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岩波書店「世界」2014年4月号 脳力のレッスン144 「朝鮮通信使」にみる江戸期の日朝関係 ― 一七世紀オランダからの視界(その21)

  江戸期日本において一六七回行われた長崎オランダ商館長の江戸参府と共に、多くの日本人が「外国」を認識する機会となったのは一二回行われた朝鮮使節一行の来日であった。その大行列のインパクト、使節に象徴される良好な日朝関係が明治期に反転していく歴史の断層には深く考えさせられる。


朝鮮李王朝の世界観と日本認識

 朝鮮李王朝は一三九二年に始まり一九一〇年の日本による朝鮮併合に終わるが、一七~一九世紀にかけては日本の江戸時代と並走したことになる。その性格を理解するには、それに先駆けて朝鮮半島を統一し五〇〇年に亘って半島を支配した高麗王朝を知る必要がある。高麗王朝は一二五九年にモンゴルの侵攻に降伏し、「モンゴル化」という苦難の時期に入る。第二五代忠烈王はフビライ・ハン(世祖)の実娘を王妃に迎え、息子の第二六代忠宣王もモンゴル女性を王妃としたため第二七代忠粛王に至っては「四分の三がモンゴル人の血」となってしまった。朝鮮史においては「日本征伐」とされる元寇(一二七四年文永の役、一二八一年弘安の役)もモンゴル支配下の高麗による日本侵攻でもあった。その後一四世紀における東シナ海は「倭寇」による無法の海と化すが、倭寇の鎮圧に功績のあった高麗の将軍李成桂のクーデターによって一三九二年に成立したのが李王朝であった。したがって李王朝は徹底してモンゴルの影響を排除し、中国において再興する漢民族の明にアイデンティティを求める傾向を強めた。李王朝が抱いたアイデンティティについて、河宇鳳は「自らを中華と同一視して『小中華』と称し、中華である明と一体化する一方、周辺国家の日本・女真・琉球を他者化し、『夷狄』とみなした」(『朝鮮王朝時代の世界観と日本認識』、二〇〇七年)と述べる。李王朝は室町期の「日本国王使節」を対等ではなく一段低く見て接遇し、野蛮な「倭寇の巣窟」、文化的にも低い存在と見ていた。一七世紀に「中華」の中核たる明朝が衰亡し女真(満州族)の清により消滅すると、朝鮮こそ中華の唯一の継承者であり守護者であるという思い入れが強まり、「朝鮮中華主義」との自我意識に埋没していく。この自我意識が近代史における朝鮮の悲劇の伏線になっていくのである。その朝鮮にとって豊臣秀吉による二度の朝鮮出兵(「文禄・慶長の役」、朝鮮では「壬辰倭乱」)の衝撃は大きく、「五万人」ともされる捕虜を日本に連れ去られ、悲惨な消耗を強いられた。


