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You are here: Home 寺島実郎の発言 脳力のレッスン 2014年 岩波書店「世界」2014年10月号 脳力のレッスン150 新井白石と荻生徂徠――時代と正対した二人の儒学者―― 一七世紀オランダからの視界(その25)

岩波書店「世界」2014年10月号 脳力のレッスン150 新井白石と荻生徂徠――時代と正対した二人の儒学者―― 一七世紀オランダからの視界(その25)

 江戸時代を支配した思想は「儒学」であり、林羅山以来、林家が「大学頭」として幕府の正学たる朱子学を統治の基軸とした。正確には幕府が正学として朱子学を位置づけたのは松平定信の「寛政異学の禁」(一七九〇年)で、家康が仏僧天海を重用したごとく、江戸前期においては必ずしも儒学だけが時代を支配したわけではなかった。朱子学は南宋の朱熹(一一三〇~一二〇〇年)が起こした思想体系で、明・清を通して中国王朝の正統哲学であった。四書(大学、論語、孟子、中庸)を重んじ、日本においても幕府の統治理念となるとともに、江戸期の支配層たる武士の基本的教養となっていった。思えば、李王朝期の朝鮮を含め、「近世」の東アジア三国において儒教が統治の知的共通基盤になったという事実は興味深い。

  江戸期日本の儒学の世界に佇立する存在が新井白石と荻生徂徠である。白石が九歳年上だが死去したのは白石が一七二五年で徂徠は一七二八年、ほぼ同時代を生きた二人の儒学者の生き方と思想を考察することでこの時代への認識を深めておきたい。実はこの二人は複雑な緊張関係にあり、相容れないままそれぞれが真剣に自らの時代と関わり時代を動かした。
  われわれ戦後なる時代を生きた日本人は、「和漢洋の教養」などといっても、戦後教育の影を投影して大概は漢籍の素養に欠け、半知半解の洋と薄っぺらな和の学識によって知性を装っているにすぎない。儒学など「古い」というのが大方の印象だろうが、我々自身の知の所在地を確認するためにも深い考察が求められる。改めて白石と徂徠に関する文献を読み込みながら感じたことはあの情報の制約された時代に、物事を考え抜く力をもった日本人がいたことへの驚きと敬意である。

新井白石の世界認識―――国際人の祖形

 

  既にこの連載でも何回か新井白石に言及してきた。最後の潜入宣教師シドッチと向き合った白石(その18)、朝鮮通信使への対応を巡る白石の建言(その21)などだが、それほどまでに白石は彼の生きた時代に大きな役割を果たしたのである。
  白石は一六五七年、小大名たる土屋家に仕える下級武士の子として産まれた。二一歳で内紛に連座して土屋家を追われ、食べていくために儒学の道に入り木下順庵に師事、一六九三年、三七歳の時に順庵の推挙によって甲府藩主だった徳川綱豊に仕えることになった。一七〇九年に綱豊が六代将軍家宣になったことで運命の転機を迎え、将軍の厚い信任を受けて活躍の場を得、一〇〇〇石の旗本となり従五位下・筑後守にも任ぜられた。林家以外の儒者としては例のない栄達である。

  一七〇九年から一七一六年までの七年間が「白石の時代」といえるほど、幕政に深く関与し、六代将軍家宣、七代家継を支え、財政・貨幣制度の改革から、長崎貿易の制限、皇室の在り方、朝鮮通信使への待遇に至るまで自らの思想に基づく正論を進言、世に「正徳の治」といわれる政治改革に影響力を行使した。政策顧問というよりも政策立案者(ポリシー・メーカー)であり、今日的に言えば高級行政官僚でもあった。
 白石の歴史的意味については、戦時下日本の一九三七年、羽仁五郎が『白石・諭吉』(岩波書店)において「近代思想の先駆者」としてその合理主義、個我の自覚、ヒューマニズムを評価し、戦後においては宮崎道生が体系的な『新井白石の研究』(吉川弘文館、一九五八年)を著し、藤沢周平が大著『市塵』(講談社、一九八九年)で小説という形でその生涯を捉えようとしたごとく、多くの知識人が心惹かれ白石に迫ってきた。

