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 あまりにも有名な逸話だが、一八五六年にフランスの画家ブラックモンが、日本の陶器の包み紙になっていた「北斎漫画」を手にしてその芸術性に驚き、友人のマネやドガに見せて回ったことから、西洋社会における浮世絵への関心が高まり、一八六七年の第二回パリ万博への浮世絵の出展を経て、「ジャポニスム」がブームとなっていった。

 この浮世絵が印象派をはじめ西洋絵画に影響を与えたとする認識を、我々は根底から再考する必要がある。

 

写楽とは何者だったのか

 

 写楽が謎の浮世絵師であることは間違いない。寛政六年(一七九四年)五月から翌年の二月頃までのわずか一〇ヶ月間、忽然と現われて一四三枚の版画作品を、蔦屋重三郎(一七五〇~九七年)という版元から出版し、瞬く間に消えていった。
 江戸期から明治にかけて写楽は評価の高い絵師ではなかった。たとえば、西洋社会への日本文化紹介者として知られるフェノロサが解説した「浮世絵展覧会目録」(明治三一年)では、「写楽は荒怪なる天才」として「米国の蒐集家は之を嫌忌すと雖も、仏国の蒐集家は写楽を頌して浮世絵最大家の一人と為すに躊躇せず、写楽の作は醜陋を神として祭れるにて、従て又衰頽中最も衰頽せるものなり」とされている。(鈴木重三『写楽』、講談社、一九六六年)ところが一九一〇年になってドイツの研究者クルトが『SHARAKU』という本を出版、高く評価したことから、海外で「ベラスケス、レンブラントと並ぶ世界三大肖像画家」といわれるまでになっていった。

 写楽についてはその正体、つまり本名、生年、出身地、修行および作品発表の経緯、一年足らずで筆を断った事情などが明らかでなく、浮世絵研究者ばかりか作家、画家、経済人など多くの論者が様々な仮説を提起し、検証を試みてきたことで謎が増幅されてきた。これまで提起された「円山応挙」「葛飾北斎」「喜多川歌麿」「歌川豊国」「司馬江漢」「谷文晁」「蔦屋重三郎」「十返舎一九」「版元での共同制作」など諸説が入り乱れ、それぞれに一定の根拠があり、それを探ると「浮世絵」を巡る時代背景が多面的に浮かび上がり、実に面白い。

 そこに究極の仮説として登場したのが、「写楽はオランダ人だった」とする島田荘司の『写楽 閉じた国の幻』(新潮社、二〇一〇年)である。出島の商館長の江戸参府に同行した書記官ラスが江戸滞在中に蔦屋重三郎に連れられて歌舞伎を鑑賞して役者のスケッチを描き、蔦屋に依頼された歌麿が敷き写しを行って「写楽」として作品化したとする説だ。荒唐無稽と一笑に付されかねないが、島田は真摯な文献研究を積み上げている。現実に写楽が登場した一七九四年にはオランダ商館長の江戸参府が行われており、ラスという書記官も実在し商館長ヘンミーに同行している。当時二七歳、父がオランダ人、母はバタビア(現在のインドネシア)人で蘭東インド会社のアジアでの拠点バタビア生まれのこの青年に絵心があったか否かは不明だが、カメラのない時代に欧州の外交官の素養として訪問先を絵で描くデッサン力が求められたことは事実だ。ラスは厳密には外交官ではないが心惹かれる仮説ではある。

 「オランダ商館長日記」と日本側の資料によって一七九四年の江戸参府について確認できる事実もある。商館長ヘイスベルト・ヘンメイ(HEMMIJ)(この人物は一七九八年参府の帰路東海道掛川で死亡、墓が掛川にある)、書記レオポルト・ウィルレム・ラス(RAS)、医官A・R・ベルンハルド・ケレル(KELLER)が江戸を訪れ、興味深いことに同年五月に二回、日本橋長崎屋の二階で仙台藩蘭方医師大槻玄沢らと面談している。通訳は大通詞・加福安次郎と小通詞・今村金兵衛であった。また江戸からの帰路、大阪に五日間滞在(六月二一~二五日)して、住吉神社・天王寺を参詣、二回も芝居小屋を訪れて曲馬見物、料亭「浮瀬」(大阪の新清水寺の近く)で食事するなどかなり自由な交流時間もあったようで書記官ラスがデフォルメした役者絵を描く可能性もと想像力を働かせたくなる。

 だが、残念ながら写楽がオランダ人であった可能性は否定せざるをえない。式亭三馬によって補記された『浮世絵類考』(一八二一年時点)など、江戸期の文献において伝えられてきたのは、写楽は阿波藩の能楽師・斉藤十郎兵衛で八丁堀に住んでいたという説であった。私も写楽は誰か別人の変名ではなく、斉藤十郎兵衛という実在の浮世絵師の名であり「写楽は写楽である」というのが自然な判断だと思う。決定的なのは、一九九七年、斉藤十郎兵衛の過去帳が浄土真宗本願寺派の寺院である法光寺(埼玉県越谷市、一九八八年に築地から移転)で発見され、斉藤十郎兵衛は文政三年(一八二〇年)三月に五八歳で亡くなり、八丁堀の地蔵橋に住み、法名を大乗院覚雲居士といったことが明らかになったことである。となると、斉藤十郎兵衛が「写楽」として活動した一七九四年は三一歳ということになる。写楽を論ずる上で、浅野秀剛『写楽の意気』(小学館、二〇〇五年)、同『写楽』(別冊太陽、平凡社、二〇一一年)は、作品を目で確認しながらの考察であり、説得力を感じるが、ここでも斉藤十郎兵衛説が展開されている。