      
徳川家康の世界観を投影した朝鮮半島との和解

 朝鮮出兵を巡る日朝間の緊張緩和が徳川政権の課題であった。家康は慶長の役に反対し秀吉の死後前田利家と共に撤兵を主導した。関ヶ原の直後から対馬の宗氏に国交回復交渉を指示、「内々に書を遣わして尋ね試み、合点すべき点あれば公儀よりの命と申すべし」と、戦後処理に向かう姿勢を示した。
 宗氏は動いた。徳川政権と李王朝の間に入って双方の面子を立て国交回復への道を探った。ここに「国書偽造とその露呈」という事態が起こる背景があった。最大の懸案事項は拉致された捕虜の返還であった。一六〇七年に国交が回復し、江戸幕府の体制になって最初の朝鮮使節が来訪するが、朝鮮側の呼称は「通信使」ではなく「回答兼刷還使」であり、目的は日本側からの国書への答礼と倭情探索、そして何よりも被虜人刷還にあった。事実この時一四〇〇人もの捕虜を連れ帰っている。一六一七年、江戸期になって二回目の朝鮮使節が来訪するが、この時も三二一人の捕虜を連れ帰っており、通信使という呼称で「泰平の祝賀」と純粋な交流促進の目的で朝鮮使節が訪れたのは第四回、一六三六年のことであった。
 朝鮮出兵の戦後処理という課題がいかに根深く日朝関係に横たわっていたかを考えさせられるのが、一七一九年の朝鮮使節(第八回)が引き起こした「方広寺大仏殿前招宴拒否事件」で、使節からすれば秀吉が建てた方広寺参拝などできないというものであった。ここには高さ一四mという京都最大の大仏が存在した。秀吉が建立した大仏は慶長大地震で倒壊、関ヶ原に勝利した家康が豊臣の財力を削ぎ落す深慮で「亡父供養」の名目で秀頼に再建を促した因縁の大仏だった。問題は大仏殿の近くに朝鮮出兵時に戦果の象徴として朝鮮兵士の耳や鼻を削いで持ち帰ったという「耳塚」があり、使節訪問に際して幕で遮蔽するなどの配慮がなされたようだが、恒例の大仏殿見物は一七四八年の第一〇回使節以降中止となった。
 対馬の宗氏にとって朝鮮半島との貿易の独占は極めて重要であり、日朝の国交修復にも真剣にならざるをえなかった。一六〇九年には貿易協定を実現し、釜山には倭館と呼ばれる貿易の出先を設け、「一〇万坪、五〇〇人」という体制で布陣した。江戸期を通じて朝鮮からの重要な輸入品は京都西陣に供給する中国産の絹の白糸と朝鮮人参であった。朝鮮人参は八代吉宗によって国産化への試みがなされるが、高級な薬品として珍重され宗氏に大きな富をもたらした。何としても李王朝と徳川との関係を密にしたいという宗氏の思いの強さが「柳川一件」といわれる国書密造事件が起こる背景にあった。
 宗氏は幕府から李王朝への国書を偽造してまで日朝国交回復を図ったのである。それが貿易再開、朝鮮答礼使節の来訪をもたらしたのだが、思いもかけぬ形で国書偽造が露呈する。それが「柳川一件」である。一六三三年、対馬藩家老柳川調興が主家に反逆し幕府に国書偽造の?末を訴え出た。柳川は対馬藩士であるとともに直参旗本という微妙な立場にあり、徳川が対馬を抑えるために送り込んだ存在でもあった。一六三五年三月、事態は江戸城の将軍家光の前での裁決に持ち込まれ意外な決着を迎えた。対馬藩の取り潰しも予想されたが、柳川は津軽に流罪、柳川の指示で国王印の偽造を行った松尾七衛門は死罪、藩主宗義成は不問、藩主の勝訴であった。既に三回の使節を受け入れ軌道に乗り始めた朝鮮外交の安定的継続を優先させ、そのための対馬の役割を重視したのである。
 ただしそれ以降対馬の動きを掌握し対朝鮮外交力を高めるべく、朝鮮との意思疎通能力を持つ漢籍に明るい京都五山の優秀な僧侶を輪番で対馬に張り付かせた。対馬藩も藩儒を召し抱え、教養の高い使節に向き合う体制を整えた。その代表格が一八世紀初頭の対朝鮮外交に足跡を残す雨森芳洲である。芳洲は木下順庵門下で新井白石とは兄弟弟子、対馬藩の真文役(外交担当)として仕官、第八回(一七一一年)と第九回(一七一九年)の使節に対応。『交隣提醒』を著し、誠心外交の重要性など四十数項目を指摘した。漢籍のみならず朝鮮語、中国語にも通じ高潔な人格は朝鮮側にも強い印象を残した。
 江戸期の日朝関係を考える時、朝鮮王朝を揺さぶった東アジア情勢の変化に目を向けておくべきであろう。日本との親交を求めた朝鮮王朝の本音には背後に迫る満州族の後金の圧力に配慮せざるをえない事情があり、対日関係を安定化させておきたいとの思いがあったことは間違いない。満州族を統一したヌルハチが一六一六年に建国した女真は次第に明朝をも圧迫して清を建国(一六三六年)し、中原に覇をなすに至る。
 李王朝が後金そして清から受けた屈辱は尋常ではない。まず一六二七年には三万人の後金兵力の侵攻を受け、一六代王仁祖は首都漢城から四〇kmの江華島に避難、明との断交を約束し講和を余儀なくされた。さらに一六三六年清に国号を変えた満州族は一二万人の兵力で侵攻、仁祖は漢江の辺で清の二代皇帝太宗の前に跪き屈辱の謝罪をさせられ、賠償金と皇子三人を人質として瀋陽(当時の清の首都)に差し出すことを強いられた。仁祖は憎しみに燃えて復讐を誓い、この心理が日本との親交に向かわせたともいえる。「小中華」をアイデンティティとする朝鮮王朝とすれば、「中華」本体の明が滅びていく混迷の中、必死に後門の安定を図らざるをえなかった。