  『市塵』は抑制された筆致で彼の生涯を描き、江戸幕府の心臓部に身を置いた白石という覚めた知性の葛藤を淡々と書き込み、藤沢流の白石観に心打たれる。とくに八代吉宗の治世下で、失脚し老いていく白石が家族のことに悩みながら終の棲家を求めて小石川伝通院裏の柳町辺りを歩き「市塵に戻る」最後のくだりは、何故彼が「白石という素材」を取り上げたのかを思い至らせる場面である。この作品は決して偉大な白石を語ろうとはしない。だが、専ら江戸武士社会を描き続けた藤沢が、白石の知性と人間性に深く敬意を抱き、軋轢の中に生きた等身大の姿を描こうとしたことが静かに伝わる。

  多くの人が白石を論じる中、フランス文学研究者の桑原武夫が『日本の名著・新井白石』への責任編集者として寄稿した「日本の百科全書家新井白石」(中央公論社、一九六九年)は示唆的である。彼は「一七世紀から一八世紀にかけての日本がもちえた最も偉大な百科全書的文化人」として白石を位置づけ、視界の広さと思考の独創性を高く評価する。そして「永遠なるもの、絶対的なるものへの疑惑と否定」が合理精神と近代主義の性格だとするならば、「白石は明らかに近代主義者」と位置づける。確かに、江戸期の日本において白石ほど渾身の力を込めて国際社会と向き合った人物はいない。潜入宣教師シドッチに四回にわたる尋問をして(一七〇九年)、キリスト教とは何かを考察し、『天主教大意』をまとめ、江戸参府のオランダ商館長とも面談を重ね(一七一二、一七一四、一七一六年)、それを『西洋紀聞』『采覧異言』という著作とし世界への視界を開いた。また、朝鮮通信使と二度(一七〇九、一七一一年)向き合い同行の儒者と議論を深めるなど、外国と向き合った日本の知性という意味で圧倒的存在感を見せている。

  近年の研究成果として、銭国紅の『日本と中国における「西洋」の発見』(山川出版、二〇〇四年)は興味深い。白石と筆談した(一七一一年一一月)朝鮮通信使の記録「江関筆談」に触れている。内容は史書、礼服、儀典、交易、外交、国際関係に及んだが、こと外交と世界地理になると白石の博識が圧倒し、「在来の世界像に立脚して議論する朝鮮の知識人と、新しい世界像によって議論する白石との違いを象徴する場面」と紹介されている。白石研究の大家宮崎道生が、『新井白石の研究』や『世界史と日本の進運』(刀水書房、一九七九年)における「鎖国時代の日本人の海外認識――新井白石の世界観」において論及しているごとく、白石こそ正に「国際人」といえる存在であった。当時の日本においては外国ともいえる沖縄や北海道について、『琉球国事略』や『蝦夷史』といった地理書を著しており、その視界の広さは驚嘆すべきものがある。

  ただしその限界も感じる。『西洋紀聞』における結論ともいうべき「西洋」の本質についての考察で、白石は「ここに知りぬ、彼方の額のごときは、ただ其の形と器とに精しき事を。所謂形而下なるもののみを知りて、形而上なるものは いまだあづかり聞かず」と述べる。儒学者らしい総括ではあるが、ここに西洋の科学技術には敬意を払うが、内面の精神性においては日本、東洋の優位を意識する「和魂洋才」の淵源を見る。西洋思想がそれほど浅薄でないことはいうまでもない。

