元の話ではなく、冷戦終結後のドイツがすべての在独米軍基地の使用目的と必要性を俎上に乗せて、基地の縮小とドイツの主権回復に踏み込んだごときアプローチが必要であった。世界の多くの政権交代を経験してきた米国は、日本側からのそうした問題提起に一定の覚悟をしていた。ところが、鳩山政権は「基地問題の歴史的転換を図る」という政権公約を見失い、続く菅・野田政権は「米国の虎の尾を踏んではならない」という怯えと委縮の中で「政治的現実主義」の名の下に、「既に決まっていることは今まで通りが良い」という裏切りに堕してしまった。

 しかし、鳩山政権の「辺野古容認への回帰」から五年、沖縄の基地問題は二つの意味でその本質を再考すべき局面を迎えている。一つは尖閣問題が緊張の高まりによって日米同盟の質が明確になったことだ。日本は「日米同盟で中国の脅威と戦う」シナリオを組み立てているつもりで、在沖米軍基地もそのために存在していると期待しがちだが、米国の本音が「日中の領土紛争による米中戦争には巻き込まれたくない」ことは明らかである。確かに米国は「尖閣の施政権は日本にある。領有権問題にはコミットしない。尖閣は日米安保の対象内であり同盟責任を果たす」との原則を繰り返すが、日本を支援して中国と戦うという単純な意思でないことは明確で、その東アジア戦略の基本は「米国のアジアにおける影響力の最大化」にあり、同盟国日本の期待も繋ぎとめるが二一世紀の経済大国中国も重要、という「あいまい作戦」なのである。
 もう一つは、二〇一四年県知事選で翁長雄志が当選し県民の意思が明確になったことである。何故翁長は当選したのか。それは前知事が恭しく東京から持ち帰った「国の立派な経済振興策」の見返りに辺野古を認めることは、沖縄が主体的に基地受け入れることであり、ウチナーンチュは覚悟を決めて、新たな沖縄の在り方を模索する意思決定をしたのである。

 こうした経年変化にもかかわらず、「日米合意があるから、選択肢は辺野古しかない」という思いこみで、巨額の沖縄振興予算との抱き合わせで辺野古移設を強行し、沖縄を沈黙させる政策に突き進んでいるのが現状である。最近は、基地と振興予算を結び付けて「カネと利権の構図」に浸ってきた沖縄を指弾する論調が目立つ。確かに二〇一三年一二月に仲井真前知事が日本政府の沖縄振興策を「立派な計画」として感謝し、「辺野古埋め立て承認」を腹に「良い正月になる」と語る姿を見て、薩摩に拘束された尚寧王の悲哀とともに琉球蛇のしたたかな笑みを感じ取ったのは私だけではないであろう。
 だが、仮に「累積一〇兆円を超す振興予算と基地の受け入れを刺し違えてきた沖縄」という構造が事実だとしても、基地がこのままでいいということにはならない。私は「反米・反安保・反基地」というかつての「革新」勢力の三大話を蒸し返しているのではない。新たな局面が見えているのに、戦後七〇年も経って外国の軍隊が占領軍のステータスのままに存続していることに問題意識を抱かない国は独立国とは言えない、と語っているのだ。もちろん、東アジアの安定のために日米同盟を賢く「抑止力」に利することも大切である。そのために日本における全米軍基地を再点検し、二一世紀の東アジアの安全保障を睨んで基地の段階的縮小と地位協定の改定を粘り強く提起し、その中での辺野古の位置づけを議論すべきである。

 この連載でも私は「常識に還る意思と構想――日米同盟の再構築に向けて」(二〇一〇年二月号)「日米同盟は『進化』させねばならない――普天間迷走の総括と今後」(二〇一〇年八月号)を書き、日米同盟の安易な「深化」ではなく「進化」を主張してきた(単行本『脳力のレッスンⅢ、問いかけとしての戦後日本と日米同盟』所収)。また、定点観測のごとくワシントンを訪れ、むしろワシントンの方に柔らかい選択肢で日米同盟や基地を考える海兵隊出身のジム・ウェッブ前上院議員などの政治家や国際問題の専門家が層厚く存在することを確認してきた(同『脳力のレッスンⅣ、リベラル再生の基軸」』所収)。「日米同盟のためには沖縄が犠牲になっても仕方がない」などと安易に考えてはならない。今、なすべきは筋道の通った情熱で米国と向き合うことだ。確かに短期的利害として、七割の駐留経費を受け入れ国たる日本が負担し、占領軍のステータスに近い地位協定を享受する基地を失うことはペンタゴンの官僚からすれば容易に譲れないであろう。海兵隊は沖縄に集中しており、その基地縮小となれば、米軍内の陸・海・空・海兵の力学の調整問題も生じる。だが、大切なのは日本側の意思と構想力である。日本の自立自尊とアジアの安定を見据え、二一世紀の日米同盟を再構築する視界が問われる。課題は日本自身が冷戦型の思考回路からいかに脱却できるなのだ。

 改めて沖縄の歴史を振り返るならば、常に「日本」によって運命を翻弄されてきたことは間違いない。ただし、同情や贖罪意識で沖縄を論ずることは、大江健三郎が『沖縄ノート』で言う、別次元での「日本中心の中華思想」であろう。一方で日本を振り回し、国境線を超えてファジーに生き抜く知恵を蓄積してきた沖縄に気付くからである。歴史の渦に巻き込まれているようで、実はそれを切り返すたくましさを内在させる沖縄がどう動くのか。翁長県政となり新局面を迎えた沖縄に注目したい。沖縄はワシントンに事務所を出すことになった。米国と沖縄の歴史的関係を背景にした交流が沖縄人の心に何をもたらすのか。「沖縄独立論」に踏み出す前に、まずは真の「経済的自立」への展望が重要になるはずである。

 七二年の「沖縄返還」から四〇年余、本質的な意味で祖国とはいえない日本への「復帰」に期待した沖縄人の心情が、敗戦後苦しみながらも「民主主義と平和主義」に立脚して進もうとする日本への共鳴と連帯にあったことを真剣に受け止めるならばヤマトンチュ(日本人)たる我々も襟を正さねばならない。今我々は一九九三年にNHK大河ドラマで『琉球の風」を放映し、小渕恵三首相が沖縄サミットの開催にこだわった時に比べ、沖縄と真摯に向き合う姿勢を喪失してはいないか。日本と共に歩むことが沖縄の希望となるように努力する、それが沖縄を翻弄してきた日本が沖縄の問いかけに答えることではないのか。基地問題の解決なくして戦後は終わっていない。

 

 


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