      
朝鮮通信使の意味――近代史に投げかけたもの

 通信使は江戸期に始まったのではない。一四一三年、室町幕府将軍足利義持の時朝鮮王朝は「倭寇禁圧の要請と国情調査」を目的とする通信使派遣を決定したが、正使の病気で中止。しかし一五九六年の派遣まで八回にわたり使節を送った。一五九六年の使節は文禄の役後の講和交渉が目的で、小西行長や宗義智が尽力したが秀吉との謁見はかなわず空しく帰国した。江戸時代の通信使は正確には再開である。現在日韓共に研究が深まっており、李元植・大畑篤四郎他『朝鮮通信使と日本人』(学生社、一九九二)、『大系朝鮮通信使・全八巻』(明石書店、一九九六)、仲尾宏『朝鮮通信使と江戸時代の三都』(同、一九九三)、辛基秀『朝鮮通信使』(同、一九九九)、西村毬子『日本見聞録にみる朝鮮通信使』(同、二〇〇〇)等が示唆的である。
 間違ってはならないのは、通信使は朝貢使節ではなく、「通信」とは信義と誠を通じるの意で、対等な友好使節だということだ。既に述べたように三回目までの江戸期朝鮮使節は被虜人の刷還が主目的だったが、次第に外交的意味だけでなく文化的意義を大きくしていった。一八一一(文化八)年の最後の通信使は人員も三二八人にとどまり対馬での国書の交換で終わったが、それ以外は約五〇〇人にも上る大型使節で、儒学者・絵師や楽団まで加わって日本側の知識人と筆談唱和し書画や贈答詩を残しながら文化交流を深めた。箱根湯本の早雲寺には『朝鮮国雪峯』(書使として一六四三年と一六六五年使節に参加した金義信)の墨跡が、品川の東禅寺にも雪峯の『海上禅林』の書が残されている。新井白石も一六八二年の使節に自作の『陶情詩集』を示して序文と跋文をもらったことが木下順庵に注目される契機となり、幕府に登用される道を拓いた。白石は一七一一年には朝鮮通信使迎接役になり手腕を発揮した。一行の楽団パレードは多くの日本人に衝撃を与え、唐人行列、唐人踊、馬上才(曲馬)は今日の韓流ブームどころではない人気を博して各地の行事や芸能に影響を残した。興味深い偶然もあった。第四回使節(一六三六年)の行列を江戸参府中のオランダ商館長クーケパッケルが目撃し、「行列が通り過ぎるのに五時間かかった」と記述している。オランダ商館長一行の参府は、あくまで株式会社の地域代表の表敬訪問だが、朝鮮通信使は国家を代表する外交使節であった。
 この良好な日朝関係が、皮肉にも明治維新以降の関係の暗転をもたらす。「親徳川」の空気を内在させた李王朝にとって明治維新は薩長藩閥による武力クーデターであり、新政権の承認には躊躇が生じた。それまでの国書とは異なる書式に違和感があり、それが意思疎通における誤解を増幅する事態も起こった。日本側には「無礼だ」とする認識が高まり、早くも明治六年に「征韓論」が登場することとなった。李王朝の悲劇は、隣国日本が列強模倣の「明治近代化路線」を走り「富国強兵」へと進む中、小中華意識を潜在させながら自己変革へと進みだせなかったことである。朝鮮半島を取り巻く列強の利害に振り回されて迷走を続け、ついには日本による「朝鮮併合」という事態に追い込まれ歴史の被害者となっていく。今日に至るまで複雑に屈折する日本と朝鮮半島の関係を考える時、歴史の曲折を静かに確認する視界が大切である。


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