  「正徳の治」を冷静に見つめるならば、既に百年以上続いていた徳川支配体制を儒学の理念によって再形成する強い意思が感じられる。例えば将軍の国交上の地位について、朝鮮通信使の書状においてそれまでの「日本国大君源某」から「日本国王」にすべしと建言したり、江戸の中心部に入る所に南向きの門として芝御門の建設、さらに江戸城本丸の南向きの御門の建設など、それらは全て徳川幕府の権威づけへの腐心に他ならない。「武家諸法度」の改訂、儀式・服装に関する規定、孔子廟への将軍参拝など、白石流の儒教的正当性によって改革が強行された。こうした改革への一途な情熱と思い入れが多くの敵を作り、吉宗からは「文飾過ぎしもの」と評され遠ざけられる要因にもなった。近年は外国人による研究も深まり、ケイト・W・ナカイの『新井白石の政治戦略―――儒学と史論』(東大出版会、二〇〇一年)などは、「野心家で攻撃的なほどに競争心の強い性格」を見抜き、「儒教的政治理論の命題を徳川の政治体制に適用した非妥協的努力」と彼の改革を位置づけ、吉宗がそれを否定する形で巧みに利用して幕府の指導権を再構築したという興味深い結論を導き出している。
      
荻生徂徠の徹底した『反近代性』

 

  新井白石の時代を苦々しく見つめ、雌伏していた儒学者がいた。荻生徂徠である。既に一七一六年、八代吉宗の時代が始まり白石の改革を否定し始めた時、徂徠は五一歳になっていたが、満を持していたかのごとく動き始めた。後に「徂徠学」として認識される作品群、『弁道』『弁名』『学則』を書き上げ、一七二一年には、吉宗の求めに応じて自らの主張の要点を『太平策』として提出した。但し吉宗は、五代綱吉以来の側近政治を否定し譜代による幕閣システムを尊重しつつ自らが幕政を主導していった。白石が幕閣を直接動かしたのとは異なり、徂徠にはあくまでも儒学者としての見解を諮問したにすぎず、一七二六年には政治の現状を分析して政策論を提起する『政談』を提出させたが、採用することはなかった。

  徂徠は一六六六(寛文六年)江戸に生まれた。一三歳の時、将軍綱吉の医者であった父が不興を買い房総に移住を余儀なくされた。二七歳の時江戸に帰り、私塾を開いて儒者としての活動を始め、三一歳の時、ようやく綱吉の側近柳沢吉保に仕えることになる。当初は一五人扶持であったが、柳沢の出世により最後は五〇〇石取りとなる。一七〇九年、徂徠四四歳の時綱吉が死去、六代家宣の時代を迎え、白石の「正徳の治」が始まり、前述のごとく雌伏の時を過ごす。徂徠の思想の軸は、実学志向の儒学に尽きる。理を重視する朱子学を批判して「朱子流の理学、又大きなる害なり」(『太平策』)と言い切り、「修身・斉家・治国・平天下」という徳目拡大型の理想主義的儒学とは距離をとり現実を直視する実学を目指した。

  徂徠研究に足跡を残したのが丸山真男であった。私が大学で政治学を学び始めた一九六〇年代末、丸山の『日本政治思想史研究』(東大出版会、一九五二年)に出会い、「近世儒教の発展における徂徠学の特質」という論文を読んだ時の衝撃は今でも覚えている。かの赤穂浪士の処分問題についての徂徠の関与についての記述である。東映時代劇の「忠臣蔵」的知識しかなかった私にとって、綱吉期の幕政に重要な役割を果たした柳沢吉保の家儒として、吉良上野介を討ち果たした義士に対して、助命論が吹き荒れる世情に抗して、徂徠が断固として義士の断罪・切腹を主張したという論点は新鮮であった。「義は己を潔くする道にして、法は天下の規範なり」「私論をもって公論を害せば、此以後天下の法は立べからず」として義士の行動を「義」として是認しながらも、個人道徳を政治的決定に拡張することを拒否した徂徠の姿勢を、丸山は近代につながる「政治的思惟の優位」とし、徂徠学の価値を「政治の発見」とまで表現していた。なるほど、そう考えるのかと学生だったあの時点では大いに啓発されたものである。

