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岩波書店「世界」2014年8月号 脳力のレッスン148 多摩の地域史が世界史に繋がる瞬間―― 一七世紀オランダからの視界(その23)

 二〇〇九年から東京の西、多摩市に本拠を置く多摩大学の学長を引き受けている。力を入れていることの一つに「多摩学」がある。教職員・学生が力を合わせこの地域の歴史や埋め込まれたDNAを掘り下げており、地域性を探究することが実は日本全体、そして世界と繋がっていくことを検証している。所謂「グローカリティー」を確認するアプローチである。羽田空港辺りに流れ出る多摩川と茅ヶ崎海岸に流れ出る相模川に挟まれた地域を広義の「多摩」として我々は研究を深めているが、歴史的に多摩とは多摩川の流域を意味してきた。江戸期には武蔵国二一郡の一つの多摩郡を指し、明治期には北多摩、西多摩、南多摩の三郡とやがて東京都に編入されてなくなる東多摩を加えた四郡を「多摩」といった。三多摩が神奈川県に編入されたのは一八七一年(明治四年)であった。

八王子千人同心と朝鮮通信使、そして蝦夷地入植

 

 一五八二年(天正一〇年)、甲斐武田氏が滅亡(三月)し、織田信長が本能寺の変で死ぬ(六月)と甲斐は徳川家康の支配下に入った。家康は武田家臣団を自らの家臣団に組み入れ、一五九〇年の関東入国(秀吉による関東への移封)に際し、武田家臣団の親衛隊に属す小人頭衆を武蔵国の警備と江戸防衛を担う在郷武士団として八王子に移した。これが一六〇〇年頃には一組百人で、一〇組千人の「八王子千人同心」を形成したのである。千人同心については、村上直編『江戸幕府千人同心史料』(文献出版、一九八二年)『八王子千人同心史料』(雄山閣出版、一九七五年)、八王子市教育委員会『八王子千人同心関係資料集』などの史料性の高い研究が存在する。半士半農の千人同心は所謂「郷士」として精強であった。その伝統的武術は長柄の槍術であったが、江戸後期には剣術を中心とする総合武術の天然理心流が浸透した。これは近藤内蔵助が寛永年間に創始した、新撰組の近藤勇や土方歳三の流派で、千人同心の一族からも井上源三郎、中島登の二人が新撰組に参加している。なぜ多摩の調布から近藤、日野から土方が、そして八王子の千人同心が京に向かったのであろうか。それが多摩という土地を理解する鍵であり、幕府の直轄地・旗本領であった多摩の若者は幕藩体制の動揺と動乱の血の騒ぎを感じ、政争の中心地たる京へと引き寄せられていったのであろう。

 話を巻き戻して一七世紀つまり江戸時代初期、八王子千人同心は志操堅固さ故に次第に評価を高め、一六五二年以降は神君家康を祀った日光東照宮の警衛役(日光火消役)を拝命していた。一六一七年に家康の霊柩を駿河の久能山から日光に移す行列に供奉して以来、将軍秀忠・家光の参詣に幾度となく供奉するなど日光との縁は深かった。日光に配置されていた千人同心が朝鮮通信使の日光参拝の警護を担ったという事実がある。多摩の地域史が国際交流史に繋がる瞬間である。
 朝鮮通信使については既に触れたごとく(本連載22)、江戸期に一二回李王朝の使節一行が日本を訪れ、そのうち三回(一六三六、四三年、五五年)日光東照宮を参拝した。幕府にとっては外国使節を迎えることで「権威づけ」の意図があり、朝鮮王朝としては朝鮮出兵した豊臣を滅ぼした徳川への敬意を込めた参詣との背景もあった。使節一行には「朱塗りの神橋を渡る将軍並みの国賓待遇」が与えられたと記録されている。
 
