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岩波書店「世界」2014年12月号 脳力のレッスン152 本居宣長とやまとごころ一七世紀オランダからの視界(その26)

しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花
  六一歳の本居宣長が、自画像一幅に書き添えた歌である。桜の季節には何故か思い出す、日本人の心を揺さぶる代表的な歌であろう。私も世田谷の自宅の裏庭の桜から吉野の千本桜まで様々な日本の桜を眺め、ワシントンのポトマックの桜も味わってきたが、この歌を想い日本人の美意識を感じたものである。かの山本五十六は駐在武官当時ポトマックの桜を見て、この歌が心にあったのであろう、故郷長岡の恩師宛の絵葉書で「当地昨今吉野桜の満開。故国の美を凌ぐに足るもの有之候。大和魂また我国の一手独専にあらざるを諷するに似たり」と書いている。故国への熱い思い入れと、必ずしも日本だけが精神的に優れているわけではないという冷静な事実認識、この葛藤が国際社会に向き合う日本人の宿命である。

 実は宣長の歌には「しき嶋のやまとごころ」に至る原型がある。一七七三年、四四歳の自画像に寄せた次の歌である。
めづらしきこまもろこしの花よりもあかぬいろ香は桜なりけり
 つまり、桜に心を寄せる心底の意識に、こま(高麗)=朝鮮、もろこし(唐土)=中国が対比概念として存在していたわけで、日本を意識するとはそういうことだった。「からごころ」からの脱却が宣長にとって、そして彼が生きた時代の日本にとっていかに重いテーマであったか感じ取る必要がある。
 気の毒な誤解が本居宣長に向けられてきた。「しき嶋」の歌は、太平洋戦争中「愛国百人一首」の定番とされ、曲解・利用された。かの「神風特攻隊」の部隊名が、「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名付けられ、徒花のごとき散華を美化する狂信的愛国主義の表象とされてしまった。しかし、宣長はそんな浅薄に捉えきれる存在ではない。改めて宣長を読み返し、小林秀雄や吉川幸次郎など国学研究者以外の「知」による宣長論を確認して感じるのは、彼は時代の桎梏や固定観念から距離をとった自由の人であり、価値の枠組を転換した変革者だということだ。子安宣邦が「近代における宣長の再生」と指摘しているごとく、「日本とは何か」が求められる時、日本人としての自己主張的言説の再生として宣長が蘇る構造を考えざるをえないのである。(『本居宣長』、岩波新書、一九九二年)

