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2018 WINTER


【日総研会長室だより】

地方公共団体から(一財)日本総合研究所会長室にて研修中の2名が、「地域の魅力」をキーワードに郷土の可能性について論じます。


◆幕末明治の福井藩士  
 藤原 毅(福井県庁)

 
 上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ―。五箇条の御誓文の第二条では、国民一体となって国家を治めることが明治維新の大方針のひとつとして掲げられています。御誓文の原案を作った福井藩士・由利公正は、その生涯を経綸に尽くしました。彼にとっての経綸とは、経済(経世済民)でもありました。

 越前を代表する福井藩は、徳川家康の第二子である結城秀康を祖とし、幕末の頃には時代をリードする人材を輩出しました。幕末の四賢候と謳われた第十六代藩主・松平春嶽は由利公正や橋本左内らを登用、藩政改革を行うとともに、明治国家の基盤整備に尽力しました。由利は藩内で農工商の多くの人の話を聞いて歩いたことや江戸や黒船から受けた刺激をもとに、果敢に藩財政の建て直しに挑みました。失敗や不遇の日々もありましたが、オランダと生糸や醤油の取引をして利益を得るなど、財政の黒字化につなげました。彼の視点は領民をいかに働きやすくするか。その底流には、師である横井小楠の「民富めば国富む」という思想があり、領民からできるだけ安く産物を買い上げて藩の財政収入を得ようという従来の藩専売や倹約による財政再建とは発想が異なるものでした。当時の武士階級におけるその経理的才能は稀であり、交流のあった坂本竜馬もその才能を評価、新政府への参画のきっかけとなりました。明治政府においては、越前和紙を使用した太政官札を発行し、貨幣制度の基盤づくりに貢献。東京府知事時代には、銀座大火で罹災した地域を不燃の煉瓦造りの街にすることを計画・実行しました。銀座通りの一角には、現在も彼の功績を称える「煉瓦銀座之碑」[写真]が残っています。

 グローバル化やデジタル化が進み、少子高齢化という未曾有の事態に直面する現代において、いかにして新しい国や地方を切り拓いていくのか。明治百五十年という時代の節目において、先人の足跡を振り返り、地域の将来を考える契機としていきたいと思います。

   

◆「さきたま」と「さいたま」の生まれたところ  安田 俊一(埼玉県庁)

 
 2018年4月から埼玉県庁から日本総合研究所会長室に派遣されて参りました安田と申します。前任の猿田に引き続き、宜しくお願い申し上げます。

 2018年は「明治維新150年」のキャンペーンが全国各地で行われており、明治時代が注目されています。「埼玉県」も明治4(1871)年に誕生しました。当時は、荒川以東の埼玉県と、荒川以西と熊谷以北の入間県がありました。その後、入間県は群馬県と合併するなどありましたが、明治9(1876)年に現在の埼玉県がほぼ確定しました。埼玉の名称の由来は、当初県庁が埼玉郡岩槻町に置かれる予定だったことにあります。しかし、岩槻町には県庁に適した建物がなく、足立郡浦和町に仮庁舎が置かれスタートし、明治23(1890)年に正式に北足立郡浦和町が県庁所在地となりました。埼玉とは何の由来もなかったはずの浦和市は、平成13(2001)年に大宮市、与野市と合併し、さいたま市となります。長い歴史の中でいつの間にか、埼玉県の南部東寄りの地域が「さいたま」と世間に浸透していきましたが、元々は県北部の行田市大字埼玉(さきたま)がその由来となっています。ワカタケル大王の名前が見られる鉄剣で有名な稲荷山古墳は埼玉(さきたま)古墳群にあり、古くから埼玉(さきたま)が歴史に登場してきました。「埼玉」の地域は、荒川とともにあった地域です。江戸時代の西遷事業の前の荒川は、現在の元荒川に名残がありますが、行田市や熊谷市も流れていました。県北の「さきたま」の地を潤した荒川が、県南部の平野部を形づくり、そして今の「さいたま」を生みました。荒川の水源は秩父地方です。母なる海という言葉がありますが、さいたまに生きる私にとっては、母なる秩父です。

 秩父地域は、人口減少が続いていますが、観光を糧に地域を盛り上げようとしています。東京から近い自然豊かな地で、春は桜、夏は川遊び、秋は紅葉[写真]、冬はつらら。母なる秩父を一度感じてみてはいかがでしょうか。