 『浮世絵類考』は江戸期を通じて様々な人が書き加える形で成立した書物だが、その原型を書いた大田南畝(一七四九~一八二三年)は写楽が消えて五年後の寛政一一年(一七九九年)に写楽に言及し、「歌舞伎役者の似顔を写したが、迫真的に描こうとしてあってはならないように描いたので長く人気を保てずに一、二年で作画をやめた」と述べる。写楽と同時代を生きた江戸期を代表する文人南畝は、蜀山人と号して狂歌から洒落本まで出版して人気をえた。同時に幕臣の下級武士として大阪・長崎にまで出役し、真面目に勤め上げている。
 江戸文化爛熟の象徴ともいえる南畝は写楽の版元蔦屋重三郎との親交も深く、写楽が別人の仮名ならばその事情を知らないはずはないといえよう。侍でありながら「狂歌師」というジャンルを拓き、歌詠みを型苦しさから解放してパロディーの世界に引き込み、粋と笑いの江戸庶民文化を形成した彼の立場こそ侍であり絵師たる斉藤十郎兵衛のそれと似ている。南畝については最近小林ふみ子『大田南畝 江戸に狂歌の花咲かす』(岩波書店、二〇一四年)という興味深い作品が出ている。

 写楽のすべてを知る人物は蔦屋重三郎であろう。全作品の版元であり、写楽を世に出した存在である。写楽のみならず歌麿、十返舎一九、曲亭馬琴などの絵師、戯作者を育てた寛政期江戸文化人の中心であった。その彼が写楽を登場させた事情は明白である。写楽登場に遡る六年前、一七八七年からの松平定信による「寛政の改革」によって、風俗の粛清、出版物の取締り、文化抑圧が吹き荒れ、山東京伝は手鎖五〇日の刑、蔦屋も保有する動産・不動産の半減という処罰を受けていた。蔦屋にとって憎むべき松平定信は一七九三年に老中を辞職、ようやく弾圧の嵐が去り、起死回生の策として写楽投入が企画されたことは間違いない。考えてみると、写楽が登場した一七九四年はラックスマンの根室来訪の二年後で、ロシアの接近という危機感が浸透し始めた時期でもあった。江戸庶民文化が爛熟し、歌舞伎・狂歌・浮世絵が持て囃され、武家社会にもそうした気風が浸透し、その一方で静かに体制の軋みが内外圧により認識され始めていた。そうした時代の間隙を突く仇花のごとく写楽は現れ、消えたのである。

 写楽が何故筆を断ち、消えたのかもその脈絡で考えるべきであろう。武士として洒脱や粋の世界に生きることには圧力や反発もあった。また浮世絵師としての技量に関して、自ら見切りをつける気持になったと推察できる。大方の評価は「第一期」とされるデフォルメされた大首絵に向けられ、後半になるほど凡庸になる印象は拭えない。たとえば、第二期の作品として写楽と豊国が同一の歌舞伎演目の同一の役を描いた作品が二〇図存在するが、特に寛政六年七月から都座で上演された「けいせい三本傘」の五図(役者の全身図)を対比すれば、浮世絵に通じた人でなくとも第一期の個性も魅力もなく、絵師としての技量も劣後していると感じるはずである。写楽自身がそのことはわかっていた。写楽が斉藤十郎兵衛だとすれば、消えてから死ぬまでの二七年間、写楽は一切筆をとらなかったことになる。そこに彼の覚悟を見るべきであろう。
   

東西交流史の中の浮世絵

 

 写楽がオランダ人ではなかったことは確かである。ただし、浮世絵の生成発展の過程を注視すれば、そこにオランダの風が吹き込んでいたことに気付かされる。我々日本人は浮世絵こそ日本のオリジナルであり、ジャポニスムの中核だと思い込みがちだが、実は当時の国際交流がもたらした影響を重く受け止めるべきだと思う。「蘭癖」つまりオランダかぶれという表現があるが、憧憬としてのオランダは、江戸期を通じての抑え難い深層底流であった。小野武雄の『江戸舶来風物詩』(展望社、一九七五年)には、江戸期に「阿蘭陀」から渡来した物が紹介されており、「ビイドロ(ガラス)」「コーヒー」「ビイル(ビール)」「ゴム」「カンテラ(ランプ)」「コンパス(羅針盤)」などの他洋菓子の由来が説明されている。ポルトガル由来とされる「カステラ」は有名だが、「タルト」(ジャム入りのカステラ)については松山藩主松平定行が一六四七年、ポルトガル船二隻の入港という事態に長崎探題として出役を命じられた折、「異人館で食し製法を伝授され、帰国後アン入りのタルトを菓子屋に作らせて」、現在も松山名物とされるタルトが生まれたことや鶏卵素麺(卵黄で作った素麺状の菓子)が長崎から伝わって「博多宝来屋」「大阪鶴屋八幡」の名物になったことなど舶来の珍品が器用な日本人に吸収されて全国に伝わる過程が確認できる。