本居宣長なる生き方―――市井の知性が国学の祖に

 石川淳(中央公論社、一九七〇年)、本山幸彦(清水書院、一九七八年)、城福勇(吉川弘文館、一九八〇年)等の「本居宣長」研究を参考に、宣長の足跡を整理しておきたい。
 本居宣長は、一七三〇年(享保十五年)伊勢国(三重県)松坂の小津三四右衛門定利の次男として生まれた。既に荻生徂徠は一七二八年に世を去り、白石・徂徠の世代からは二世代後の時代を生きたことになる。小津一族は木綿を商う商家で、宣長の四代前の先祖が松坂木綿を扱う店を江戸大伝馬町に展開して財を成した。商才ある一族で、三代前は木綿店だけでなく堀留町に煙草屋と両替店を営むなど「富栄えた」という。
 江戸期の松坂は、元和五年(一六一九年)以来御三家たる紀州藩の「飛地」であり、伊勢参詣者が行き交う伊勢街道の宿場町で、名古屋、京都、大阪、和歌山に繋がる交通の要衝であった。木綿や麻の集散、江戸への販売のため三井家をはじめ江戸店持ちの大商人を約三十軒生み、商人文化が花開いた。
 小津家もその一つで、宣長も「商家の教養」を身につけて育った。八歳で習字、一二歳で書道と謡曲、一七歳で射術、一九歳で茶の湯、二〇歳で「四書五経」の素読と和歌などを学んだという。当時の豊かな町人の教養の高さを印象付けられるが、宣長の場合、特に写本と多くの書物の乱読に情熱を注いだという。また、一七歳の頃から「和歌を詠む心」が芽生え、和歌や歌学の書物に関心を寄せ、二二歳頃までの詠歌四百八十余首を「栄貞詠草」と題して一巻にまとめている
 商人としては知的世界に埋没する傾向が強く、次男の宿命で一九歳の時に山田妙見町の  紙商人の養子に出され、紙商人としての生活を始めるが、商売にはなじめぬまま二年で離縁となり松坂に戻った。重い挫折体験であり、母は宣長の将来を心配し、彼の知的素養を生かすべく医者にしようと思い立ち京都への遊学を勧めた。その生涯を調べて苦笑を禁じ得ないのは母カツの存在であり、遊学中の宣長に毎月一両のお金を工面して送金し、「酒は杯三つ以上はやめるように」という戒めの手紙を送るなど宣長にとって頭の上がらぬ賢く怖い母であった。現存する母の手紙は六八通にのぼり、妻の名前を「カツ」に改名させるなど、相当なマザコンであったといえるが、母との信愛は彼の世界観に正の力を与えたと思われる。
 京都遊学前年の一七五一年、江戸に店を出していた義兄の定治が病没、宣長が家督を相続することになった。だが商いの道にはなじめず、二三歳で医学修行のため京都遊学を選択し、まずは医学を学ぶための漢籍の読解力を身に着けるために堀景山に入門、その後医術を学ぶため堀元厚に師事、京都で五年半を過ごした。一七五七年に二八歳で松坂に帰った宣長は医業を開き、自らを「くすし」と呼び、内科の町医者として生涯を送った。生真面目な記録魔であった宣長は、「済世録」として詳細な出納を残しており、一七八一年五一歳の頃、年間の医療収入は九六両となり、これが生涯最高額であった。
 向学心は燃え続け、転機は三三歳の時であった。伊勢参宮に訪れた賀茂真淵と松坂の旅籠にて面談、翌年誓詞を提出して弟子となった。「松坂の夜」といわれる運命的邂逅の時真淵は六六歳、その教えは「からごころを清く離れて古のまことの心を訪ね知ること」の大切さであり、『古事記』を解明したいという宣長の意思を強く後押しした。生涯に一度の面談であったが、書状を通じて真淵が亡くなるまでの六年間、指導を受けた。既に徂徠学の影響を受け、官製儒学の限界を感じていた宣長は真淵に触発される形で古学へと向かっていった。
 議論を超えて、宣長が心を打つのはその学びの姿勢である。書斎「鈴屋」にどっしりと座り、三十数年をかけて『古事記伝』に立ち向かった。吉川幸次郎は『本居宣長』(筑摩書房、一九七七年)で「私は宣長の信徒となった」と語るが、最大の理由は宣長の「もの学びの心」、つまり学問に向かう姿勢への敬意であった。「からごころ」の研究者、すなわち中国の専門家である吉川が宣長を「世界的日本人」とまで評価するところに多くの知的探究者が宣長に惹かれる核質がある。『古事記伝』全四四巻を六九歳にして完成、宣長思想の集大成であった。一八〇一年、一九世紀の入口の年に死去、七一歳であった。
      