  赤穂浪士の討ち入りは元禄一五年一二月だから、現在の暦では一七〇三年の正月となり、徂徠は三六歳だったことになる。ただ、徂徠が義士の処分問題に関与し、裁定に大きな影響を与えたとするのは後代の誇張であり、誤りとすべきであろう。冷静に言えば、柳沢吉保が抱えていた三〇人を超す儒者の中で、この時点では重要な政策判断に関与できる立場になかった。いかに柳沢の権勢が大きくとも、二〇〇石取りの陪臣が幕政を動かしうるなどありえなかった。このことは田原嗣郎『四十六士論』(吉川弘文館、一九七八年)での検証がすべてである。丸山も「細川家に伝えられた文書」(「徂徠擬律書」)や「赤穂義人簒書」などを根拠に、「何ほどかの程度において義士処分問題に関与したであろうことは確か」と述べているにすぎないのだが、物語が独り歩きしてしまったのである。

  世に「人口に膾炙する」という表現があるが、徂徠が赤穂浪士の処断に関与したという話は落語にまで登場する。先日、太平洋上を飛ぶ機内で、「全日空寄席」を聞いていたら立川志の輔が「徂徠豆腐」を演じていた。三遊亭円窓の十八番の古典落語で、豆腐屋にオカラをもらって貧窮を生き延びた貧乏学者が大火で焼き出された豆腐屋に恩返しをする話で、その学者こそ赤穂浪士に武士としての名誉ある切腹という処断をもたらした荻生徂徠であったという落ちである。

  徂徠の白石への敵愾心はすさまじく、『政談』などで再三、「新井ナド文盲ナル故、是等ノコトニ了間ツカヌ也」などと罵倒を投げつけている。徂徠には独自のこだわりがあり、儒学における古文辞的アプローチへの自負が白石を見下した姿勢に現れ出たといえる。つまり、返り点などを打って日本語流に漢籍を理解するのではなく「唐音」、中国語に基づく原理主義的儒教理解にこだわる姿勢である。今で言えば、「英語の発音できない奴は国際人の資格なし」と言っているようなものだ。徂徠の「学問は文字を知るを入路とし、歴史を学ぶを作用とするべし」(『太平策』)などという言葉は心を打つ名言であり、その主張にも一理あるが、行き過ぎると独善になる。

  丸山以降の日本政治思想史の研究がどう進化したかに興味を抱く者にとって、渡辺浩の『日本政治思想史――一七~一九世紀』と『近世日本社会と宋学(増補版)』(ともに東大出版会、二〇一〇年)は、江戸期の儒学のダイナミズムを理解する上で、刺激的である。渡辺は徂徠の意味を明快に「反『近代』の構想」と位置づける。それは「近代的思惟」の芽生えを徂徠に見る丸山的認識を超えた見方である。確かに、徂徠の思想を集約すれば、私益よりも公益を優先させ社会全体の安定を志向していたことは確かで、国家主義の祖型を見て取れる。また、江戸商人文化爛熟の中で武家社会の商業主義化を懸念し、武家の城下町への集中を止め、改革の方向として「人を地に還す」(土着こそ治の基本)ことで質実剛健を取り戻すとして、中国文化大革命期の「農村下放」のような構想を抱いていた。渡辺は「徂徠の思想の根幹は、ときに『近代的』といわれる立場の逆、ほぼ正確な陰画」と言い切る。つまり「反進歩、反発展、反成長」「反都市化、反市場経済」「反平等、反民主主義」として見事に一貫していることを見て取る。戦後なる時代を生き、世界の人権や民主主義に対する潮流や国境を超えた世界経済のグローバル化を目撃してきた現代を生きる人間にとって、この渡辺の論点は腑に落ちるものがある。徂徠は江戸期の統治を支えた賢い儒学者ではあるが、その意味は限定的で白石のごとく視界を広げようとする葛藤はない。

  白石や徂徠に「近代性」を探る視点は、後世の論者の関心にすぎず、「近代」なるものの何に焦点を当てるかによって左右される。私自身も徂徠に近代性を見ないが、徂徠学の影響は大きく、その中から時代を動かす次の思想が生まれていった力学は分る。とくに「制度改革論」の重要性を刺激することで、徂徠学の地平に日本伝統思想の中に「道」を求める本居宣長などの「国学」や藤田東湖などの水戸学の台頭を誘発し、それが皮肉にも討幕の思想の萌芽となっていくのである。

 


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