 さらに一八〇〇年(寛政一二年)、同心頭・原半左衛門が千人同心の次・三男一〇〇名を率い蝦夷地に向かった。半左衛門は原家の十代目で初代は甲斐武田家目付役、三代は秀忠傘下で関ヶ原・大阪冬の陣・夏の陣にも従軍した家系であった。ロシア接近への緊迫感を背景に幕府は「警護と耕作」を担う部隊の派遣を思い立ち、半士半農の千人同心に白羽の矢が立った。一七九二年のラックスマン根室来航と一八〇四年のレザノフ長崎来航の間の時期で、松前藩などへの出動要請だけではロシアを抑えきれないという幕府の不安が「屯田兵」の先行モデルともいうべき千人同心の蝦夷地入植・駐屯となった。
 彼らが入植したのは勇払(現在の苫小牧)と釧路近くの白糠であった。実はこの白糠こそ私が小学二年生までの三年を過ごした土地で、不思議な縁を感じる。私は父が石炭会社勤務のため北海道沼田町の炭坑で生まれ、父の転勤により白糠の庶路地区に移った。千人同心の白糠入植関連の史料には「庶路」という地名が入植地東端の分駐所を置いた場所として登場する。記憶の中の白糠は恐ろしいほどの太平洋の大波が押し寄せ濃霧に閉ざされることも多い自然環境の厳しい所であった。それ故に短い夏の輝きと秋の美しさの中で庶路川を遡上するシシャモを釣ったり、砂浜から遥か太平洋を見渡すのが好きであった。それにしても二百年以上前この酷寒の地に多摩からの入植者がいたという感慨は深い。彼らは先住民アイヌとも交流を深めていたようだ。ロシアの接近という歴史のうねりは多摩と北海道の数奇な出会いを触発したのである。

 勇払に入植したのは半左衛門の弟の新助が率いる五〇名であった。一七九九年に東蝦夷地の直轄を決めた幕府は、ここに地域を統括する役所(勇払会所)を配置し、千人同心の配置もこれを支える目的もあった。そのため勇払会所の記録には幕府の役人たる小人目付の高橋治太夫、医師の月輪安斉などの名が見える。ラックスマン来航の衝撃がいかに強かったかであり、伊能忠敬が蝦夷地南東部沿岸の測量を命じられたのもこの頃で、忠敬は蝦夷地で半左衛門、新助らに会っている。
 ところが、一八〇四年(文化元年)二月に幕府は蝦夷経営の縮小方針を決定、わずか四年足らずで千人同心の開拓事業も取り止めとなり、半左衛門は箱館奉行の調役、新助は有珠牧場取締に転ずるなど、幕府の無定見な方針変更に運命を翻弄され続け、半左衛門は一八〇九年には八王子で千人頭に復帰する。レザノフ率いるロシア艦船が長崎に現れたのは、幕府が方針転換した七か月後の一八〇四年九月であった。
      
明治維新とそれ以降の多摩―――自由民権運動への伏線

 

 幕末から明治にかけて八王子千人同心、そして多摩が辿った過酷な歴史は凄まじい。正に歴史の激流に飲み込まれていくのである。一八六五年、第二次長州征伐に当たり、千人頭窪田喜八郎はじめ銃砲隊三〇〇人と長槍隊一〇〇人が動員され、将軍家茂に同行して東海道を南下、大阪に着陣し広島から激戦の小倉口に派遣された。幕府の正規の歩兵隊を派遣できない兵員不足を補うための出兵で、劣悪な環境に置かれて多くの病死者を出し、消耗の果てに一年半後に帰郷している。
 一八六七年の大政奉還後、翌年三月には討幕の東征軍参謀の土佐藩板垣退助らが八王子に進駐、千人同心は恭順の誓詞血判を差し出すが、徳川に心を寄せて徹底抗戦を主張する者も多く二〇〇名もが江戸で「彰義隊」に加わり、結局千人同心は同年六月に解散。解散時の数は八九四人で大多数は土着派として脱士着農の道を歩み中には朝臣派として神奈川県兵になる者もいたが、徳川に随従して駿府に移る少数派もいた。
 結局、八王子千人同心とは何だったのか。兵農分離を基本に成立した江戸期日本において、幕府直轄の郷士集団としてある時は武士のように利用されある時は農民として身分制の枠に押し込められ、複雑な心理を内包した集団として存在し続けた。このことが多摩という地域を際立たせたともいえる。明治五年戸籍法が公布され土着派の帰農千人同心は平民籍とされたが、その心理は複雑で、「復籍復禄請求」という形で「士族」として認められるよう求めた裁判が大正期まで続いた。