宣長思想とは何か―――「もののあわれ」から「古学」への踏み込み

 真淵に入門した頃、三〇歳代半ばの宣長は『源氏物語年紀考』を著し、文芸観において新しい視点を提起した。歌詠みにしても物語にしてもこの時代の価値に縛られた知的遊興の対象であり、とりわけ『源氏物語』は儒教的価値観においては好色な貴族の色恋物語として隠微な文芸であった。だが宣長はそこに人間世界を貫く「もののあわれ」を見たのである。
 宣長は語る。「世の中にありとしある事のさまざまを、目に見るにつけ耳に聞くにつけ、身に触るるにつけて、その万の事を心に味へて、その万の事の心をわが心わきまえて知る、これ、事の心を知るなり、物の心を知るなり、物の哀れを知るなり」、つまり、物事の本質を深く捉える心の構えとして、主客一体の感情の移入、共感が大切だというのである。「されば、物のあわれをしる人を心ある人といひ、しらぬを心なき人といふなり」(『石上私淑言』)と言い切るところに彼の真骨頂がある。
 この「もののあわれ」までは、深く人間社会に踏み入る心の在り方として理解ができる。しかし、そこから何故『古事記伝』、古道なのか。当時誰も踏み込まなかった古事記へと向かった宣長を理解することは簡単ではない。そこには、尋常ならざるパラダイム・ジャンプがあった。雑誌『新潮』に一一年半も『本居宣長』を連載(単行本、新潮社、一九七七年)した小林秀雄も「宣長の古伝説崇拝は狂信というより他にない」と醒めた目線を送りつつ、「その魂と共振できるかどうか、そこだけなのだ、そこだけなのだ」と宣長への思いを集約する。六〇年安保から全共闘運動へ向かう政治の喧騒の中で黙々と宣長研究に立ち向かった小林の「非政治的人間の政治的意思」が宣長と共振したのだろう。宣長が礼賛した水戸光圀の『大日本史』も、古代並びに皇室への憧憬を示しながらも、日本の歴史は神武天皇に始まり古事記は対象外であり幕府の正史『本朝通艦』も正編は神武から始まる。儒者の中で唯一人新井白石のみが『古史通』において勇敢にも「神とは人也」と言い切り、「我が国の俗凡其尊ぶ所の人を称して、加美といふ。古今の語相同じ、これ尊尚の義と聞えたり。今字を仮用ふるに至りて、神としるし上としるす等の別は出来れり」と、人為的に造られた神話の「知性に基づく合理的解釈」に向かった。
 宣長は全く違う次元で『古事記』と向き合った。理解や解釈などという次元ではなく、古事記を古代との通信装置として、自らの心を古代に繋げることで、精神の所在地を確認する営みに挑戦したのである。口誦文化から文字文化に移行する時代の上代日本人に迫る挑戦であり、このあたりから「宗教的啓示」にも近い「神のしわざ」を信じ、神代の古道を探求する宣長となっていく。こうした方向に彼を突き動かしたものは何だったのであろうか。もののあわれを知る心とは「儒学によって権威つけられた規範」を超えようとする美意識であった。であれば、その先に儒教による規範を超えた変わらざる価値が必要となる。そこに見えてきたのが「古の道」であった。背景には、江戸幕府とそれを支える価値体系たる「からごころ」に由来する儒学の行き詰まり、鎌倉幕府以来六〇〇年を超す武家政治の揺らぎがあった。
 「鎖国」といわれる時代が、既に百数十年も続き、文化的に依存し続けてきた中国からの自立の機運が満ちていたという背景もある。この連載でも「鎖国とは中国からの自立過程でもあった」(『一七世紀オランダからの視界(その8)』)として、一七世紀の江戸期日本が、一六七〇年の古銭禁止令、一六八五年の大和暦の採用と、流通通貨と暦という基本的な要素において中国の影響力からの自立を実現してきたことを論じた。一八世紀における本居宣長の登場は、「からごころからの脱皮」という意味で江戸期日本における思想的葛藤の到達点だった。孔子・老子をはじめとする中国の聖人がいかに偉大とはいえ、中国中心に物を考える華夷思想の呪縛を超え、「あめつちのあひだ、いづれの国も、おのおの其国なれば」(『玉勝間』七の巻)という冷静な自覚・相対感覚と「よしなき他国の説を用ひんよりは、己が本国の伝説にしたがひよらんこそ、順道なるべき」(『玉くしげ』)という思いが宣長を古事記に向かわせたのである。
 彼が生きたのは八代将軍吉宗から十一代家斉の時代だが、古事記伝に向き合い始めた一七七〇~八〇年代は老中田沼意次の時代(七三年老中就任、八六年失脚)で、幕政は弛緩、一七八七年に松平定信「寛政の改革」が始まるが、ラックスマン根室来航(一七九二年)など「外圧」も顕在化し、いよいよ「幕末」に差し掛かっていた。松坂に沈潜し時代を見つめるその目には武家政治の揺らぎと幕府を支える儒学的価値(からごころ)の限界は見えていた。そして古道の探求の中から示したのは「日本の限りない肯定」であり、その価値を体現する存在としての天皇の復権・親政に光を見出すことであった。「討幕の思想」に点火する国学の姿が現れ始めたのである。
     