 浮世絵研究家の中右瑛は『阿蘭陀趣味(オランダごのみ)』(里文出版、一九八四年)で江戸期絵画における異国趣味に注目し、江戸庶民が「紅毛渡りの品々」を愛でる様を描いた浮世絵、「ビードロ・グラスで酒を飲む女」等を紹介している。特に風景画における洋風表現の登場に注目、北斎の「近代画法を摂取した洋風版画」が傑作「赤富士」に至る過程を解析し浮世絵が西洋の影響で近代性を帯び変化する流れを捉えている。

 確かに浮世絵の歴史を追い求めていると仰天するような作品に出会う。上の図※1を見てもらいたい。歌川豊春(一七三五~一八一四年)の「浮絵紅毛フランカイノ湊万里鐘響図」と題する一七七二年頃の作品だが、どうみてもベネチアの大運河である。日本人がベネチアなどを訪れるはずもない時代に何故こんな絵が描かれたのか。豊春は「西洋銅版画を浮世絵版画に模写して研究し遠近法を会得した」といわれ、この作品は一八世紀のイタリア人画家アントニオ・カナルの油絵を銅版画にしたものを模写したという。実は、「阿蘭陀絵」といわれる銅版画から模写した異国風景の浮世絵は他にも存在し、「世界七不思議」に由来する絵など物珍しさから人気があった。豊春や江漢の銅版画の影響を受けたところに北斎がいるわけで絵画史における東西交流という視座の重要性を示唆される。

 『ディドロ、18世紀のヨーロッパと日本』(中川久定編、岩波書店、一九九一年)に「一八世紀の日本における絵画史の動向」(佐々木丞平)という論稿があり「長崎という窓口を通して新しい気流が流れ込んできた。一つは中国、今一つはオランダからであった」と述べる。一七世紀の中国からは黄檗宗の画僧逸然(一六〇一~六八年)をはじめとする画家の来日が続き、円山応挙などに深い影響を与えた。中国の百科全書といわれる「三才図会」の伝来も大きなインパクトであった。
 また、ジャック・プルースト『16‐18世紀ヨーロッパ像』(原書一九九七年、邦訳一九九九年、岩波書店)の第六章「一八世紀の日本美術における『ガリレイ』革命」などを読むと、一七世紀のオランダが絵画の世紀で、商業が支配的な時代を背景にレンブラントやフェルメールなど美しく良質な絵画を蒐集し壁にかける商人が多く登場したこと、そのオランダから長崎を通じてキリスト教関係のものを除く花鳥風月の絵や書物が静かに流入し日本人に吸収されていったことがわかる。

 あらためて、浮世絵なるものの生成発展を辿るならば、一五世紀の後半の戦国から統一政権の成立を背景に「憂き世」から「浮世」へと時代の気風が変り、慶長期(一五九六~一六一五年)に初めて木版の挿絵入りの「仮名草子」が生まれ、「浮世絵のルーツ」とされる岩佐又兵衛(一五七八~一六五〇年)が登場する。戦国の領袖荒木村重の子で、信長による一族皆殺しの中で乳母に助けられ生き延びて絵師になったという数奇な存在で、師宣らの浮世絵人物画に影響を与えた。次に、延宝期に挿絵から独立した一枚絵の絵師として「見返り美人図」で有名な菱川師宣が登場、浮世絵の流れが見え始める。そして一七六五年、鈴木晴信が多色摺りの「錦絵」を完成させ、一段と艶やかなものとなった。この晴信の弟子が司馬江漢であり、オランダ銅版画に強く惹かれ一七八二年にシュメールの「百科事典」をもとに初めての和製銅版画を作成した。

 江戸町人文化の爛熟と相関して浮世絵も花開いた。一六四一年に仮名草紙『そぞろ物語』、一六八二年には浮世草子という新様式を開いた井原西鶴『好色一代男』が出版され、大衆芸能では一六二四年に初代中村勘三郎(猿若勘三郎)が江戸に下り、中橋南地(現在の日本橋付近)に猿若座(のちの中村座)を立ち上げ江戸歌舞伎が生まれた。こうした時代の空気と並走しつつ浮世絵も誕生し、そこにオランダからの風も吹きこんだのである。一七世紀の日本はメディア革命期でもあったのだ。文字と出版が本格化し、大久保純一『浮世絵出版論 大量生産・消費される〈美術〉』は、町人文化の成熟を背景に浮世絵が「版元・絵師・彫師・刷師」という分業体制で量産し販売する時代の到来を解析している。オランダからの銅版画、中国からの木版画の技術を巧みに吸収しながら、日本流の高度な木版印刷の精華として浮世絵が花開いたのである。

 

※1 ここで紹介されている図は、著作権上の都合により掲載しておりません。
   何卒ご理解の程をよろしくお願いいたします。

 


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