 初代神奈川県令は海援隊士でもあった若き陸奥宗光で、開明派であり理不尽な弾圧がなされたわけではないが、幕府の直轄地であった多摩の人々には、薩長土肥の藩閥が新しい支配層として登場してきたことにわだかまりと不満が存在していた。この潜在する不屈の「何くそ魂」が多摩という地域に「自由民権運動」を開花させる要素となったことに気付く。
 自由民権運動は、一八七四年(明治七年)征韓論に敗れて下野した四人の前参議板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが民選議会設立の建白をして愛国公党を結成したことで動き始めた。いわば明治新政権の内紛の延長でもあり、運動の主体は不平士族であった。当初は「士族民権」というべき性格の運動で主張も不明確であったが、次第に地方豪農、都市知識人、豪商層主導の運動へと性格を変えていった。
 一般的に自由民権運動は「人民の自由権、参政権の獲得を目指し、国会開設、地租軽減、対等な条約改正の実現を要求した日本最初の民主主義運動」と総括され、「明治二三年に国会を開設するという勅諭」を引き出した一八八一年頃を頂点とし、実際に帝国議会が開設されて明治憲法体制が確立する一八八九年(明治二二年)頃までの国民運動といえる。

 民権派結社の統合という形で自由党が設立されたのが一八八一年、総裁は板垣退助であった。板垣が語ったのが「神奈川は自由の砦」という言葉である。そして自由党員名簿によれば、神奈川でも特に三多摩に党員が集中しており、一四八人が入党している。自由民権運動と千人同心の関係は微妙で、千人同心系の人物が多摩の自由党の中核を形成したとは言えないようだ。それでも土方健乃助、日野義順(南多摩)や「五日市憲法」という民権型の憲法草案作成に尽力した深沢権八(西多摩)、そして板谷元右衛門(北多摩)など、千人同心の家系者が自由民権運動に参画している。多摩の自由民権運動については色川大吉編『三多摩自由民権史料集』(大和書房、一九七九年)など多くの文献研究により解明が進んできた。これらの運動がどこまで深く「民主主義思想」を共有していたかについては疑問が残る。一八七九年には植木枝盛の『民権自由論』が出版され、市民的自由の確立、そのための国会開設、憲法制定、地方自治の重要性、そして民衆の抵抗権、革命権までが主張されていた。また同年、中江兆民がフランスより帰国し、番町に仏学塾を開きここを拠点に活動を始め、一八八二年にはルソーの『民約訳解』を出版し民権運動の思想的骨格を提起した。だが、総体的に見て多摩に限らず自由民権運動には明治新政権への反発・抵抗という意図が絡み合い、「士族民権」「豪農民権」的な限界が内包されていた。明治政府が「天皇制絶対主義」体制を固め富国強兵で自信をつけ近隣との緊張を高める過程で、国民意識は国家主義へと引き寄せられていく。明治二〇年代、憲法発布と帝国議会開設の前後から自由民権運動は曲折・迷走、多摩でも「三多摩壮士」といわれる屈折した存在が登場した。村野常右衛門、森久保作蔵など「民権を主張して壮士を自認する愛国者集団」、時に院外団的政治装置として騒擾を引き起こす集団が「自由」と染め抜いた羽織を着て闊歩する事態が生じている。民主主義がいつのまにかナショナリズムに変質する土壌、日本人の精神風土はこの一三〇年間、あまり変わっていないようだ。

 再考するならば、多摩の本質を示すキーワードは「周辺性」「境界性」ではないだろうか。江戸に近接し江戸を支えながら江戸そのものではない。八王子千人同心も武士なのか百姓なのか、常にアイデンティティへの葛藤を潜在させている。都合よく徳川体制に利用されながら、なお正当な認知と評価を求め苦闘する姿こそ多摩を象徴する姿に思える。そして、歴史を突き動かすエネルギー源は周辺と境界にプールされる。龍馬も「郷士」、新撰組の近藤・土方も「剣を学び武士の志を抱く百姓」であり、千人同心と同じくその苦闘の中から時代は軋み始める。今や東京のベッドタウンと化した多摩であるが、自由民権運動、そして戦後の「多摩自由大学」的動き、新党ブームへの呼応が生まれる土壌が埋め込まれている。

 



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