開かれた国学という視界

 本稿執筆のために松坂を再訪し、本居宣長記念館、鈴屋を改めて見せてもらった。特に印象付けられたことがある。それは記念館に展示してあった宣長所有の「世界地図」である。宣長は少年期より地図が好きで、自ら詳細な日本地図を描き松坂の位置を確認(『松坂勝覧』)していたが、五七歳の時に、「地球一覧図」(天明六年、大阪書林製)を手に入れて見つめていた。つまり、地球が丸いことも、日本が極東の島国であることも知っていたのである。私が興味あるのは宣長の世界観だが、彼自身は決して偏狭な排外主義ではなく、オランダについては好意的関心を抱いていたことが窺える。少なくとも京都滞在中に朝鮮通信使を目撃し、オランダ商館長の江戸参府にも何回か遭遇したはずだ。事実、一七四八年一九歳の京都への旅の途中、朝鮮通信使の入京・出京を目撃したと書き残している。また、一七五二~五七年までの五年半の京都遊学の期間、江戸参府の行き帰りに京都滞在中の長崎オランダ商館長一行に何回かは遭遇したであろう。商館長の江戸参府は一六三三年(寛永一〇年)に定例化し一七九〇年以降は四年に一回となるが、宣長が京都で居住していた柳馬場五条、綾小路室町、室町四条は、どこも本石町三丁目・河原町三条の一行の定宿「海老屋」と近接しており、オランダ人を迎える大騒ぎに気付かなかったはずはない。特に、医学を志していた宣長が随行する蘭医に関心が無かったとは思われない。
 彼は一六歳の頃約一年叔父の店に寄宿、二二歳の時には義兄の死に際し店の整理に下向、四ヵ月ほど生涯で二度、江戸に滞在した。京都には五年半遊学、その他、名古屋、京、大阪、和歌山、吉野などに旅行を繰り返し、この時代の人としては行動的に動き回りその意味でも視界を広げた人といえる。
 一切の政治的発言や行動から距離を置いて静かに古の日本へと価値を探求した宣長が、本人の意図を超えて時代を動かす思想の源流となる。それを同時代人として見抜いていたのが宣長批判の急先鋒ともいえる上田秋成(一七三四~一八〇九)であった。太陽神である天照大神が万国を照らし皇国日本が万国の上に在るという考えは尊大であり、日本が「池の面に浮かぶささやかなる一葉」のような小国であることを認識すべきで、「日本魂と云ふも、偏るときは、漢籍意(からふみこころ)にひとし」として自己中心的な中華思想と同次元の自己主張になりかねないことを懸念している。これに対し宣長は「いかなる広大なる国にても下国は下国也。狭小にても上国は上国なり」と動じない。宣長が只管問い続けたのは道に適った国家の質であり国家権力や国威発揚ではなかった。非政治的人間として松坂に正座した宣長は、「からごころ」の儒学を正学とする幕府を倒す理念的根拠を提起して静かに去った。だがその志を継ぐ形で文化年間から平田篤胤の「『玉褌』に見える宣長の伝」などが登場して討幕の正統性を支え、明治になると川口常文『本居宣長大人伝』(明治二八年)などが高等国文の教科書にも登場し、尊王愛国思想のイデオローグに祭り上げられていく。
 鈴木大拙に「外は広く、内は深い」という言葉があるが、時代の桎梏の中で本居宣長という人は静かに「日本とは何か」を追い、歴史の古層にまで内の深さに迫っていったのである。

 


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